落陽

 のそのそ町の商店街を歩く男。惣菜屋でおかずを買い、酒屋に行き黒ビールを買い、肉屋でコロッケを買い、うらぶれたアパートへ帰っていく。

 のろのろビールをあけ、ごくごく。やっと食欲が出たところでコロッケとおかずをもしゃもしゃ。

 桑瀬正(くわせただし)。凜の元夫である。

 今うつ病の診断がくだり会社には休職届けを出して休んでいる。

 とにかく何もやる気が出ない。疲れやすい。ため息ばかりでる。頭がきりきりと痛い。医者からもらった薬を飲んでも全く効かない。

 しかし明日は一人息子の陽士と会う日だ。そう考えると気が張ってきて気分がよくなる。

 いつものように車を掃除し、ガソリンスタンドに行き給油がてら洗車をする。

 知らず知らずのうちに上機嫌でアパートへ帰る。親権を凜に譲ったことを後悔している。凜の精神病を心配しているのだ。どうか突発的に陽士にあたらないようにと。

 次の日、月に一度陽士に会う日。駅前で陽士を発見。車に乗せる。

「背、伸びたんちゃうか」

「うん、3センチぐらい」

「伸び盛りや、おれみたいに160でストップせんようによう眠りや。飯もええもん食いや」

「それは心配ないわ。よう眠れてるし、うちではいつもごっそうがでるしな。毎日牛乳飲んでるし」

「今日どっか行きたいか」

「いつものレストランでええわ」

 車はレストランの駐車場に入る。

「お母ちゃん入院してるんやろ。まだ出てこんのかいな」

「あと二ヶ月やて。おいやんがな、見違えるようになって帰ってくるて言うてたわ。なんでも薬を変えてもらうように主治医の先生に言うたらしいわ。ほんまに発作が出らんようになったらええんやけど。おれ、来年受験やし」

「そうか、早いな。もうそんな歳か」

 正は感慨深げに陽士を見る。

「おかんがようならんやったらな、おいやんがなんかプレゼントくれるらしいわ」

「プレゼント?」

「うん、おいやん金持ちやん。ええもん期待してんのやけどな」

「ええもんやったらええな」

 正は唐揚げ定食。陽士はカツカレーを注文する。

 陽士はためらいがちに正に聞く。

「会社には行けてんのか」

「……今またうつがひどくなってな。休職中や」

「どうやったらようなんねん」

「分からん。一人っきりやからかな。なんもやる気せんねや」

 陽士はため息をつく。

「おとんもおかんもホンマに……」

「すまんな、心配かけて」

 正はこうべを垂れる。

「そうそう、この前おかんに面会に行ってん。そしたらな、なんや明るいねん。最近見たことないほど。なんでやって聞いたらな……」

「なんでや」

「ひ・み・つやと」

「なんやその話」

「でもな、おれは知ってんねん。おいやんにこっそり聞いてん。ほしたらな」

 カレーをもぐもぐ。

「なんやねん、じらすなや」

「出会い系って知ってるか」

「知ってるで。それやってんのか!?」

「そうや。おいやんが勧めたらしいわ。新しい人と、新しい人生をやり直すんやと」

「それやると明るくなんのか」

「楽しいらしいで。楽しかったらうつもようなるやろ。おとんもやってみたらええやん」

「でもそんなんサクラとか詐欺師とか……」

「そんなん考えとったら前に進まんやん」

 想像以上に大人になっているなと正は息子の成長を感じた。

「身内じゃ分からんけど、おかんもてもてなんやと。でも危ない人もおるやろ、そんな時はおいやんに聞いてるわ。おいやん頭ええしな」

「ふ~ん、なんか新しい世界の話を聞いてるみたいや。でもまあおれは遠慮しとくわ。怖いわ、そんなもん」

「おれに遠慮はいらんで、おとん。別の女の人と結婚することになっても」

「知らん知らん。聞かんかったことにしとくわ」

 ふたりとも食事を終えた。

「第一志望の成刻高校、行けそうか。県内屈指の進学校やし」

「ん~、さー分からん。でも先生は行けるって言うてるし。心配ないと思うけどな。数学は教科書の問題丸暗記してるし、多分大丈夫と思うわ。国語は何の心配もないし、この前100点取ったし学年一番やったで。英語がちょっと不安かな」

「そんだけできるんやったら大丈夫やな。安心したわ」

 国語と英語と数学は大阪大学を卒業した聡が家庭教師をしてくれている。安心して任せられる。父親代わりだ。何から何まで頼ってばかりで申しわけなく思う。

「こんど、お前の暇を見つけてUNJに遊びにいくか。おかんが解放病棟に移ったら、外出届出して久しぶりに三人でな」

「うん!ええよ、楽しみにしてるわ!」

 笑顔になる陽士。ジュースを飲み干し、立ち上がる。


 陽士を駅に送りに行く。車から降りるとドアを閉め、手を振り改札口にむかう。なぜだか泣きそうになる。本当は凜のことをまだ愛している。離婚なんかしたくはなかった。離婚の原因は恐怖だったのだ。寝ている時にいつ刺されるか分からない恐怖。それを覚悟して結婚生活を続ける勇気が自分にはなかった。

 正はアパートに帰り、ドアを開ける。心の内にまた吹きすさぶ風が吹く。


 今や陽士の成長だけが正の救いなのである。

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