キャッチボール

 聡の家の庭は広い。

 昔は家庭菜園があったそうだが、母があまりそういうものに関心がなく、土をならして駐車場になっている。車は3台。父の軽トラと、凜の軽と、聡の大型車。聡はそこそこたっぱがあるので軽は乗りたくないのだ。

 そこで聡と陽士と一彦でキャッチボールをしている。6月、もう梅雨だが雨もなくさわやかな風が吹いている。今は朝の11時、昼飯前の運動である。

 聡が陽士にボールを投げる。ボールを受け取った陽士が聡に聞く。

「なあ、おいやん。おかんて狂うてんのか」

 14歳、自我が確立し感受性が高まり難しくなる年ごろである。

「なんでそんなこと聞くんや」

「だって精神病院に入ってるし、このまえ夏海おばちゃんに向かって椅子とか投げてたし」

 もう分別がつく歳だ。正直に話そう。

「厳密に言えば狂うてるんやないんや。『精神病』っていうのはな『統合失調症』とあと『躁鬱病』の二つだけ。おかんはな『境界型人格障害』てゆうて一時的な精神疾患にかかってるだけや」

 陽士が難しい顔をして一彦にボールを投げる。

「でも一時的やないやん。おれが生まれた時からずっとあの発作がでてんねんで。まだ子供のころのうっすらとした記憶に、おとんにこたつ投げつけてた覚えがあんねん。狂うてるやん」

 ボールは聡に帰ってくる。

「でも普段は普通やろ。発作が出るとおかしなんねん。でもな、このまえその原因もはっきりしたんや。退院したらもう発作もおこらへんと思うで」

「ほんまに?」

「ほんまや。やっと分かってん。いろいろ。おれの友達のお医者さんに相談したらな、一発で原因を見抜きよってん。医者も腕のいい悪いがあんねん。ようやく解決しそうなんや」

「おばちゃんの話~?」

 一彦が興味を示す。

「そうや。でももう安心やで、おばちゃんはな、見違えるようにようなって帰ってくんで」

「ほんまに~?僕こわいねん、おばちゃんのこと」

 ああ、家族全員凜のことを怖がっているんやなと聡は肩を落とした。でもそれももう終わりだ。解決するはず。いや解決させてみせる。家族が平穏を取り戻すその日まで。


「来年受験やし」

 陽士が口を開く。

「おかんがあの状態やと勉強もでけへんし。おれ成刻高校行きたいし、静かな環境がいるねん」

「大丈夫やって、心配することあれへんて」

 聡が陽士に球を投げるとグローブのへりに当たり後ろに飛んでいった。

「わっは!」

 陽士がかけていく。

(もうそんな歳か……子供は成長早いなぁ)

 遠くから聡にボールを投げる陽士。

 なんとかキャッチする聡。

(球はやっ!力もついてきてるわけや。もう大人として扱わんとな)

「分かった。受験勉強に入るとおいやんがな。ええもんプレゼントしたるわ!」

「何なに?」

「それはお楽しみや」

「分かった。楽しみにしてるわ」


 聡は大阪時代に1000万円、実家に帰ってからさらに1000万円ほどパチンコで稼いでいる。けっこうな金持ちなのだ。

(確か120万円ぐらいであったはずや)

 聡は簡易型の離れを見に行ったことがあるのだ。趣味はギターを弾くこと。大学時代、聡はリードギター、夏海はキーボードで一緒にバンドを組んでいた。そして付き合い始めた。よくある青春の思い出である。

 かわいい甥っ子のためだ。そのくらいは痛くも痒くもない。

「はあ、疲れた。そろそろ飯にしようや」

「は~い」

 家に入るとそうめんがどっさりと各自どんぶりに入っている。

「今日はそうめんか。もう夏やしな」

 ネギとミョウガが一つのどんぶりに半々に盛られている。

 おかずはウインナーと白菜の漬物。美味そうだ。

「いただきまーす」

 無言で麺をすする家族。

 聡は迷わずミョウガの細切り。夏の味がする。

 みんなが食べ終わった。しかし聡はまだ腹が減っている。

「なんかない?」

「ラーメンならあるで」

 母が言う。

「そうめんの次にラーメンて、ちょっとおかしない?、おれこれから畑の草刈りやで。重労働やし」

「じゃあ、おにぎりでもええか。冷凍したご飯があるし、缶詰めのサバの味噌煮もあるし」

「おいしそうやんか、頼むわ」

 こうして日々おいしいご飯が食べられていることがどんなに幸せか。聡はその昔、就職に失敗してフリーターだった。その頃は卵かけご飯しか食えなかったこともあった。それがいまや甥のために120万円ポンと出してあげられる身になっている。衣食足りて礼節を知るとはよく言ったものだ。金銭的に余裕ができると気持ちにも余裕ができる。

 凜をのぞいた家族はみな仲がいい。夏海は賢く、嫁姑問題もない。うまくやってくれている。みかんの出荷の忙しい時期には仕事も手伝ってくれる。


「お前はようやってるよ」

 汗だくで草刈りを終えたあと風呂に入ってさっぱりし、ふたりで夫婦の部屋に上がって布団を敷いてる夏海に声をかける。

「この前の椅子のこと、かんにんな」

「もう、そんなこと忘れたわよ。で、あの話ほんとなの?」

「ああ、入院期間に減薬して最後は処方を止めると言うたことやろ?ほんまや」

 聡は部屋着のシャツと短パンに着替える。

「おれが『万一の場合、先生は責任とれるんですか』って言うたのが効いたみたいや。訴訟もやむなしというこっちの意図を読み取ってくれたみたいやで。退院のときにはすっかり毒も抜けてるやろ」

 夏海が安心した様子で笑顔をむける。


(狂うてるやん)


 陽士の言葉が頭をかすめる。

 一抹の不安が聡の胸をよぎる。

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