第10話 夜更かし
交易都市ロックフェルの宿屋の一室は、静寂に包まれていた。
窓の外から届くのは、夜警の兵士が時折鳴らす拍子木の乾いた音と、遠くで響く酔っ払いの怒鳴り声だけ。
枕元で焚かれた月光草の、苦くも清涼な香りで満たされていた。ベッドの上では、シモが静かな寝息を立てている。
私が闇市から持ち帰った薬草を煎じて飲ませてから、数時間が経過していた。氷のように冷え切っていた彼の身体は、まだ予断を許さないものの、触れれば生きていると分かるだけの微かな温もりを取り戻していた。
「……チコル」
不意に、背後から声がかかった。
顔を向けると、シェバンニが部屋の隅の暗がりから私をじっと見つめていた。
「交代しよう、少し休め。その顔……シモより死人みたいだぞ」
「いえ、大丈夫です私……」
「大丈夫じゃねえヤツほどそう言うんだ」
シェバンニは立ち上がると、私の隣に無造作に腰を下ろした。おもむろにトレンチコートを脱いだかと思うと、シェバンニは
「……お前も触るか?」
とタートルネックを下げ、自らの胸元を見せつけてきた。フワフワとした毛皮が興味をそそるものの、あまりにも突然の提案に、私は慌てて断った。
「なんか、ダメな気がします….…!」
「シモは事あるごとに、もみくちゃに触ってきたぞ。『疲れた時はコレに限る』って」
「人間皆そういう訳ではありませんから!」
「そうか、じゃあ、これくらいで」
シェバンニは服を整えると、私と肩が振れるくらいに距離を詰めてきた。彼から発せられる体温が、こわばっていた私の肩を少しだけほぐしてくれた。
「……さっきも言ったけど、見つけてくれてありがとう、薬草」
慣れていないのだろう、間をたっぷりと使って途切れ途切れに放たれた労いの言葉。しかし、今の私には何よりも温かく感じられた。
「……ちょっと怖かった、です」
自分でも驚くほど、素直な言葉が口からこぼれ出た。
「闇市は魔物なんかよりずっと……得体の知れない人間の欲望が渦巻いてて……それに、変な人たちに絡まれて……」
「なんだって?」
シェバンニの目が鋭くなる。まるで大切な妹をいじめられた兄貴のように、パキパキと指の骨を鳴らす。
「大したことじゃありません。魔法で、追い払いましたから。それよりも……」
私は、シモの寝顔を見つめたまま、絞り出すように尋ねた。
「シェバンニは、どうしてそこまでシモに付き合うんですか?」
ぐぐ、とシェバンニの体重が徐々に預けられるのを肩で感じる。獣人と異なり尾や耳がないため感情が分かりにくいが、彼は覚悟を決めたように口を開いた。
「チコル、お前には……本当の孤独ってのが分かるか」
彼の瞳が部屋に漂う煙の向こうで、遠い過去を見つめていた。
「オレは落ちこぼれだった。狼の姿になれるのは、人狼としての力が一番失われる新月の夜だけ。他の奴らが満月に力を誇示してる時、オレは月が怖くて穴蔵に隠れて震えてるだけだった」
「……はい」
「群れってのは、役に立たねえ奴にとことん厳しいんだ。狩りにも参加できねえ、番も見つけられねえ。そんな奴は群れにいる資格がないんだと」
彼の声には諦観と、今なお消えない微かな痛みが滲んでいた。
「オレは追放されたんじゃねえ。逸れたんだ。ある晩目が覚めたら……群れの匂いは、もうどこにもなかった。あいつら、オレを置いて次の狩場に行っちまったんだ」
人間で言うと、十二歳にもなってなかったんじゃないかと付け加えるシェバンニ。それは、事実上の死刑宣告だっただろう。
「地獄だったよ」
シェバンニの言葉に、熱がこもる。
「獣としての本能……鼻と耳だけがオレの武器になった。だけど、そいつは誇りなんかじゃねえ。ただこの世を生き延びるための道具だった」
彼は、森や荒野をさまよったのだという。人間からは「化け物」と石を投げられ、魔族からは「人間の匂いが混じった半端者」と爪を立てられたそうで。
「自分が獣なのか、人間なのかも分からなくなってた。それで、偶然見つけた村の食い物を盗もうとして、村の連中に囲まれた。そいつら、オレを殺して毛皮を剥ごうって言っててさ」
絶体絶命だった。人間不信が頂点に達していたシェバンニは、どうせ死ぬならと、必死で牙を剥いていたという。
「そこを、こいつが割って入ったんだ。『待ってくれ』ってな。今よりもっと子供みてえな風体で」
シェバンニは、当時のシモを思い出したのか、その口元に微かな笑みを浮かべた。
「村の連中に『人狼は丁重にもてなせば人間の仲間にもなり得る誇り高い種族だ。みだりに傷つけるべきじゃない』とか、ワケの分からねえこと抜かしてさ。村の連中、ポカンとしてたぜ……オレもだけど」
「……シモらしい、ですね」
私の相槌に、シェバンニは深く頷いた。
「ああ。それであいつ、オレに向かってこう言ったんだ」
シェバンニは、一度目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
「『僕はこんなに鋭い感覚を持った人を知らない。君のその力は、きっとたくさんの人を救える。僕の仲間になってくれないか』ってな」
「……!」
「出会うやつ全員に『化け物』『落ちこぼれ』って馬鹿にされたこの嗅覚と耳を、あいつは葉っぱな力だって言ったんだ。困っている人を救える素敵な力だってな」
シェバンニの大きく骨ばった手が、優しくシモの髪を撫でる。
「馬鹿だろ? 初対面の、それも盗っ人。それをいきなり『仲間になれ』だ……馬鹿だ、大馬鹿だけども」
再び息を深く吸うと、シェバンニは続けた。
「あいつは……シモは、オレを『シェバンニ』として見てくれた。オレの名前を呼んだ、たった一人の人間だ」
だから、と床に仰向けになる。星月夜を塞ぐ低い天井。
「シモはオレのアルファだ。オレが命を懸けて守る、たった一人の。シモの信じるもんが世界中のヤツらにクソミソに言われようが、知ったことか。オレはシモの牙で、シモが信じるものを守る。それだけなんだ」
揺るぎない、絶対的な忠誠。それは正義や平和といった大義名分ではなく、シモ・ハスラーという一個人にのみ向けられた、純粋で、あまりにも強固な絆だった。
「……シェバンニ」
その強さに圧倒されていると、今度は私の方が問いを投げかけられていた。
「チコル、お前こそどうなんだ。お前は……あいつの何を信じてる?」
「私、は……」
私は、シモと出会った日のことを思い出していた。
「……私も、一人だったから……だと思います。孤児院育ちで、蓄えられる魔力量だけが取り柄で。でも、誰にも本当の意味で必要とされていなかった。お店を構えても、満たされなかった。そんな時、実際に見たシモが、世界を救ったのに、誰よりも孤独に見えて……」
なんとなく、私もシェバンニを真似て後ろに倒れ、天井を仰いでみた。自然と背筋が伸び、思った言葉がつらつらと形になっていく。
「おこがましいけど……彼を救いたいって思ったんです。でも、私には分からなかった。シモがどうして魔族であるあなたや、吸血鬼を仲間にしたのか。どうして……あんなにボロボロになってまで、人々のために振る舞えるのか」
シェバンニは私の言葉を黙って聞いていたが、やがて重い口を開いた。
「……なんでオレたちみたいな『はぐれ者』ばかり集めたか……ね」
彼の声が、一段低くなる。
「シモも『はぐれ者』だったからだろうな」
「え……?」
「全部知ってるわけじゃない。シモは自分のこと、ほとんど話さないから。だけど……旅の最中に、断片的に聞いた話がある」
シェバンニは、一度言葉を切り、起き上がると眠るシモの顔を見た。その目は、深い同情と、抑えきれない怒りの色をたたえていた。
「シモはな……魔王が討伐対象になる前の頃。お前が言うような『ザ・勇者様御一行』みたいな普通のパーティを組んでたんだと」
「人間のパーティ……ですか?」
「ああ。聖騎士だか、高名な賢者だか知らないけど……だがな」
シェバンニは、忌々しげに舌打ちをした。
「シモはそいつらに裏切られた」
「……!」
「魔族の仕掛けた罠に、たった一人で置き去りにされたんだ。囮としてな」
息を呑む私に、シェバンニは続けた。
「くだらない、『あいつだけが魔族との対話を望む、甘っちょろい偽善者だった』だと……どいつもこいつも、自分たちの保身しか考えてねえクズどもだ」
シモが、人間に裏切られていた。その事実は、私の胸に重く突き刺さった。
「それで、瀕死だったあいつを偶然助けたヤツがいた」
シェバンニの声が、迷いに震える。
「そいつは……ある魔族だった」
「魔族が……シモを……?」
「ああ。そいつが誰だったか、あいつは最後までオレにさえ言わなかった。……だがな、チコル」
シェバンニは、私に覆い被さるように囁いた。その黄金色の瞳が、真剣な光を帯びる。
「オレの鼻は覚えてる。シモが魔王城で、あの魔王と対峙した時だ」
ゴクリと、私の喉が鳴る。
「魔王のやつ……一瞬シモと同じ匂いがしたんだ。つまりだ、あいつを助けたっていう魔族は……」
「まさか!」
頭が真っ白になった。シモを助けたのは魔王だと言うのか。
「わからねえ。あくまで『匂い』が同じだったってだけだ。だが……もしそうだとしたら、どうだ?」
シェバンニは、眠るシモに問いかけるように言った。
「人間に裏切られ、魔族に救われた。だから、シモの中じゃ、人間も魔族も関係ないんだ。信じられるかどうかが全てで」
人間に裏切られ、魔族に助けられ、それでも尚人間に従属し、魔王を討ち取る旅を続けた。
そんな中、シモはシェバンニや、これから会うインヒューマ・イフカウントと出会ったのだ。
「オレたちは、はぐれ者同士だった。人間からも魔族からも疎外された、行き場のないヤツらの集まりだ。だが、あいつだけが、オレたちを抱きしめてくれた」
シェバンニは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。外は、夜が明けようとする一番暗い時間だった。
「私、シモのこと、何も分かっていませんでした」
「……当たり前だろ」
シェバンニは、窓の外を見たままぶっきらぼうに言った。
「オレだって、今でも分からねえことだらけだ。でも、シモが一人で背負ってんなら、オレたちで奪い取ってやればいい。お前とオレで、あのマシュマロ野郎の分もな」
力強い言葉。それは、私の胸の奥に燻っていた不安や恐怖を、力ずくで吹き飛ばすような、荒々しい優しさに満ちていた。
私は、目頭にうっすらと浮いていた涙を乱暴に拭った。そうだ。私は一人じゃない。シモも、もう一人じゃない。
「……はい!」
私が頷いた、その時だった。
「……ぅ……」
ベッドの上で、シモの唇が、かすかに動いた。
「「シモ!?」」
私とシェバンニは同時にベッドに駆け寄った。
シモの目はまだ固く閉じられていたが、その顔色は薬草の力か、それとも私たちの声が届いたのか……闇市の老婆が言った一晩の猶予を超えて、ほんのわずかだが、血の気が戻っているように見えた。
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