第11話 霧の中

 月光草の清涼な香りが薄れ、代わりに窓の隙間から差し込む朝の冷気が、部屋の空気をわずかに浄化していく。


 ロックフェルの朝は、鍛冶場が槌を打つ甲高い音と共に始まるらしい。カン、カン、というリズミカルな金属音が響いてくる。


 なるべく周囲が静かな宿を取ったつもりだったが、夜から朝にかけて、何も聞こえない時間はなかった。


 その規則的な音に混じって。


「……ん……」


 か細い、だが確かな呻き声が私の耳に届いた。


 「!」


 私は、うつらうつらとしていた意識を無理やり引き剥がした。隣で床に伸びていたシェバンニも飛び起き、音の発生源――ベッドに釘付けになる。


 重い瞼を必死に持ち上げようと奮闘し、やがて、その虚ろだった瞳が焦点を結ぶ。彼は数度瞬きを繰り返し、自分がどこにいるのかを確かめるようにぼんやりと天井を見つめた。


 「……チコル……? シェバンニ……?」


 闇市の薬が効いたのだ。いや、それだけではない。シモの生へと縋る強い思いが、呪いを一時的に遠ざけたのだ。


 「シモ!!」


 「あぁ、よかった、生きててくれて……!」


 私とシェバンニは同時にベッドに駆け寄った。歓喜、というよりも、まずは安堵した。ピンと張られていた緊張の糸が、ようやく少し緩む感覚。


 「よかった……本当によかった……!」


 涙声になる私を、シモは眉を下げて見上げた。


 「ごめん……心配かけたね。僕、どれくらい……」


 「丸一日だ。オレの忠告無視して毒キノコ食った時よりは、全然短い」


 「あはは、あったねそんなことも」


 「チコルがシモのために薬草見つけてきたんだぞ。感謝しろよ」


 「チコルが……?」


 シモの視線が私に向けられる。


 「私は大したことは……!」


 「そっか……ありがとうチコル、同行人がキミでよかった」


 シモは、まだ力が入らない手で私の手を弱々しく握り返した。その温もりが、倒れたばかりの頃、彼の氷のような冷たさを知っている私には奇跡のように感じられた。


 薬草はあくまで気力を繋ぎ止めるための荒療治だ。彼の身体を蝕む根本的な「何か」が消えたわけではない。その顔色は、まだ陶器のように血の気が失せたままだ。


 だが、彼の目には、昨日まで失われていた光が戻っていた。


 シモは、シェバンニの助けを借りてゆっくりと身体を起こした。


 「……インヒューマについて、何か分かった?」


 「今いるのは濃霧谷で間違いない。気味の悪い真っ白なコウモリが飛んでくるって噂だ」


 シェバンニが酒場で得た情報を手短に伝えると、シモは「そう」とだけ呟き、深く頷いた。


 その顔は、すでに次を見据えていた。


 「シモ、でも……!」


 私は思わず口を挟んだ。こんな状態で旅に出るのはリスクが高過ぎる。もし私の店に通うお客さんだったとしたら、もう数日間は安静にしてもらうよう懇願するレベルなのだ。


 「まだ動いてはダメです! 薬が効いているのは今だけで、治ったわけじゃ……!」


 「分かってるよ」


 シモは、私の言葉を遮った。穏やかな声音だが、その声には揺るぎない信念が、その眼差しには決意が漲っている。


 「ありがとうチコル……でも、行かないと。僕のこの身体は、もう待つことを許してくれないから」


 シモは、自らの死期を悟っているかのように冷静に告げた。


 シェバンニも、何も言わなかった。シモの覚悟が本物であることを、この人狼は誰よりも理解している。


 きっとこの場で私だけが、現実を受け入れられずにいた。


 「……準備する」


 シェバンニが短く告げ、荷物をまとめ始めた。私は唇を噛み締めることしかできなかった。


 こうして、私たちは、シモの覚醒という束の間の喜びもそこそこに、この街で最も危険とされる禁足地、濃霧谷へと向かうことになったのだった。


* * *


 ロックフェルの城門を抜け、北へ数時間。


 それまで続いていた武骨な岩山と乾いた平原の景色は、突如としてその様相を変えた。


 「……ここが、濃霧谷……ですか……」


 目の前に広がるのは、大地が巨大な顎で噛み砕かれたかのような、凄まじい渓谷。


 その谷底からは、まるで巨大生物が吐き出す息のように、濃密な乳白色の霧が絶え間なく湧き上がっていた。谷の入り口に立っただけで、肌がピリピリと粟立つのを感じる。


 「霧が濃い、なんてもんじゃないですね」


 数メートル先は、もう完全な白の帳に飲み込まれている。「ああ」とシェバンニが、警戒を露わに鼻を鳴らした。


 「酒場の連中が言ってた通りだ。こいつは、ただの水蒸気じゃねえ……チコル」


 「はい」


 「試しに魔法を使ってみろ。街一個消せるくらいのどデカいやつ」


 「え? そんなことしたら……」


 「大丈夫だから」


 先の見えない谷を顎で指す。シェバンニは冗談を言っている訳ではなさそうだ。


 「……分かり、ましたよ」


 私は杖を構え、今までにない量の魔力を杖へと収束させる。そして————


 「……あれ?」


 しかし、杖は、うんともすんとも言わない。魔力は確かに練り上げようとしているのに、まるで分厚い泥水の中で手をかき混ぜているように魔力が霧に吸われてしまう。


 「な、何にも出ない……!」


 「ハハッ、だろうな」


 シェバンニは、自分の爪先をカリ、と岩肌で研いだ。


 「いくら新鮮な野菜や果物も、腐ったヤツのそばに置いたらすぐ腐るだろ? それと一緒だ、ここは古い気が滞留してる」


 仕込んでいた護符も確認するが、外気に触れた瞬間、紙屑となって散ってしまった。魔導士にとって、魔法が使えないという事実は武器と両腕をもがれるにも等しい。私は、ただの重い杖を持った非力な女になった。


 また誰も守れないではないかと打ちひしがれていると、シェバンニとシモは真剣な顔つきで谷を見遣り、作戦を立てていた。


 「どうするシモ。正直、この臭さは想定以上だ」


 シェバンニがシモの顔色を窺う。シモは、霧の向こうをじっと見つめていた。


 「……この霧の中じゃ、ここに住んでる魔物だって目が利かないはずだ。それに、シェバンニの方が強いだろうし」


 「あまり買い被るなよ……チコル、オレとシモの間に入れ」


 シェバンニが、私を真ん中に来るよう促した。


 「何があってもオレたちから離れるな。オレが『伏せろ』と言ったら、シモの頭をぶっ叩いてでも一緒に伏せろ。いいな?」


 「は、はい!」


 こうして、視覚を奪われ、魔法を封じられた私たちの行軍が始まった。


 一歩足を踏み入れると、そこはもう異界だった。音が、死んでいる。


 シェバンニが小石を踏む音、シモのかすかな呼吸音、そして、私の心臓が恐怖で早鐘を打つ音。


 それらが、濃い霧に吸い込まれて、妙に近く響く。


 (怖い……)


 視界は前後左右、全てが白い闇。


 前にあるシェバンニの広い背中と、肩に置かれたシモの手がかろうじて見えるだけ。


 シェバンニは時折、四つん這いに近い姿勢になり鼻をひくつかせ、キョロキョロと頭を動かしていた。


 「……こっちだな」


 彼だけが、この乳白色の世界で道を読んでいた。


 どれくらい歩いただろうか。


 五分か、あるいは一時間か。時間の感覚さえもこの霧は奪っていく。シモの呼吸が、少しずつ荒くなってきたのが分かった。


 「シモ、大丈夫ですか」


 「……大したことないよ、それより……」


 シモが何かを言いかけたその瞬間。


 シェバンニがピタリ、と足を止めた。そして、音もなく私とシモの前に腕を広げ、制止する。


 「……チコル、杖を握れ。」


 「えっ! でも魔法は……」


 「魔力は練らなくていい、ただの棒として構えろ」


 「え……」


 「いいからやれ」


 シェバンニの切羽詰まる声に、私は言われた通り杖を胸の前に構えた。


 シェバンニは霧の向こう、虚空の一点に目を向けて離さない。すぐそこに何かが迫っているのだろうか。


 『ザ……』


 初めて自分たち以外の聞こえた。


 霧の向こうから、湿った岩肌を何か硬いもので引っ掻くような、不快な音。


 『ザ……ザザザ……』


 一つじゃない。


 右からも、左からも。前からも。私たちを包囲している。


 「ひっ……!」


 私は、反射的に魔法を使おうとして、それが無意味であることを思い出し悔やんだ。魔法が使えない私は、ここで何ができるのだろうか。


 『カカカカッ!』


 姿を一切予想できない不気味な声。きっと、まぬけな獲物を見つけた喜びなのだろう。


 シェバンニは一歩、前へ出た。彼は、腰を深く落とし、両手の爪を剥き出しにする。月の見えない夜は、彼にとって最も力を発揮できる時間であった。


 「群れでしか行動できない雑魚め」


 人狼の嘲笑に、霧が揺れた。


 右手の霧の中から白い影が音もなく飛び出す。それは霧に擬態するかのような、真っ白で、カマキリのような巨大な鎌を持った魔物だった。


 「シェバンニ!!」


 私の悲鳴は事に間に合わなかった。


 ベキン!


 私には、何が起こったのか分からなかった。シェバンニが消えた。


 いや、彼がいた場所に、魔物の巨体が「く」の字に折れ曲がっている。シェバンニは魔物が飛び出してきた方向とは逆……左手の霧の中にすでに着地していた。


 彼の爪は血一滴ついていない。鎌が振り下ろされるよりも速く懐に飛び込み、その硬い甲殻を純粋な拳の衝撃だけで粉砕したのだ。


 『ギ……ギギギ……』


 魔物はそれでもビクビクと痙攣していた。だが再び立ち上がることはなかった。


 「な……」


 あまりの光景に、シモも私も息を呑んだ。視界不良のこの霧は敵対魔物だけでなく、シェバンニをも見えざる脅威へと昇華させていた。


 『カカカカッ!』


 仲間がやられたことに激昂したのか、あるいは恐れをなしたのか。正面と左から霧をかき分け、魔物が同時に飛び出してきた。


 「伏せろ!」


 シェバンニの号令に、私はシモと共に地面へと伏せる。青年は服を脱ぎ去り完全な狼となった。振り下ろされた鎌と狼の突進が、霧の中で交錯する。


 『ガギィンッ!!』


 鋭い爪と甲殻が反響して火花を散らす。


 「こんなもんかよ」


 研ぎ澄まされた五本の爪が、魔物の複眼を寸分の狂いもなく抉り抜いた。


 『ギャアアアアアッ!!』


 涎を飛び散らして喚く魔物。しかし、シェバンニはまだ止まらない。彼は怯んだ魔物を盾にして、左から迫っていた最後の一体の前に躍り出た。


 最後の一体は、仲間の身体に阻まれ、動きが止まる。その隙を狙い、シェバンニは敵の柔らかな腹目掛けて螺旋を描くように飛び込んだ。


 『ズ……ギ……?』


 シェバンニが魔物の背後に着地する。魔物は自分が何をされたのかも分からないままその場に立ち尽くし……やがて、その胴体は真っ二つに分かれて崩れ落ちた。


 谷には静寂が戻った。霧の中に転がる、三体の魔物の残骸。シェバンニは爪についた魔物の体液を振り払うと、何事もなかったかのように私たちのもとへ戻ってきた。


 「チコル立てる?」


 「あ……は、はい……」


 私はシモに手を引かれて立ち上がりながら、目の前の勝者に震えていた。出会った当初に味わった感覚。彼が今、仲間であることに安心すると同時に、やはり魔族であることを思い知る。


 「未だ衰えずだね」


 シモが誇らしそうにシェバンニを迎えると、彼は人型に戻りながら鼻を鳴らした。


 「まだまだ、準備運動にもなってねぇよ」


 シェバンニの戦闘は、威嚇にもなったらしく、それ以降魔物の気配はぱったりと途絶えた。私たちは霧の奥へ、奥へと進んでいく。


 辿る道はいつしか獣道から、人の手によって切り出された石畳へと変わっていた。


 「ふう、やっとだね」


 霧がわずかに晴れたその先に、巨大な影が浮かび上がっていた。


 それは、なんとも立派な古城だった。


 ツタに覆われ所々が崩落しかけているが、そのゴシック様式の威容は、今なお見る者を圧倒する不気味な存在感を放っている。


 「……間違いなくいるな」


 シェバンニが鼻をつまみ、忌々しげに吐き捨てた。


 「辺鄙なとこに住みやがって」


 「彼はこういう、古めかしいところが好きだからね。昔ピラミッドに住もうとした時は焦ったけど」


 「今更なんですけど、日傘を忘れて拗ねちゃった仲間っていうのは……」


 「あ、そんなことも書いたっけ……そうだよ、でも本人の前で言わないでね。二人の秘密」


 「オレも変なことバラされてねぇだろうな……」


 私たちはそんな話をしながら、城の巨大な正面扉の前に立った。一呼吸置いてから、その重厚な扉を力いっぱい叩く。


 ドン! ドン! ドン!


 「インヒューマ・イフカウント、僕だよ!」


 「そんな適当でいいんですか……」


 やがて城の内部からギギギ……という、重い何かが動く音がし、扉の上部にある小さな覗き窓がパカリと開いた。


 暗闇の中から血のように赤い瞳が私たちを覗き見ている。


 「……シモだと?」


 男性とも女性とも取れない、威厳ある澄んだ声。直後、重いかんぬきが外れる音がし、巨大な扉が軋みながらゆっくりと開いていく。


 甲冑が並ぶ闇の中から、声の主が姿を現した。


 「おお、真にシモではないか」


 透けるような青白い肌、月光を思わせる白銀の髪。だが、彼は私の想像していた吸血鬼のイメージとはかけ離れていた。


 痩身で神経質そうな姿を想像していたのに、目の前にいる男は————


 「太っ……」


 思わず心の声が漏れた私の口は、シェバンニによって勢いよく塞がれた。


 そう、彼は丸々と太っていたのだ。上等なフリル付きのシャツは、その豊かな腹回りのせいではち切れそうになっている。


 マシュマロボディの吸血鬼は、シモの姿を見るなりその赤い瞳を嬉しそうに細めた。


 「久しいな、童子の悪戯かと思ったぞ」


 「こんなとこに来れる子どもなんていないでしょ」


 「ふん……しかし随分と痩せたな、野良犬まで連れてここまで来るとは、どうした」


 「誰が野良犬だ! このクソデブ!」


 インヒューマはシェバンニの罵声を華麗に無視し、シモに歩み寄る。その顔を覗き込むと、ふくよかな顔を心底不快そうに歪めた。


 「……お前、死にかけているぞ?」


 シモは私の方を向くと、杖に身体を預けてため息を漏らした。


 「ね、僕の仲間は凄いだろう?」


何故かその顔は嬉しそうだった。

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