第9話 可能性

 宿の重い木戸を押し開け、夜の闇に飛び出す。まだ冷たさの残る向かい風が肺へと流れ込んできて、息を詰まらせながらも走り続けた。


 「はぁ……っ、はぁ……!」


 石畳を蹴る足がもつれそうだ。胸の奥から、本能的な恐怖が湧き上がってくる。


 たった一人で見知らぬ荒れた街の夜を駆けること。それがどれほど無謀なことか、昼間の街の様子が雄弁に物語っていた。


 いつ物陰から魔物の残党が、あるいはそれよりも厄介な話の通じない人間が襲いかかってきてもおかしくない。


 (でも、シモが……!)


 脳裏に浮かぶのは、氷のように冷たくなって床に倒れていたシモの姿。あのままでは、本当に死んでしまう。


 私が今朝見た悪夢が、現実になってしまう。


 「それだけは、絶対に、させない……!」  


 シェバンニは「市場なら夜でも開いている店があるはずだ」と言った。


 昼間、宿を探して歩き回った時に記憶した街の構造を必死で頭の中に広げ、市場を目指して足を動かす。


 しかし、昼間のメインストリートは、すでに固く閉ざされたシャッターと静寂に包まれていた。


 「そ、そんな……っ」


 だが、そこから一本外れた裏路地。人々の怒号と熱気が渦巻いていた一角があった。絶対に立ち入ってはいけない香り。


 シェバンニの真似ではないが、これは私にも分かる。湿っぽく、隠微で、得体の知れない香辛料と、獣の血生臭さが混じったような……危険な匂い。


 いわゆる「闇市」と呼ばれる場所である。


 「……行くしかない」


 細い路地を抜けると、そこは昼間の喧騒が嘘のような、別世界の光景が広がっていた。


 怪しげなカンテラの光が、そこかしこで揺らめいている。正規の市場では決して売られていないような品々。出所不明の宝飾品、呪われていそうな武具、そして、明らかに違法な魔獣の素材や臓器。


 それらを売る店主も、買い求める客も、一様にフードを目深に被り素性を隠している。


 肌を突き刺すような視線。品定めをするような、あるいは、獲物を見定めるような粘つく視線が、新参者の私に集中するのが分かった。


 「うっ……」


 今すぐ踵を返して逃げ出したい。私は彼らのようにフードを深く被り直し、杖をマントの下に隠すようにして握りしめた。


 目的は熱を抑え、気力を補う効能を持つ薬草。こういう場所でこそ、王都の中央市場では手に入らないような強力な薬効を持つ、稀少な薬草が取引されている可能性がある。


 私は品物から目を逸らさないよう、ひたすら薬を扱っていそうな店を探して歩いた。


 「お嬢ちゃん、いい『夢』見れる草があるよ」「こっちの水は『元気』が出るぜ。今夜どうだい?」


 卑猥な含みを持った声が四方八方から飛んでくるが、全て無視して進む。


 そしてついに見つけた。路地の最奥、ひときわ薄暗い一角で、枯れ草や怪しげなキノコを山積みにしている店があった。


 老婆が一人、カンテラの光も届かないような暗闇の中で、椅子に座って虚空を見つめている。


 「あ、あの……!」


勇気を振り絞って声をかける。老婆の顔が、ぎぎぎ、と錆びついたブリキ人形のようにこちらを向いた。闇に慣れた目でも、その表情は窺えない。


 「薬草を探しています! 万病に効くまでとは言いませんが、とにかく元気が出る、なるべく強力なものを……!」


 老婆は何も答えない。ただ、その闇色の瞳で私をじっと見ているようだった。


 「お願いします! 大切な仲間が、死にかけていて……!」


 私の必死の言葉に、老婆はようやく、ゆっくりと口を開いた。


 「……『龍の吐息』と、『月光草』ダネ」


 しゃがれ、乾いた声。語尾の訛りから、この街の住民ではないことが伺えた。


 「どっちも、死にかけの人間を無理やり現世に引き留める力がアル……でも高〜いヨ」


 「買います! いくらでも!」


 私は懐から金貨袋をそのまま取り出し、机へ叩きつけた。金貨の擦れる音が鈍く響く。


 老婆は、その袋の重さを一瞥すると、満足したように頷き、店の奥から小さな革袋を二つ、放り投げてよこした。


 「『龍の吐息』は煎じて飲ませナ。『月光草』は枕元で焚くんダ……一晩、保つかどうかは、そいつの運次第サーネ」


 私は二つの革袋をひったくるように掴んだ。


 「ありがとうございます!」


 礼を言い、背を向けた瞬間。


 「……勇者サマご一行、かイ?」


 老婆の呟くような声に、足が止まった。咄嗟に振り返るが、老婆はもう私を見ていなかった。再び虚空を見つめている。


 私は何も答えることなく、今度こそ闇市を抜け出そうと走り出した。


 一刻も早く宿に戻らなければ。


 薬草を手に入れた安堵と、シモへの焦燥感で足がもつれる。闇市を抜け、広場に出るための近道を選んだ。昼間、傭兵たちがたむろしていた場所。夜の広場は静まり返っている……はずだった。


 「——故に! 魔王様こそが、我らにとっての真の『秩序』であったのだ!」


 甲高い、狂信的な演説の声が響いていた。


 広場の片隅。松明の明かりに照らされて、黒いローブをまとった十数人の集団が、何やら集会を開いていた。


 「な、なに……?」


 足を止めてしまったのは、好奇心からではない。その集団が放つ異様な熱気と、彼らの言葉が、私の足を縫い付けたからだ。


 演説をしている男は、人間の骸骨を模した仮面をつけていた。


 「見よ! このロックフェルの惨状を! 魔王様が統治されていた頃、これほどの混乱があったか!?」


 男が両手を広げて叫ぶと、集団から「そうだ!」「なかった!」と賛同の声が上がる。


 「街道は整備され、魔物でさえ魔王様の威光の下、統率が取れていた! それがどうだ! あの忌まわしき勇者が、愚かにも魔王様を討ち果たした結果、この世界はどうなった!」


 (勇者が……忌まわしい?)


 耳を疑った。シモが? あの、誰よりも優しく、今まさに命を削っている彼が?


 「秩序は失われ、力だけが支配する混沌の時代が戻ってきた! 穀物は届かず、魔物の残党が好き放題に暴れている! これは全て、平和を乱した勇者のせいではないか!」


 「勇者が平和を乱した!」「勇者が我らの生活を破壊した!」


 昼間、酒場で聞いた商人たちの怒号が蘇る。


 彼らは、勇者を非難してはいなかった。だが、彼らが嘆いていた「現実」は、今、この魔王崇拝者たちの主張と、不気味なほど一致していた。


 「魔王様こそが世界の調停者であった! 勇者こそが破壊者なのだ!」


 演説は熱を帯び、集団は陶酔したようにその言葉を反芻している。


 彼らだけではなかった。広場の暗がりで、闇市帰りの商人や、仕事を失ったらしい傭兵たちが、何人か足を止め、その演説に聞き入っていた。ある者は不安げに、またある者は、深く頷きながら。


 (そんな……そんなはず、ない……)


 シモは、世界を救ったんだ。平和を取り戻したのだ。王都では、誰もがそう言って彼を称えていた、なのに。


 この街では、魔王討伐が混乱の原因だと?


 怒りと混乱で、頭が真っ白になる。


 私は、彼らの異様な空気に呑まれてその場から動けなくなっていた。


 その時、演説をしていた仮面の男と、目が合ってしまった。


 「……やけに光に満ちた新顔ですねぇ」


 男が、骨張った指で私を指さした。一斉に、十数人の視線が私に突き刺さる。


 「しまった……!」


 すぐさまその場を後にしようとするが、退路はすでに黒ローブの集団に塞がれていた。


 「お嬢ちゃん、こんな夜更けに一人かい」「今の話、聞いていたな? 魔王様っていいだろう?」


 下卑た笑いを浮かべ、黒ローブ達はじりじりと距離を詰めてくる。


 「あんたも、あの偽りの勇者を崇拝する愚か者の一人か?」


 「……っ、どいてください! 急いでいるんです!」


「まあ、そう急ぐなよ……」


 一人の男が、私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。


 その瞬間。


 「なにッ!?」


 私は手のひらに刻んでいた魔法陣から束縛魔法を発動させた。男の足元から魔力で編んだ光の縄が瞬時に伸び、その足首に絡みつく。


 「うげぇっ」


 男は体勢を崩し、派手な音を立てて石畳に転がった。


 「こいつ、魔導士か!」「やっちまえ!」


 残りの男たちが、一斉に短剣や棍棒を抜いて襲いかかってくる。


 「甘く見ないで!」


 それは、ただの強がりじゃない。シモと旅をすると決めたあの日から、私はずっと、自分の非力さを呪ってきた。


 そしてシモが眠っている間、シェバンニが偵察に出ている間、護身のための魔法を研究し、仕込んできたのだ。


 彼らのように素早く正確に動けないのであれば、私は……!


 「ハァッ!」


 杖の先端に込めた魔力を解放すると、強烈な閃光が広場一帯を白く染め上げた。


 「ぐあっ! 目がぁ……!」


 不意の光に、男たちは目を押さえてうずくまる。私はその隙を逃さず、駆けだした。


 「逃がすな! あの女を捕えろ!」


 背後から仮面の男の怒声が飛ぶ。目が眩んだ状態から回復した数人が、なおも私を追ってくる。


 「しつこい……!」


 私は走りながら、マントの裏に縫い付けておいた起動式の魔符に触れた。


 「しつこいのは嫌われるよっ!」


 「ぐおぁぁっ!?」


 追手たちの身体が、一瞬、鉛を飲んだように重くなる。その数秒の隙に、私は路地裏へと飛び込んだ。


 「くそっ、あの女……!」


 諦めたらしい声が、遠くで聞こえる。だが、安堵したのも束の間だった。


 角を曲がった先、黒ローブの集団が、松明を持って先回りしていた。


 「こっちだ!」「囲め!」


 この街の地理に詳しいのは、彼らの方だ。私は背中を壁につけ、荒い息の中で杖を構え直す。


 「……はぁ、はぁ……」


 多勢に無勢。仕込んでいた魔法も、連続で使いすぎて魔力が切れかけている。じりじりと包囲網が迫ってきた。


 「観念しろ、勇者の手先め」


 仮面の男が、ゆっくりと暗闇から姿を現した。


 「お前のような優秀は魔導士が、あの偽善者の片棒を担ぐ。嘆かわしいことだ」


 「……偽善者、なんかじゃない」


 私は、震える声で反論した。


 「シモは……勇者は、命を懸けて世界を救った! あなたたちなんかに、彼を侮辱する権利はない!」


「命を懸けただと?」


 仮面の男は、喉の奥でくつくつと笑った。


 「救った? 違うな。破壊したのだ。お前たちには分かるまい。絶対的な『力』による秩序こそが、この混沌とした世界に必要なのだということが」


 「力による秩序なんて、ただの恐怖政治よ!」


 「それでいい! 恐怖こそが秩序だ! 魔王様は、その『力』で我ら弱者を守ってくださっていたのだ!」


 男の言葉は狂気に満ちていた。全くもって話が通じない。彼らは、本気で魔王を「善」だと信じているのだから。


 「……まあ、いい」


 仮面の男は、ふっと興味を失ったようにため息をついた。


 「お前のような小娘に、我らの大義は理解できんだろう。だが、覚えておけ」


 男は、その骸骨の仮面を私の目の前に突き付けた。


 「真の魔王は、必ず復活なさる」


 「うっ……!?」


 その言葉は、呪いのように私の鼓膜にこびりついた。


 「我らは、その日を待つだけだ……行け。小娘一人殺したとて、大義は進まん」


 男が手を挙げると、黒ローブの男たちは、まるで潮が引くように、音もなく闇の中へと消えていった。


 後に残されたのは、私一人。


 その場にへたり込みそうになる足を、必死で叱咤する。


 「シモが……シモが、待ってる」


 私は、薬草の入った革袋を強く、強く握りしめた。


 宿への帰路は、まるで悪夢の続きのようだった。今しがた聞いた、魔王崇拝者たちの言葉に頭が支配され、長い迷路を彷徨っているかのようだった。


 「勇者が平和を乱した」「真の魔王は必ず復活する」


 魔王討伐は、全ての人に歓迎されているわけではない。このロックフェルのように、魔王がいた頃の「秩序」が失われたことで、かえって生活が苦しくなっている人々がいる。


 そして、その不満が、勇者であるシモたった一人へと向かっている事実を知ってしまった。


 私は王都の城下町で、平和の訪れを喜び、勇者を称える人々しか知らなかった。それが、世界の全てだと思っていた。


 なんて無知だったんだろう。シモは、こんな現実も知っていたのだろうか。


 彼が命を懸けて成し遂げた「平和」が、新たな混乱と、彼への憎しみを生んでいる。その事実が、鉛のように重く私の胸にのしかかった。


 宿の部屋に転がり込むと、シェバンニが血相を変えて駆け寄ってきた。


 「チコル! 無事か、遅いから……!」


 「ごめんなさい、少し変な人に絡まれて……でも、薬草は手に入れました!」


 私は闇市での出来事を隠し、必死で笑顔を作った。今、この混乱をシェバンニに話す余裕はなかった。


 「すげぇ、よくやった!」


 シェバンニがすぐに湯を沸かし、私は震える手で「龍の吐息」を煎じ、「月光草」を焚いた。独特の、苦くも清涼感のある香りが部屋に満ちる。


 シェバンニがシモの身体を抱き起こし、私は煎じた薬を、彼の乾いた唇にゆっくりと含ませた。


 ゴクリと、か細く喉が鳴る。氷のようだったシモの身体に、ほんのわずかだが、温もりが戻ってきた気がした。


 「……シモ……」


 薬を飲ませ終え、彼を再びベッドに横たえる。呼吸はまだ浅いが、先ほどのように、今にも消えそうな危うさは薄れていた。


 「……峠は越えた、のか……?」


シェバンニが、安堵とも疲労ともつかない声で呟いた。


 「分かりません……店主曰く、一晩保つかどうかは運次第だと」


 私は、シモのそばに膝をつき、彼の冷たい手を握った。


 「……死なないで、シモ」


 彼を救う手がかりを求めて、私たちはここまで来た。それなのに、彼自身が、その「手がかり」を非難する人々の存在に苦しめられている。


 魔王崇拝者の不気味な言葉が、耳の奥で何度も反響していた。


 シモを蝕む病、あるいは呪詛。ロックフェルの混乱。そして、魔王の影。


 私たちが立ち向かおうとしているものは、私が想像していたよりも、ずっと深く、暗いものなのかもしれない。


 私はただ、握りしめたシモの手に、自分の体温が伝わることだけを祈り続けた。そこには魔法などなく、ただ人間としての原初の行動であった。

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