第8話 正夢

 夢を見ていた。


 どこまでも続く、灰色の荒野。私はそこで、必死にシモの背中を追いかけていた。


 けれど、彼は一度も振り返らずにただ黙々と歩き続けている。


 「シモ、待ってください!」


 叫んでも声が出ない。焦りが募る中、彼の足元がおかしいことに気づいた。彼が歩いた後には、点々と黒い染みが残っている。


 血だ。


 追いついた瞬間、シモはゆっくりと私の方を向いた。その顔は蒼白を通り越して土気色で、虚ろな目が私を映す。


 彼の羽織りの下、ズボンの裾から、とめどなく血が流れ出していた。


 「シモ!? しっかり、今ヒールを……!」


 私は震える手で杖を構え、治癒魔法をかける。淡い緑の光が彼を包むが、血は止まらない。それどころか、勢いを増しているようにさえ見える。


 「どうして……どうして止まらないの!」


 何度も、何度も、魔力が尽きかけるほどヒールをかける。それでも血は流れ続け、彼の足元にはおびただしい血だまりが広がっていく。


 「チコル」


 シモが乾いた唇で私の名を呼んだ。  


「……寒いよ」


 その声と共に、彼の身体がゆっくりと傾いでいく。


 「いやあっ!」


 「……ル! チコル、しっかりしろ!」  強く肩を揺さぶられ、私は勢いよく目を開けた。そこにあったのは、夢の中の土気色の顔ではなく、心配そうに私を覗き込むシモの青白い顔だった。


 「……シモ?」


 「ひどくうなされていたようだけど、大丈夫かい」


 荒い息を整えながら周囲を見渡す。そこは昨夜野営した森の中で、空は白み始めていた。燃え尽きた焚き火のそばで、シェバンニが胡坐をかいたまま、じっとこちらを見ている。


 彼は昨夜、シモに宥められて木陰で眠ったはずだ。


 「シェバンニ……月は」


 「心配かけたな、もう平気だ。日が昇れば、あれも消えるから」


 彼の声は少し掠れていたが、黄金色の瞳には昨夜の怯えの色はなく、いつもの鋭さが戻っていた。どうやら正気に戻ったらしい。


 「ごめんなさい、私まで……変な夢を……」


 流れ出た汗を手の甲で拭う。夢の中の光景が脳裏に焼き付いて離れない。あのおびただしい出血。ヒールが効かない絶望感。


 「チコルのせいじゃない。これも僕のせいだろうね」


 シモは自身の服をつまみ、鼻にあてがいながら呟いた。


 「僕から出る瘴気がチコルの魔力に反応して、悪夢を見せたんだと思う」


 その言葉にシェバンニも頷く。指で鼻をつまみ、ジェスチャーで「くさい」と表した。


 「寝る時は僕から離れたほうがいいかもね」


 「……二人とも、心配かけてごめん」


 私の謝罪にシモは力なく笑うと、おぼつかない様子で立ち上がった。


 「さあ、行こう。ロックフェルはもうすぐだ」


 その足取りは、今までよりもさらに覚束ないものに見えた。私の悪夢が、ただの夢では終わらないかもしれないという予感が、冷たい霧のように胸に広がった。


* * *


 交易都市ロックフェルは、平原と山岳地帯の結節点に位置する巨大な城塞都市だ。


 魔王討伐以前は、魔族の領域と人間の領域を分かつ最前線の一つでもあった。分厚い城壁が幾重にも街を囲み、その威容は、私が育った王都の城下町とは比べ物にならないほど武骨で、荒々しい。


 「……すごい、街全体が要塞みたいです」


 街へ入るための長い列に並びながら、私はその巨大な城門を見上げた。


 「魔王がいた頃は、ここが防衛の要だったからな。魔王軍の幹部クラスが何度も攻めてきたが、一度も落城しなかった難攻不落の都市だ」


 シェバンニが、どこか誇らしげに説明してくれた。


 しかし、その難攻不落の都市の現在の姿は、私たちが想像していた「平和になった交易都市」とは少し違っていた。


 城門をくぐる人々は、商人や旅人だけでなく、明らかに手練れと分かる武装した傭兵や冒険者が大半を占めている。そして、彼らの誰もが険しい表情を浮かべ、警戒を解いていない。


 街の中に入っても、その印象は変わらなかった。


 確かに市場は開かれ、様々な品物が並び、活気はある。だが、その活気はどこか切迫したような、危うい熱を帯びていた。


 「街道整備の遅れで南からの穀物が届かねえ!」


 「またかよ! こっちは北の鉱石を運んできてるんだぞ!」


 「そもそも街道が安全じゃねえんだ! 昨夜も崖猿の群れに荷馬車がやられたらしい!」


 休む暇なく、あちこちで怒号が飛び交っている。


 確かに魔王は倒された。しかし、それによって生まれた力の空白と混乱は、未だに王国全土を覆っていた。


 特に、こうした辺境に近い都市ほど、その影響は色濃い。街道整備は追いつかず、インフラは麻痺したまま。そして、主を失った魔物の残党が、整備されていない街道を我が物顔で闊歩している。


 平和は訪れたはずなのに、人々はまだ戦いの只中にいるようだった。


 「……なんだか、思っていたより荒れてるね」


 シモが、咳をこらえながら呟いた。人混みと埃っぽさが、彼の喉を刺激するようだ。


 「まず宿を探しましょう」


 ロックフェルはとにかく広い。シェバンニを先頭に、工事現場や採掘場から上手く距離の離れた宿をなんとか見つけ出した。


 それでも一、二時間は歩き回ったため、シモを真っ先にベッドへと座らせた。


 「シモは休んでて。オレたちで情報を集めてくるから」


 「ありがとう……頼んだよ」


 私とシェバンニは、何かと情報が集まりやすいであろう酒場へと向かった。


 酒場は昼間だというのに薄暗く、様々な匂いが充満していた。汗、安い酒、埃、そして微かな血の匂い。傭兵たちが戦利品らしき魔物の牙をテーブルに並べ、大声で酒を酌み交わしている。


 「さてシェバンニ、どうしましょうか」


 「濃霧谷。この単語に反応する奴を探す」


 シェバンニはカウンターでエールを二つ注文すると、その黄金色の瞳で油断なく店内を観察し始めた。耳がピクリと動き、鼻がひくつく。


 彼は、この喧騒の中から、必要な情報だけを嗅ぎ分けようとしていた。


 「おぇっ、酒臭い……けどあっちの隅だ」


 シェバンニが顎で示した先には、商人風の男と、ベテランらしき冒険者のグループがいた。彼らは声を潜めて、何やら深刻な話をしている。


 私たちは、そのテーブルに聞こえるか聞こえないかくらいの距離に腰を下ろした。


 「……だから、あの谷にだけは近づくなとあれほど言ったんだ」


 冒険者の一人が、忌々しげに言った。


 「まさか、あんなことになるとは……」  「濃霧谷は今やただの瘴気だまりじゃねえ。呪いの谷だ」


 やはり、あの谷の話だ。


 「魔王が倒されてから、谷の霧がさらに濃くなってな。魔力も乱れ放題だ。コンパスも魔法も役に立たねえ。一度入ったら二度と戻れないって噂は本当だぜ」


 「おいおい、そんな場所にわざわざ近寄る奴がいるのか?」


 シェバンニが、わざとらしく大きな声で割り込んだ。


 冒険者たちがギロリとこちらを睨む。人狼の気配を隠してはいても、シェバンニの体格と鋭い眼光は、尋常な威圧感を放っている。


 「……あんたらにゃ関係ねえ話だ」


 「んー、そうでもないぜ」


 シェバンニは手に持ったエールを一口飲むと、テーブルに銀貨を数枚放った。


 「俺たちも、その『呪いの谷』に用があってな。最近、何か変わったことはなかったか……ちょっと聞かせてもらおう」


 金の力は偉大だ。冒険者たちは顔を見合わせ、やがて一番年長らしい男が口を開いた。


 「……変わったことか。なら、一つだけ奇妙な噂がある」


 「ほう」


 「ここ一月ほど、あの谷から妙なモンが飛んでくるのを見たって奴が何人かいてな」


 表情ひとつ変えないシェバンニと違い、私の喉は、彼らの放つ緊張感にゴクリと鳴る。


 「コウモリだ。それも気味の悪い、真っ白いコウモリでよ、昼夜関係なく見えるんだ」


 私とシェバンニは目を見合わせた。間違いない。


 「普通のコウモリなら夜に飛ぶはずですよね?」


 「ああ。そいつが現れてから、谷の近くの魔物がどうもおかしい。妙におとなしくなったり、逆に、前にも増して凶暴になったり。まるで、谷に新しい主でも現れたみたいだ、なんて話してるロマンチストもいたぜ」




 男たちはゲタゲタと笑った。


 アルビノの吸血鬼、インヒューマ・イフカウント。彼が谷にいる可能性は、限りなく高くなった。


 「サンキューな、オッサン」


 シェバンニはそう言うと、残りのエールを一気に飲み干し、席を立った。


 「やりましたね、シェバンニ! 案外こういうことには慣れているんですね」


 「まあな! これでシモも少しは……」


 宿の部屋に戻る階段を駆け上がりながら、私は興奮気味に話しかけた。だが、シェバンニの表情は徐々に険しいものへと変貌した。


 「どうしたんですか?」


 「……静かすぎる」


 「え?」


 「部屋からシモの気配がしねえ」


 シェバンニの言葉に、私の心臓は一際大きく跳ねた。私たちは慌てて部屋の扉を開ける。


 「シモ!」


 ベッドの上にシモがいない。彼はベッド脇の床に潰れていた。


 「シモ! しっかりして!」


 駆け寄ってその身体を抱き起こす。ぐったりとしたシモの身体は、氷のように冷え切っていた。呼吸は浅く、かろうじて続いているだけだ。


 「シモ! 目を開けろ!」


 シェバンニがシモの頬を叩くが、反応がない。


 「……シモの匂いがほとんどしねえ……あの厄介な匂いだけが……!」


 その言葉が、私が今朝見た悪夢と重なった。


 「いや……!」


 私は夢中で杖を取り出し、最強度の回復魔法を施す。


 けれど、彼の顔色は戻らない。呼吸は浅いまま。まるで、スポンジに水を撒くように、治癒の魔力が吸い込まれて消えていく。


 「どうして……どうして効かないの!」


 夢と同じだ。私は自身を作り上げた魔法で、彼を殺してしまうのだろうか。


 「チコル、落ち着け!」


 シェバンニに肩を掴まれ、私はハッと我に返る。


 「魔法に頼り過ぎるな、何か……何か、熱を抑えて、気力を補う薬草があれば……!」


 そうだ。今のシモの状態は、魔法でどうこうできる段階を超えているのかもしれない。それなら物理的に、薬効のあるもので身体を支えるしかない。


 「薬草……」


 シェバンニは、苦渋の表情で窓の外を見た。すでに日は傾き、街は夕闇に包まれ始めている。


 「だが、この時間に開いてる店は……」


 「私が行きます! シェバンニはシモを見ていてください」


 私は、シェバンニの言葉を遮って叫んだ。


 「この街の構造は入る時に覚えました。市場なら、夜でも開いている店があるはずです!」


 「無茶だ! 昼間のあの様子を見たろ。夜のロックフェルが安全なはずがねえ!」


 シェバンニの言う通りだ。荒れた街の夜。魔物の残党だけでなく、ならず者や盗賊がうろついていてもおかしくない。




 でも……


 「でも、このままシモを放っておくんですか!」


 私は杖を抱き抱え、自分の頬をぱしんと叩いた。


 「シェバンニはシモのそばにいてください。万が一、何かあった時に対応できるのはあなただけです」


 「チコル、お前……」


 「私は勇者に選ばれた魔導士です。自分の身くらい、自分で守れます」


 本当は、怖かった。


 一人で夜の荒れた街に出るなんて、考えただけでも足がすくむ。けれど、今にも消えそうなシモの寝顔とあの悪夢が、私の背中を押していた。


 もう無力感を味わうのはごめんだ。


 「必ず戻ってきます」


 私はシェバンニの返事も待たず、部屋を飛び出した。


 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った石畳を、私は薬草を求めて、夜の市場へと全力で駆けだした。

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