第4話 力

 「……なんだか、心配して損をした気分です」


 「え? なんで?」


 シモによって一瞬で倒された魔物の群れが、足元でキラキラと魔力の粒子へと還元されていく。その光景を呆然と見つめながら、私は彼が「元」ではなく、今もなお紛れもない「勇者」であるという事実を、改めて認識させられていた。


 シモの容態についての深刻な話をした後、私たちはついに『乙女心の森』へと足を踏み入れた。


 一歩入っただけで、空気が変わる。王国の障壁内とは明らかに違う、濃密で、そして不安定な魔力の匂い。


 私は国王陛下から賜った新しい杖を握りしめ、意識を集中させた。


 「シモ、絶対に私の後ろから離れないでください。ここは魔力の流れが不安定で、いつどこから魔物が……」


 「大丈夫だって。ほら、あそこに珍しいキノコが」


 「ダメって言ってるのに!」


 何度言っても先頭を歩こうとする彼を説得するのに、私は悪戦苦闘していた。彼の底知れない好奇心が、体調よりも勝ってしまっている。


 その時、ガサガサッと周囲の茂みが一斉に揺れた。


 「何か来ます! シモ、下がって!」


 私は杖を構え、魔力を練り上げる。狼型魔物の群れだ。氷の槍を五本同時に形成し、放とうとしたまさにその瞬間。


 「ちょっと遅いかな」


 シモが動いていた。それは、私が今まで見てきた彼の、どの動きとも違っていた。


 杖を頼りに歩いていた、あの弱々しい姿はどこにもない。彼が古びた杖を握る手に力を込めた瞬間、今まで耳障りだったあの「カラカラ」という音が、ピタリと止んだ。


 カチリ、と硬質なロックが外れる音。シモが杖の柄を捻る。


 シュッ、と空気を切り裂く音と共に、杖の先端から、鈍色に光る短刀の刃が飛び出した。


 これは、仕込み杖——!


 低い姿勢で地を滑るように踏み込み、襲いかかってきた狼の群れ、そのリーダー格である一回り大きな個体へと、一直線に飛びかかったのだ。


 いつの間に群れの長を見抜いたのか。私にはまだ、群れ全体の反応しか掴めていなかったというのに。


 ボス個体が牙を剥くより早く、シモの刃がその眉間深くに、正確無比に突き刺さっていた。


 一瞬の出来事だった。


 ボスを失い、狼たちの統率が一気に乱れる。怯えて後退ろうとする群れを、シモは見逃さなかった。


 病気で細くなったはずの身体が、全盛期の記憶をなぞるかのように躍動する。一匹、また一匹と、最小限の動きで急所だけを的確に斬り裂き、突き、沈黙させていく。 


 私は凍りついていた。杖を構えたまま、指一本動かせない。


 練り上げた魔力が、行き場を失って霧散していく。彼の、あまりにも純粋な「殺意」と「技術」の気迫に、私は完全に圧倒されていた。


 手紙の追伸で見せていたあの愉快な姿も、庭園で見せた弱々しい笑顔も、今この瞬間、目の前で魔物を解体していく彼の姿の前では、すべてが霞んで見えた。これが魔王を討伐した英雄の、本当の姿。


 森は再び静寂に包まれた。


 残ったのは、魔力へと還元されていくおびただしい光の粒子と、肩で荒く息をするシモの姿だけだった。


 シモは刃についた血を振るうと、カチリ、と音を立てて刃を杖に仕舞い込んだ。


 途端に、あの「カラカラ」という、頼りない音が戻ってくる。まるで獰猛な獣が、人畜無害な子羊の皮を被ったかのようだった。


 「……ケガは、されていませんか」


 私はようやくそれだけを口にした。


 「はぁ……はぁ……っこの程度じゃ、しないさ」


 額にびっしりと浮いた汗を、シモは腕で乱暴に拭いながら答える。どうやら満足行かないのは、敵の手応えのなさではなく、自身の身体の訛り具合――体力の衰えのようだ。


 「はは……これくらいで汗かいてちゃ、先が思いやられるね」


 シモは私の方を向かず、まるで自分に言い聞かせるように、わざと溌剌とした声で言った。


 その横顔が、悔しさに歪んでいるように見えた。彼の仲間たちは、こんな時、なんて声をかけるのだろうか。


 「無理はしないで」と言うべきか。「さすがです」と称賛すべきか。


 私は、彼が隠していた刃の鋭さと、彼の身体の脆さのアンバランスさに、どう反応していいか分からなかった。


 「あ、あの……杖、剣だったんですね」


 「ああ、これ?」


 シモは仕込み杖を軽く叩く。カラカラ、と気の抜けた音がした。


 「昔使ってた聖剣は重すぎるし、目立ちすぎるからね。それに……今の僕じゃ、もう振り回せないし。これは、その代わり」


 「へぇ……すごい、便利で良いですね」


 私の返答に笑う顔は、もう「勇者」ではなく、いつもの「シモ」だった。


 「……あ。見てよチコル」


 彼は再び杖を突きながら、おぼつかない足取りで数歩、何かに歩み寄った。


 その先には、不気味な紫色のキノコの隣で、健気に咲いている一輪の花があった。


 「キミの目に似て、綺麗な花だ」


 シモが指差したのは、朝露に濡れてきらめく、小さな琥珀色の花だった。私の目。そういえば昔、日の光の下だと琥珀色に見えると母に言われたことがある。この人は、そんなことまで気づいているのか。


 しかし、いや。言うべきだろうか。


 「……どうしたの?」


 私が花を凝視したまま黙り込んでいると、シモが不思議そうに小首を傾げた。


 私は意を決して、彼に言い放った。薬師としての義務感で。


 「シモ、それはとても美しい琥珀色の花ではありますが……『惑い泣き』です。素手で触れると、強烈な幻覚を見て丸一日泣き続けることになる、厄介な毒草ですよ」


 シモは、花と私とを交互に見やった。


 一瞬、気まずそうな顔をしたかと思うと、彼は次の瞬間、ふっと息を漏らすように笑った。


 「そっか……美しいだけじゃなくて、自分を守る強さもしっかり秘めているのか」


 その突然の一言に、私の思考が停止した。


 今この人、何て言った?


 私と花を「似ている」と言った上で、その花の性質を聞いて尚「強さを秘めている」と、そう言ったのか。


 さっきまで仕込み杖で魔物を斬り伏せていた人が、よくもまあ、そんな恥ずかしい台詞を。


 私は平静を装いつつも、内心顔から火を吹く思いだった。


 毒は、確かに自身を守るために作られた成分だ。そして、使い方によっては薬にもなる、とても役立つものでもある。それをわざわざ「強さ」と表現し直したあたり、私のこと……シモは私のことが……?


 いやいやいや。流石に考えすぎだ。


 これはあくまで花の話。シモはきっと、深い意味もなく、思ったことをそのまま口にしただけだ。そうに違いない。


 そう自分を落ち着かせようとすればするほど、顔に熱が集まってくるのが分かった。


 「チコル? 顔、赤いよ?」


 「何でもありません! 行きましょう! 先頭は私です!」


 私はシモの言葉を遮るように叫び、早足で彼の数歩先を歩き始めた。さっきまで彼に気圧されていたことなど、もう忘れていた。


 背後から「乙女心は難しいなぁ」なんて、楽しそうなシモの呟きが聞こえてきたが、私はそれを聞き逃したふりをした。


* * *


 乙女心の森は、その名の通り気まぐれだった。


 毒草地帯を抜けたかと思えば、目の前が突然、巨大なキノコの森になり、かと思えば、視界いっぱいの花畑が広がったりもした。


 その度にシモが「うわー、すごい!」「チコル、あれ!」とはしゃぐので、私はその都度「それは幻覚を見せる胞子です」「あれは食虫植物です」と解説する羽目になり、ちっとも先に進まなかった。


 それでも、日が傾き始めた頃、私たちはようやく森を抜けることができた。


 目の前に広がったのは、谷間に湯けむりが立ち上る、活気のある街並みだった。


 「ふあぁぁああ……」


 そして現在。


 私は、その街の温泉宿で、至福の溜息を漏らしていた。


 私たちが向かったのは、森を抜けた先にある小さな温泉街『ワンアン』だった。  王国付近では有名な観光地の一つであり、「万病に効く」と謳われるほど多種多様な泉質の温泉がいくつもある。


 シモは魔王討伐の時代、急を要していたためワンアンを泣く泣く通り過ぎてしまったらしい。


 街に立ち入った瞬間から、彼は大興奮だった。


 「うわー! あれが『腰痛殺しの湯』の源泉だ!」


 「あっちの『美肌の湯』、チコル入ってきたら?」


 「あ、見て、温泉まんじゅうだって!  絶対食べよう!」


 硫黄の匂いと、浴衣姿の観光客たちの喧騒の中、彼は目を輝かせていた。さっきまで仕込み杖を振るっていた人とは思えない。


 勇者という役職を与えられただけで、シモも本当は、こういうベタな観光地が好きな、普通の感性を持った青年なんだなぁと、私はそのギャップに少し微笑ましく思った。


 それはそれとして、今は宿の露天風呂で汗と埃を流し、小休憩を取っているところなのだが……


 「いやあ、兄ちゃん、エラい勇者様に似てるなぁ!」


 「ホントだ、顔立ちはそっくりだ……でも、勇者様がこんなヒョロガリな訳ねぇだろ」


 「ちげぇねえ! ガハハハ!」


 竹垣一枚を隔てた隣接した男湯から聞こえる、無遠慮な会話。


 私の心だけがちっとも休まらない状態だった。せっかくの温泉なのに、お湯の温度が急に下がった気さえする。


 シモは、おそらく現在の自分の身体にコンプレックスを抱えている。


 森での戦闘後、彼が見せたあの悔しそうな横顔を、私は知っている。


 それを、見ず知らずの他人に大声で指摘されながら、図らずとも過去の姿と比較されては、たまったものではないだろう。


 (この人たち、何も知らないで……)


 私の怒りは、誰にも知られずに沸々と溜まっていった。


 「兄ちゃんどっから来たんだい」


 「……王国から……です。あの……森を抜けて……」


 シモの声は、シャワーの音にかき消されて、途切れ途切れにしか聞こえない。私は思わず、壁際にじりじりと寄った。


 「お、王国から!? あの迷いの森をかい?」


 「冗談キツイぜ、兄ちゃん! しかも、連れの嬢ちゃんと二人であの森抜けてきたって?」


 「そのヒョロい身体じゃ出来っこねぇだろ! 魔物に食い殺されて終わりだ! ガハハハ!」


 湧き上がる、複数の下品な笑い声。


 それでもシモは、何か「でも、本当で……」と話しているようだったが、それもまた「はいはい、夢でも見てたんだろ」と軽くあしらわれてしまっていた。


 もう、我慢できなかった。さっきの戦闘で、彼がどれだけ強かったか、この人たちは知らない。彼が病気と闘いながら、それでも前に進もうとしていることを、知りもしないで。


 私は湯船からバシャッと立ち上がった。  周りに他のお客さんがいるにも関わらず、


 「彼は……彼は、とても強いです!」


 と、壁に向かって大声で叫んでしまった。


 シン……


 途端に、男湯から笑い声が聞こえなくなる。


 女湯も、水を打ったように静まり返った。湯けむりの向こうで、さっきまで世間話をしていたおばちゃんたちが、全員私を見ている。


 後ろにいる人の、くすくす笑う気配。壁の向こう側からも、無数の視線が突き刺さっている気がして顔がカッと熱くなる。


 やっちゃった。


 「……ははっ」


 沈黙を破ったのは、シモの耐えきれないといった笑い声だった。そして、男湯全体に響く、ハキハキとした声。


 「そうだね、僕は強いから安心してね!」


 その声は、私に向かって言ったのか、それとも男たちに向かって言ったのか。


 いずれにせよ、その明るい声色が、私の羞恥心を臨界点まで押し上げた。


 私は「うわああああ!」と心の中で叫びながら、あまりの恥ずかしさに温泉を飛び出したのだった。

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