第5話 遭遇
カッカと熱くなった顔をひんやりとした夜風で冷ましながら、私は一人、宿の玄関先でシモを待っていた。
竹垣の反対側へ向かって、あんな大声を張り上げてしまった。今思い出しても、顔から火が出そうになる。
「私、何やってるんだろう……」
湯冷めした身体がぶるりと震える。恥ずかしさと、少しの後悔。シモは、怒っていないだろうか。それとも、呆れているだろうか。
ぱら、と宿の暖簾が上がる音がした。慌てて振り返ると、そこには意外な光景が広がっていた。
「おっと、足元気をつけな、兄ちゃん」
「うへへ……すいませ……」
シモが、さっき男湯で一番大きな声で笑っていた屈強な男に肩を抱えられるようにして現れたのだ。
いや、ほとんど「担がれている」と言った方が正しい。長く湯につかりすぎて、完全にのぼせてしまったという。
「だっ、だだだだだ大丈夫ですか!?」
私は慌てて駆け寄った。シモの顔は、湯上がりというレベルを超えて、茹でダコのように真っ赤になっている。
「おう、嬢ちゃん。水はしっかり飲ませたし、命に別状はねぇよ。だが、見ての通り、歩き方がフラフラで危なっかしいからな。一応ここまで運んできた」
「ははは……」
「はははじゃないですよ!」
男の腕の中で、シモは力なく笑っている。私は思わず声を荒げた。
男は私を見ると、ぐいとシモを地面に降ろした。シモは「ふにゃ」と効果音がつきそうな勢いで座り込む。杖を受け取る手つきも、生まれたての小鹿よりも不安定だった。
男は、そんなシモを尻目に、私に向き直ってバツが悪そうに頭を掻いた。
「ところで嬢ちゃん……さっき大声出した子か?」
「えっ、あっ、は、はい……その節は、お騒がせして、すみませんでした……!」
私は慌てて深々と頭を下げた。
「いやなに、謝ることねぇさ。こっちこそ悪かった。俺らも騒ぎすぎてな」
男は豪快に笑ったかと思うと、急に真面目な顔つきになった。
「……大事な連れにあんなこと言われちゃあ、怒っちまうのも仕方ねえよ。それに……」
「それに?」
男は、壁にもたれかかってぐったりしているシモを一瞥した後、声を潜めて私に言った。
「……アンタの声がした時、一瞬だけ、あの坊主から……こう、なんつーかなぁ。殺気、みたいなもんを感じてよ」
「殺気、ですか」
「ああ」
男は自分の太い腕をさすって笑った。
「ヒョロガリだなんて馬鹿にしてたが、ゾッとしたよ。ありゃあ、本物の修羅場をいくつもくぐってきた奴の気配だ……もしかしたら、本当にタダもんじゃねぇのかもしれねぇなって思ってな」
私は息を呑んだ。森で見た、あの戦闘を思い出す。
仕込み杖を抜き放ち、狼の群れを瞬時に壊滅させた、あの鋭い動き。
シモは、元とはいえ勇者なのだ。今も身体は衰えたと語ってはいるが、その魂に刻まれた「力」は失われていない。
それを、あの場では一切表に出さず、ただ無礼な言葉を向けられたことに対する静かな怒り……その気迫だけで、この屈強な男を黙らせたというのだろうか。
「……そう、ですか」
私は、壁際で「水……」と弱々しく呟いている男を、改めて見つめた。この人の底が、まだ全く見えない。
「まぁ、なんだ、悪かったな。ゆっくりしていけよ。ここは飯も美味いし、硫黄臭いおかげか、魔物も滅多に寄ってこねぇからさ」
「あ、ありがとうございます!」
男は「じゃあな」と片手を上げ、再び銭湯の暖簾をくぐっていった。
「……シモ、歩けますか?」
「んー……いけるいける、ダイジョーブ」 「本当ですか……」
立ち上がろうとして盛大によろめいたシモの腕を、私は慌てて掴んだ。
細い。
「ほら! 大丈夫じゃないじゃないですか!」
「いてて……ありがとう」
私は、まだ歩き方の安定しないシモを支えながら、夜の温泉街へと踏み出した。
硫黄の匂いと、カランコロンと鳴る下駄の音。
夕暮れの空の下、旅館の窓には明かりが灯りはじめ、あちこちの食事処からは、魚を焼く香ばしい匂いや、出汁のいい香りが漂ってくる。
(ああ、いい匂い……)
日も暮れかけているし、せっかくこんな素敵な観光地に来たのだ。
今夜は旅館に泊まって、この土地の豪華な晩御飯なんかを堪能したいものだ。
シモの体調を考えても、それが一番だろう。
「チコル」
「はい? あ、あそこのお店、天ぷらが美味しいみたいですよ」
「僕、今日野宿したいな」
ん……?
何を言っているんだろう、この人は。
私は、自分が今支えている男の顔を、まじまじと見つめた。
「シモ……今、何と?」
「野宿がしたい」
「……ここは、温泉街ですよね? 観光地ですよね?」
「うん、そうだね」
「あなたは、さっきのぼせたばかりの病人ですよね?」
「まあ、そうだね」
「なのに、どうして野宿なんか……」
「うーん、久しぶりの外だからかな!」
ふらつきながらも、シモは溌剌と答える。本当に、この人は何を言っているんだ。
「ダメです! 絶対にダメです! 美味しいご飯とか食べて、そのあとは旅館の広いお部屋で、ふかふかのお布団でゆっくり休みましょうよ!」
「やだ」
「やだ、じゃないですよ!」
「僕は野宿が一番リラックスできるんだよ。城のベッドは柔らかすぎたし、旅館も多分同じだ。地面の硬さと、夜の冷たさが丁度いいんだよ……ね、案外気持ちいいよ。キミにも体験してほしいな」
シモは、私と視線が交差するように、わざと腰をかがめてこちらを覗き込んできた。
不健康なほど白い肌に、光の薄い瞳。だが、その瞳は、昨日私に病を告白した時と同じ、キラキラとした光を宿していた。
『いつかキミと旅をするために』
彼にとって、旅とはこういうことなのだろうか。
「ううっ……!」
かつて魔王討伐の旅の最中、彼はその美貌とカリスマ性を使い、目の前に立ちはだかる幾多の壁を乗り越えて見せたと、噂で聞いたことがある。
今、私は、その噂の片鱗を体験しているのかもしれない。
これは美貌というより、わがままな子供の顔だが……その瞳の奥にある、確固たる意志に、私は屈せざるを得なかった。
「……っ、わかりました。分かりましたよ!」
私は大きな溜息をついた。
「でも! ご飯はちゃんとしたところで食べたいです! さすがに野営食は準備してませんから!」
「!本当かい? やった!」
シモは、さっきまでのぐったりした様子が嘘のように、パッと顔を輝かせた。
「もちろんいいよ。何がいいかな、魚とか美味しいかな」
私のむくれっ面も、街行く人々の「あの二人、大丈夫か?」という視線もお構いなしに、シモはルンルンで歩き始めた。もちろん、まだふらついているので、私が支えていることには変わりないのだが。
結局、私たちは、観光客向けのお高い店ではなく、さっきの男に教えてもらった「現地の人にも愛されている」という、古き良き食堂を選んだ。
そこで食べた、じっくりと焼かれた川魚の定食は、皮はパリパリで身は驚くほどふっくらしており、素朴ながらも忘れられない味だった。 シモは「美味しい、美味しい」と、ご飯を二杯もおかわりしていた。
すっかり満足した私たちは、街を出て少し進んだ先にある、なだらかな丘の上、開けた草原で野宿をすることにした。
街の灯りが遠くに見え、魔物の気配もない、穏やかな場所だった。
「ちょっと寒いかな」
「当たり前じゃないですか、まだ春になってすぐですよ。これ、着てください」
私は自分の荷物から、予備の厚手のショールを取り出してシモに手渡した。
「わ、ありがとう」
すでに地面に大の字になっていたシモは、それを嬉しそうに受け取ると、器用に身体に巻き付けた。
私はその傍らで、焚き火用の枝集めを始める。
大の字になったシモが、私がせっせと働くのを目で追って、「手伝おうか」と形だけ伝えてくる。
「いいですから、ゆっくりしていてください」
「はーい」
私の言葉に、シモはまた平べったくなった。夕焼けの最後の赤と、夜の最初の青が混じり合う、美しいグラデーションがかった空を、彼はどこか愛おしそうに見つめている。
私は集めた薪を彼の傍らに置き、そっと手をかざした。
魔力を集中させ、発火のイメージを描く。
「よっ」
乾いた薪の中心から、静かに、だが力強い炎が立ち上った。パチパチと薪がはぜる音。シモが大の字のまま、目を丸くしてこちらを見ていた。
「……無詠唱?」
「え? ああ、そうですね。これくらいなら」
「すごい。やっぱりチコルはすごいな」
彼は、心の底から感心したように言った。森で彼の戦闘に圧倒され、自分の無力さを感じていた私にとって、その素直な賞賛は、じんわりと胸に温かいものを広げた。
私の中で、この人にとってやっと「同行人」として、魔法使いとして、認められた気がした。
「……ありがとうございます」
そよ風に揺れる煙を目で追いかけながら、私たちはしばらく、何も発さなかった。
焚き火の暖かさと、夜の静けさが心地いい。次第に空は深く暗くなっていき、一番星が顔を出し始めた。
「……新月だ」
不意に、シモが呟いた。
その声にハッと我に返る。いつの間にか、シモは隣におらず、立ち上がっていた。私の数歩先で、暗闇の向こうをじっと観察している。
「どうしたんですか?」
「……いや」
先ほどまでとは異なるシモの声。私も立ち上がり、彼の視線の先を追う。
暗闇に二つの眼光が爛々と光っていた。
「狼……いえ、違いますね。人狼です」
急いでシモの元へ駆け寄ると、十メートルほどの距離を開けて、それがこちらを睨みつけているのが分かった。
森で遭遇した狼の群れとは比べ物にならない。桁外れに良い体格をしており、全長は三メートルをゆうに超えている。魔力ではなく、純粋な「格」が違う。
(おかしい。この辺りは魔物が少ないって言っていたのに。しかも、月が出ていないのに人狼なんて……!)
「シモ、下がって。私が出ます」
今度こそ、私が守る。私は新しい杖を構え、魔力を高めた。
「いや、いい」
だが、シモは私の前に立ったまま、動かない。
「相変わらず、怖いな」
「え?」
「相変わらず」という彼の言葉に引っかかっていると、人狼が動いた。 グルルル、という地を這うような唸り声と共に、勢いよく地面を蹴り、こちらへ向かってきた。
速い!
「下がって!」
シモは私の声掛けに合わせるように————前に出た。
「……は?」
信じられない光景だった。シモは、あのカラカラ鳴る仕込み杖を、足元にぽいと投げ捨てたのだ。
そして、のぼせていたはずの千鳥足で、無防備に、その巨大な人狼へと向かっていく。
いくらシモが強くても、素手でどうこうできる相手ではない。狼とは似て非なる、高位の魔物だ!
「はあッ!」
私は炎の魔法弾を数発、人狼の足元へ進路を塞ぐように同時に炸裂させた。一つの球から枝分かれした火球が、網のように人狼を包囲する。これなら避けられないはずだ。
「……!?」
しかし、人狼は信じられない動きを見せた。
私の放った魔法弾の、その僅かな隙間を縫うように、右へ左へと、まるで踊るようにするりと躱してしまう。
(おかしい、俊敏性があまりにも高い……このままだと、シモに……!)
人狼は猛進を止めることなく、シモの目前まで迫った。
そして、シモの無防備な腕の中へと飛び込む――その直前。
人狼の巨大な身体が、ボフン、と煙を立てるように収縮し、一瞬で人型へと戻った。
「おいで、シェバンニ!」
「会いたかったよシモー!!!」
たくましい腕でシモの細い身体を抱きしめ、グリグリと頭を擦り付けている元・人狼の青年と、それを満面の笑みで受け止めているシモ。
私は、杖を構えたまま、その場に呆然と立ち尽くしていた。
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