夜明けの空にまいた種(『紅い月を盗んだ夜、番外編』)
香坂 壱霧
第1話
ぎこちない『赤い靴』のメロディー。おもちゃのピアノの音色が、耳元で鳴っている。
それは、わたしにしか聴こえていないらしい。どこから聴こえるのか辺りを見回しても、おもちゃのピアノは見当たらない。ファミレスでおもちゃのピアノを弾く人なんているはずもない。
周りにいる人たちは、わたしが震えていることに気づかない。歯を食いしばり、泣くのを我慢するしかなくてうつむく。
「ドリンクバー、行ってくるね」
夢中で話している保護者たちは、わたしの言葉なんて聞いていない。わかっているけど、一応。
コップに氷をいれて、オレンジジュースを注ぐ。
「ね、あんた、赤い靴のアレ、聴こえてるんでしょ」
誰もいなかったはずのに、突然、コップを持った女の人に話しかけられた。ゆるくウェーブのかかった艶のある赤毛が、わたしの肩に触れている。
その人は、わたしの顔をのぞきこみ、「その音、怖い?」と訊いた。
「でも大丈夫。アレを鳴らしてるの、あたしだから。あそこにいる馬鹿なやつらのほうが、ヤバいのよ」
どういうこと?
「んー、だってさ、こんな時間にあんたくらいの年の子を連れ回す大人って、よくないんでしょ?」
おもちゃのピアノ、周りに見当たらない。鳴らしてるって、どうやって?
「精神干渉ってやつ。そうじゃなきゃホラーでしかないよね」
セイシンカンショウ?
よくわからないけど、心霊現象じゃないのかな。
「おもちゃのピアノ、あんたの記憶にイビツなものとしてあったから使わせてもらった」
わたしの目をじっと見つめているその瞳は、
「怖がらないんだねぇ。ああ、そっか。周りの大人たちのほうが、よほど悪魔だもんね」
ふふん、と笑う紅い瞳のおねぇさん。
「そろそろ、いいかな」
そう言ったあと、小さな声で聞いたことがない言葉を唱えてた。
ファミレスの店内が真っ暗になる。外の灯りも消えているみたい。
「姫。言われた通り来ましたけど……なんだ、これ」
どこからともなく聴こえる低い声は、呆れているようだった。
「何って、これはあんたの食事だよ。いつだったかの、助けてくれたお礼」
おねぇさんの周りに、青白い炎のようなものがいくつか集まっている。
「これ、なぁに?」
「これはね、あんたに酷いことをしてきたやつらの悪い
魂の欠片?
「魂なくなったら、死んじゃうよ?」
「欠片を食べるだけだよ。死にはしない。抜け殻みたいになるかもしれないけど、悪い大人ではなくなるよ」
炎のようなものが暗闇に消えていく。
「これは……美味いな。そこの嬢ちゃん、これでちゃんと眠れるさ。よかったな」
よかったなと言われて何のことだろうと考えていると、明るくなった。電気が点いたみたい。
「悪魔なのに人助けか。物好きな姫だな」
おねぇさんの隣に、黒づくめの男の人がいた。
「余計なこと言わず、さっさと帰りなよ。もうすぐ夜明けだよ」
「言われなくとも。じゃあな」
男の人は突然消えたのに、誰も驚かない。
「大丈夫。さっきのお兄さんもあたしもあんたも、ほかの人には見えてない。早くうちにお帰り。あとプレゼントもあるからね」
見えてないってどういうことかと考えていたら背中をとんっと軽く押された。
その瞬間、景色が変わる。
わたしの家の、押し入れだった。真っ暗な場所、いつも、わたしはそこにいた。
そうだった。わたしは、里親のあの人たちに殴られたり蹴られたりして、ここに閉じ込められて……その間、あの人たちはどこかへ出かけていた。
痛みで動けなくなっていたはずなのに、今は痛くない。
押し入れの引き戸を引いてみる。開けられなかったはずなのに、スムーズに開いた。
狭い部屋のレースのカーテンの向こう側が、少し明るくなっている。
家には誰もいない。逃げ出すなら、今だ。
わたしは、サイズの合わなくなった水色だったスニーカーを履いて、玄関のドアを開ける。
アパートの玄関は、東にあったんだと気づいた。遠くの山際から、薄橙色に染まる空が見える。
階段を降りて空を見上げたら、きらきらとした光の粒が降ってきた。それは太陽に照らされた雨粒だったけど、明るい未来の種だと感じた。
〈了〉
夜明けの空にまいた種(『紅い月を盗んだ夜、番外編』) 香坂 壱霧 @kohsaka_ichimu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます