彫刻と雫
角伴飛龍
彫刻と雫
試しに、この世に生まれた意味を問うために。
きみは目の前に置かれた石材を見つめるばかりで、部屋に入ったぼくには見向きもしなかった。ぼくは「なんの変哲もない石材だ」と茶化すように言ったけれど、きみは何も返さなかった。
まるで感情を押さえ込んでいるかのようで、今の君にはん
何分か経ってぼくが執筆のために立ち去ろうとした時、きみは 「ねえ、人間じゃないものにも気持ちはあると思う?」とぼくに尋ねてきた。さっきの様子とは違い、言葉にハリが感じられる。きみの頬には、石材の粉がかすかについていて、ほのかに白みがかっている。
「どうだろうね」とぼくは返した。
すると、「小さいころからずっと考えてきたの。なぜ人間だけが意思を持つのかって」と、きみはいまだ見つめながら言った。
なぜ人間だけが意思を持つのか。その命題はすっとぼくのなかに落ちていった。けれどそのときは、ただなぜだろうとしか思わなかった。それだけだった。
学生時代に始まるきみとの思い出が色褪せないことに反するように、その日々が戻ってこないことを実感するときがある。決してきみと自然別れをしてからというもの、ぼくの人生になにか劇的な変化があったわけではない。それでも、一つの親密な関係が終わってしまうということが、少しばかり悲しかったのを覚えている。
きみと付き合うことがけっして苦痛なわけじゃなかった。だがそれといって、別段楽しくもなかったのである。もともとぼくときみは達観したような性格だったし、お互い生活がつらいわけではなかったから、それをともに乗り越えよう、といったこともなかった。ぼくの人生における恋という要素。今思えば、恋というものはしょせんこんなものか、と思いはじめたころから、きみとの別れはすでに決定的だったのだろうと思う。
決して悲しい気分にならないのは、ただ恋仲でなくなったというだけで、きみとはいぜん友達だからだった。ときおり一緒に美術館やギャラリーへ行ったし、カフェやハイキングも楽しんだ。きみのあの芸術意欲を掻き立てられる作業場にもお邪魔できたし、ぼくがきみといることで発生する欲望はすべて満たすことができた。だからあの出来事まで、ぼくの人生におけるきみは、ただの女友達にすぎなかった。
きみががんだとぼくに言ったのはちょうど半年前のことで、きみが多忙なのと言ってあまりぼくに会わなくなって、そこから少し経ってからのことだった。久々に連絡を取り合っているうちに、きみはぼくと別れてから、最近会わなくなっていた期間まで、誰とも付き合っていないことを知った。それはぼくが恋をこんなものかと思うようになったのと同じく、きみも恋にある種のきりがついたのだろうと思っていた。
友達が重い病気にかかっていて、それが他でもないきみだというので、ぼくは連絡が来たその日にお見舞いに行った。久々に会ったきみは、本当にがんなのかと疑うくらいに昔とさほど変わらないように見えた。けれどきみの横には、腕から伸びるカテーテルや病床に添えるように置かれたバイタル機器が、ぼくの脳みそを現実へとふり向かせるように睨みつけていた。
それからぼくは、定期的にお見舞いに行った。むろん、ぼくときみに恋愛感情はなかったから、ぼくも真摯になってお見舞いに行くのに抵抗はなかった。むしろお見舞いに行くことで、ぼくは人としての心を満たそうとしていたのだった。それほど打算的な行動原理が、ぼくがきみという存在よりも、一人の人間に真摯になるという行為に、なにか満足に近いものを見出していた。いずれ治るだろうという根拠のない希望を抱えて、ただ時間が流れ去るのを横目に。
数ヶ月後、窓の縁に軽く腰掛けたぼくは、軒先から雨水が一つ、また一つと落ちるのを見ていた。いつもなら気にしないような、軒先に羅列する水滴の膨らみが、落ちるたびに穏やかなリズムを刻んでいる。いまにもぽたっ、ぽたっという音が、ガラス越しに聞こえてきそうなほどに。
……何をしているの…………なんでもないよ……。
声が聞こえてくる。
外はもう夜にさしかかっていた。夜の雨は見えないはずなのに、そのときはなぜかおぼろげに見える気がした。雨粒がさながら遠くで散乱する流星群のようで、ぼくは普段は見えないはずのものが見えるようになって、そこら中に満ちる現実から目を背けるように、想像の中へと落ちはじめていることに気づいた。水滴のうちのまして綺麗に見える一つが、徐々に震え出して空間と共鳴しだしたのも、ちょうどそのときからだった。
ぼくがその一つを凝視して、目のピントがしだいに集中し始めると、時間が伸びたり縮んだりして、数分にも思える数秒が一瞬のうちに過ぎさっていった。それは最後の力を振り絞って、鬱屈した世界から暗黒の夜に、いまかいまかと弾き出ようとしているかのようだった……。
その刹那だった。
それは本当に瞬間のことだった。それは細長い丸みとなって暗黒の中へと吸い込まれていった。
ぼくは目を覚ました。軒先の水滴は変わらず一つ、また一つと落ちている。やはりそれは時間にして、ほんの一瞬に過ぎないらしかった。ただ、その一瞬のうちに、あの窓の向こうがわの、雨が降りしきる闇夜に広がる果てしない純黒の世界へ、透明な一滴が降りていったのである。その不思議と軽やかな音は、精神の垣根を超えてどこまでも響き渡り、ちょうど医師がきみの酸素マスクを外した時に聞こえたような気がした。
「大丈夫かい」
「……ええ大丈夫よ。今日は……気分がいいの……」
「そう。でも今日は雨だから、ぼくでもあまり気分が良くないけれど」
「ええ……、でも久々の雨なのよ。なんだか綺麗よ……」
今日も普段のお見舞いと変わらない。病室を訪れて君を一目見て、 「どこか痛い?」 「頑張って」と言ってみたりする。そしてきみは、「大丈夫だよ」と返す。ぼくたちのお決まりのパターンだった。
きみのお見舞いを始めてからというもの、ぼくは毎回が同じ行為の繰り返しであることを拒むようになっていた。きみのことを気にかけつつも、ぼくはそのかたわらで、こんな状況にある人間に、どうやって接すればよいのだろうと考えていた。
たとえば、 「頑張って」。これは相手の気持ちを何も考えていない乱暴な言葉だろうか。きみに比べればぼくの些細な心境など、むしろ解放に近い感覚ではないか。きみとぼくにある決定的な差が、ぼくには分かりかねている。きみにとって、ぼくという存在はどう映っているのだろう、と。
ぼくは今のところは、全てが終わりつつあるさなかにかける言葉には、それほど大した差などないのだろうと思っていた。ぼくには言葉がある。これまで何回そう思ったかわからない。けれどきみの容体が一向に良くならないのを見て、ぼくはたかだかぼくの言葉なんてものに、いったいどれほどの価値があるのだろう、と考えていた。
そんななかでも、雨は次第に強まりつつある。
こういう鬱屈した気分は、さながらきみの容体を反映しているかのようだった。誰であろうと悩まない日はない。今日のぼくのように、たとえきみのような存在がいなかったとしても、誰しもが悩みに苦しむだろう。ぼくのように、言葉に価値はない、きみにとっては、どこか鬱陶しいだけにすぎないのだろう、と。
たしかにそうなのかもしれない。実際、そう思われてもおかしくはなかった。けれどそれは、ただ何も思いつかないから、ただやたらめったに言っているのではない。ぼくは心の中で弁解した。ぼくが、まだどこかで、あいまいな 「希望」にすがっているからなのだ、とぼくはきみに語り聞かせるように言った。
「希望」にすがるしかない。そこはきみも同意なのだと思っていた。きみの容体はすでに、運命の向かうままなのだ、と。医師も 「今日は安静ですよ」などと繰り返すばかりで、ぼくは毎回医師の顔を見るたびにうんざりしていた。
ぼくは今になって、些細なことに抗いたくなったのかもしれない。
人間の力でどうにもならないならば、希望という精神力でそれを乗り越えられないだろうか、と。そうしたら、あの陰湿な医師を見返してやれる。そんなさりげない希望だった。
そんなわけでぼくは 「きっと治るよ」 「大丈夫だよ」と言ったのだろう。
そうして、また少しばかりの時が経った。雨はさらに強まって、窓ガラスに突き刺さるかのような勢いが目の前にある。世界から音が消えて、雨が支配しているかのようだった。
今思えばあの瞬間は、空気が一変してなにか別のものに染まりかわっていく、そういう気がした。ぼくはその時、「あっ」という声にもならない言葉を吐いたのを覚えている。その瞬間が、あまりにあっけなく、突然に訪れたからだった。
医師や看護師がすぐに駆けつけて、あの雨の音は、もうどこかに消えていた。その頃には、もう病室に人の姿はない。ぼくは廊下の奥に消えていく彼らを見送った後、その部屋を見た。
二時間後、医師がぼくのもとに来た。
数日後、ぼくはとりあえず誰かに会うべきだと思って実家に帰った。家に帰っても、酒を飲むかタバコを吸うか、ただ嫌な空想に耽るか、味気のない未来を妄想するだけだった。鬱屈しているうちは、どんなことをしていてもすぐに鬱屈色に染まってしまうものだ。若い頃、すでにそれは分かっていただろうに、ぼくはすっかり忘れてしまっていた。
「なにもしてやれなかった」ぼくは母につぶやいた。
「亡くなることを止められる人間はいないわ。取り越し苦労なのよ。しっかりしなさいよ」
母はこんな時でもしっかりしている。学生の頃、ぼくはときどき家にきみを招いていたから、母は当然きみのことを知っていた。ぼくがただ億劫な状況に対し、母はどんな状況でも冷静でいられそうな、きりっとした顔立ちをしている。
「いまは、ゆっくり休んだほうがいいわよ」
「そうよ、ゆっくりしなよ」妹が後を追うように言った。
ぼくは母がそういうならと思った。いつのまにか今は、ぼくにとって母が心の依代だった。人は自分が一人でも構わないと思っていたのが、いつしか子供の時も学生の時も、依代になる誰かがずっといてくれていたのだと気づくものだ。その点、ぼくの人生にとっての依代ははっきりしていた。世の中には、それに気づくことなく成熟する哀れな人もいるのだろう。
そうしてぼくはさりげなく、一枚の手紙を取り出した。
「それは?」母が尋ねた。ぼくはなかなか言い出さなかった。それは今になると、何故なのかがよけいわからなくなる。だがテーブルを囲む家族みんなは、その存在が今際の際に生み出されたかけがえのないものであることを悟った。
「あのひとの手紙なの?」
手紙を取り出してしばしたったのち、悲しみを超えていささか感動すら香ってくるみんなのなかには、一つ、また一つと涙を流す者もいた。むろん家族はぼくのように当事者ではないし、家族も単に、きみのことを知っているというだけである。だが家族が感動を覚えるのは、きっとその手紙に、一人の人間としての気概を見たからだろう。今際の際の自分の気持ちを、手紙という形で。ぼくは不謹慎ではないかとおもいつつも、心の奥底できみを誇らしいと思った。
だがそこでぼくは、ぼく自身が誇らしいと思う分まだきみの死に、そこまで感情移入できていないのだとも察した。きみの人生がある前に、ぼくにはぼくの人生や感情の振る舞いがある。ぼくの人生におけるきみ。ぼくの人生におけるきみの死が、まだぼくのセンチメンタルな部分に染み渡っていないのだ。なぜだろうか。ぼくは心を締め付けるような感覚を覚えた。人の死は悲しいもののはずだろうに。きみがもう、恋人未満だからなのだろうか、それともただ、ぼくが薄情なのだろうか。ぼくは何よりも、まず悲しむべきではないか、と。
医師の手紙に触れながらぼくは、きみの死をゆっくりと思い出していった。
数日経って、ぼくはきみの作業場を数ヶ月ぶりに訪ねた。きみが最後に訪れたのは入院中のおよそ中期ごろのことで、かれこれ一ヶ月以上、ここは誰も出入りしていない。ぼくは合鍵を使って、一ヶ月使われなかった扉を開いた。
きみの死を悲しむよりも先に、何か別の感情を芽生えさせた罪悪感が、一晩たった今もぼくのなかに残っていた。ぼくはきみという存在を、そこまで軽視していたのだろうか。ぼくにとってのきみがどんな存在だったか。ぼくは恋人こそ男女の関係性の最上位だと、どこかで思っていたのだろう。恋を見限ったぼくは、じつは誰よりも恋愛というものに縛られていたのだった。
ぼくは、きみがよく石材を見つめた部屋に入った。
ここで何度、有意義なひとときが紡がれただろう。ぼくにとってここは意見の発散場であり、芸術の意識を高める場だった。その名残りは、きみがいなくなったあとでもひしひしと伝わってきた。
そしてぼくは、一つの彫刻を目にした。
彫刻はもう完成している。相変わらずさまざまな想像を掻き立てる作品である。きみが世に残すものは、いつも想像の余地を残す。それはぼくが思いつくものもあれば、永久に思い付かないようなものもあった。ぼくはそういう想像の壁を感じるのが好きだった。だからこそ、きみと会い続けていたのかもしれない。
ぼくは一筋の涙を流した。
ぼくにとってきみは愛し合っていなくとも、恋人とも友達とも違う、本当に分かり合える仲間だった。だからこそ、なぜぼくたちはあの始まりの瞬間から、全てをかけて愛し合うことができなかったのか。ぼくは後悔に押しつぶされまいと、きみの家に涙をこぼすまいと、必死に顔を拭った。
そして一呼吸おいて、しばらく落ち着いたのちに、ぼくはその場所にゆっくりと座り込んだ。そしてぼくは、ポケットからきみの手紙を取り出した。
医師からこれを渡された時、ぼくの手に全神経が集中したかのような衝撃を受けたのを覚えている。それはこのなかに、ぼくに対するどんな感情、罵ろうがバカにしようが関係ない。 きみの意思」が入っているのだ、と実感したからだった。
ぼくはゆっくりと糊付けされた封筒を開けて、何枚かの手紙を取り出した。ぼくは一文字目から、日本語というものを隅々に至るまで、ひたすら噛み締めるように読み始めた。
「これを書こうと思いを巡らせるうちに、わたしはあの学生時代を思い出します。あれがすべての始まりで、今に至るあなたとの物語のスタートラインだったのですから。あなたとわたしは互いに一人者で、そして互いに芸術が大好き。あなたは勇気をだして、そのことをわたしに気づかせてくれたのです。
お元気ですか。仕事は大丈夫でしょうか?小説家業は、うまくいっていますでしょうか。もちろんいつものようにあなたは、 小説家なんてたいそうなものじゃなくて、むしろ一作品だけでも世に残せたなら、それでいい」なんて言ってごまかすのでしょうね。
でも、わたしはそれが大好きな言葉でした。何か一つでも。それがわたしの気づかぬうちに勇気の源になっていたような気がします。それでも、なにか一つ素晴らしいものを書ききって、何か賞でも取って、いつしか、その決意がさらに成就することを願っています。
あなたはさぞかし、複雑な感情そのままに、さながら闇に沈みゆくかのような、鬱屈した気分でいるのでしょう。なぜそう思うかというのは、それは私があなたに、一番初めに感じた印象なのです。若い頃のあなたはいつも真顔でがんとして、ただ沈黙して、笑うとしてもどこか慣れていない感じ。写真に写るときにはいつも歪な笑顔で、わたしはそれをみて、普段あまり笑わないひとなのだろうな、と感じたのを覚えています。
それだけに、あのとき話しかけてくれたのは、わたしの人生でいちばんの衝撃だったのです。
なぜあなたにこの手紙を書くのかといえば、なにしろわたしとあなたとの特別な仲ですから、これからわたしがあなたにしてやれることはこれっきりですから、そして、わたしはきっと、もう長くありませんから。ですからわたしの最後の人間としての意志を、どうかあなたが留めておいてほしいのです。
どうか三つのたのみを聞いてください。
一つ目は、わたしがもし死んだなら、木の下に埋めてください。わたしが幼い時、故郷の島にいたころ、一冊の本を手にして、よく瀬戸内の海と島々がみえる、海風がたなびく丘に行きました。そこには一本の大木が植っていて、多くの時間が日かげになりました。小さな島に友達はおらず、いたとしても遊びには来ない。わたしのそばにいるのは、いつだってわたしだけ。だからそこにすわって、一冊の世界に没入しながら、あの風景を眺めるのがとても楽しかったのです。
その木はどんなときもわたしの背中にくっついて、大きな空と、綺麗な海と、点々する島々、そしてわたしの心に寄り添ってくれたのです。わたしにとっての一番のかけがえのない場所というのは、いつだってあのとても、とても心地のいい気持ちよいところでした。だから、あの木の下にわたしを埋めてほしいのです。これからずっと、あの風が吹くたびにどこまでもはばたいていけそうな世界を眺めるために。
二つ目は、私はこの手紙をあなたに読んでもらうだけで、私の人間としての感情を世に残せた気がしてよいのですが、それでもあの作品だけは気がかりです。私が世に残したなかで、もっとも未練がある作品なのです。
その作品はわたしの作業場、いつもの場所においてあります。どうか一つ目のお願いを聞いてくれたなら、わたしのそばにその作品をそえてください。
三つ目は、どうかまた、お互いに会えるように祈ってほしいのです。 わたしとの日々はどうでしたか?あなたにとって、満足だったでしょうか。わたしたちの日々は、普通の恋人のようにはいきませんでしたが、わたしはきっと、それでも良かったのだと思います。あなたがわたしを心から愛せなかったように、わたしも自分の全てをあなたにあずけることができなかったのですから。
わたしはどんな時でもあなたを頼るわ。そんなことを一度も言わなかったのは、しっかりと説明できるわけじゃありませんけど、やはりわたしもあなたも芸術に生きる人間だからなのでしょう。わたしたちにとって恋とは、わたしたちの全てを受け止めることなく、むしろ余裕を持って少ない欲望を受け止めるにとどまったのです。
わたしはそんな程度の恋ならば、どこかに捨て去りたかったのです。だって恋ではなく、芸術の、想像の奥深くで、私たちはすでにつながっているのですから。
いつかあなたに、人間じゃないものにも意思はあるのか?と訪ねたのを覚えていますか?わたしは死ぬその時まで、きっとそうだと信じようと思います。わたしは彫刻になる前の石材に、ずっと問いかけていたのです。こんどはあなたの番だと承知してください。
そして、あのとき、ぶっきらぼうにあなたをつっぱねたことを、どうか許してください。 そして、あなたがこれからも、どうか絶望や感情に押し流され、打ち負けることなく、満ちみちたままにこちらへとこられたならば、どうかまたどこかで再会して、そのこたえを教えてください」
手紙をゆっくり閉じた時、外はもう薄暗くなり始めていた。手紙を閉じた瞬間、そこの空気がふっと吹いて、ぼくはその風圧が、ふと心の琴線に触れた気がした。それはきみの人生が、ようやくぼくの人生の上に覆い被さった瞬間だった。
ぼくはちょうど話しかける前の、きみの横顔を思い起こした。そして、滲み出すような、言い尽くせないような感情の束が顔を刺激して、ぼくはうつむいてしばしその余韻に浸った。
やがてぼくは、きみが最後に完成しきれなかった彫刻を見た。やはりとても綺麗に見える。
しかしきみにしかわからない足りないところがあるのだろう。
ぼくは、「きみとまた会えるのなら」と呟いた。そしてぼくは車のトランクにきみの彫刻を載せた。
僕の中にはいまだ、目に見えないほど薄く、慕情というヴェールが拭いきれずに残っている。
僕は片付けを済ませると、部屋を後にした。部屋にはもう何もない、全てがすっきりしていた。
一ヶ月後にはもうここを引き払う。もう来月にはきみの作業場もなくなる。ここはもう取り壊して、誰かに土地を買ってもらう予定になっている。その金があればきっと、あの場所の近くに家を建てられるだろう、と思ったからだ。 そうして数ヶ月の年月が経過して、ぼくは新しい家の軒下に腰掛けていた。きみが望んだ、あの景色を眺めながら。
目の前にあるあの木の根元に、きみは眠っている。そしてその墓標かのように、未完成の彫刻が根元に据わっている。
「人間じゃないものにも、気持ちはあるとおもう?」
どこからかきみの声が聞こえてくる。それはまたぼくが現実から目を背けて、想像に落ちようとしている証に思えた。その日の夜は、天気予報が外れて大雨が降った。僕は家に帰って、食事やシャワーを済ませて寝室の窓のそばに座り、あの日と同じように、軒先から滴る雨水を見ている。その雨はあのときと違ってのしかかるような感覚はなく、ただ少しばかり軽く思えて、雨粒が細い糸で空間をスライスするように見えた。それにはなんの抵抗もなく、なんの苦痛もなかった。
この雨はぼくの奥底にだんだんと染み渡っていった。
……目覚めると、朝になっていた。目の前の木には日差しが差し込み、木漏れ日が水滴の膨らみをいくつも写し出していた。ぼくはまた、あの時間が伸び縮みする感覚を覚えた。
その中の一つがだんだん震え出して、空間と共鳴して、やがて限界を超えていく。それはただ重力のせいだろうか、それとも、意思のせいだろうか。
きみとぼくの関係は、芸術や恋、死。そういう普通とかけ離れた体験をもってここにゴールした。そして、きみがぼくに恋愛を超えた関係を見出させてくれたように、ぼくもきみにかけがえのないものを残すきっかけを、知らぬ間に与えていた。「この世に生きた証を残す」。そしてぼくはきみを見守り続ける。ぼくたちの人生は、二人でようやく実を結ぶのだ。
一滴の滴でも、何年もかけて何千、何万滴としたたれば、岩をも削ることができる。もし人間じゃないものにも意思が宿るとして、それがもし、きみの意思だとしたなら、ぼくはよろこんでそれを記憶の片隅に留めるだろう。忘れ去られた人が存在していなかったことにされるなら、ぼくはきみが風化してしまわないように、いつまでもきみを見守り続けるだろう。ぼくがきみと再会して、かけがえのないきみとの時間のこたえを、きみに語って聞かせるために。
その一滴は未完成の彫刻の額にぽたっと落ちて、染み入るように消えていった。
彫刻と雫 角伴飛龍 @dragon-et
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