第3話 冒険者 裏(2)
依頼開始から二日目の夜。
依頼を終えたコールは宿の自室で独り思案する。
思考を埋め尽くすのは、冒険者ギルドに道楽で依頼をしたどこぞの貴族令嬢――と思われていた人物。
いつ爆発するかもわからない不発弾のような存在ではあるが、貴族といえども所詮は子ども。自分なら御することができる。
当初、コールはそんなことを考えていた。
だが、今日一日、実際に行動を共にして分かった。
あの少女はただの貴族令嬢などではない。
冒険者の一日体験ということで、コールは少女と合流した後、取り敢えずいつものルーティンを行うことにした。
無論、少女がこの程度で満足するとは思っていない。なんなら初日にブルストがしていたことの焼き増しだろう。
案の定、少女はつまらなさそうにしていた。
だが、コールはそこで違和感を覚えた。
根拠はない。ただ、己の第六感が、何か警鐘を鳴らしていたのだ。
隙を見て、退屈そうにボーっと空を眺めるその瞳を見つめる。
ゾクリ、と。
背筋に走る怖気を感じて、コールは思わず目を逸らした。
コールは新人冒険者ではあるが、死線を潜った数は並みの冒険者を遥かに凌ぐ。
なぜなら、彼は幼少より王国の暗殺組織に所属していた、元暗殺者だからだ。
紆余曲折あり、ブルストとピニーに日向の世界に連れ戻されて、コールも今では堅気の人間ではあるが、それだって今まで培った経験と勘が損なわれるわけではない。
そんな彼が恐怖した。
今まで何不自由なく生きてきたであろう、ただの少女に。
コールは信じられなかった。
厳しい訓練で克服したはずの恐怖という感情が、己にまだ備わっていることに。
そしてなにより、少女から感じた得体の知れない雰囲気を前に、自分が勝てないと無意識に考えてしまったことに。
動揺を無表情の仮面で隠して、コールは素振りを続ける。
もはや少女への侮りはひとかけらもなかった。
ことが起きたのは昼過ぎである。
外壁付近の修練場で装備の点検をしていると、門の守衛から緊急招集を掛けられた。
曰く、外壁付近にまでオーガが迷い込んでいる、と。
追い払う程度なら守衛でもできるだろうが、どうやらオーガは興奮状態なようで、守衛の手には余るらしい。
守衛は対人間と街の治安維持が専門であり、魔物退治は冒険者の領分だ。
いつもなら外壁の詰め所に常駐する冒険者が対応するのだが、タイミング悪く昼飯を買いに行っているらしく、ちょうど近くで装備一式を揃えていたコールに白羽の矢が立ったのだ。
コールはすぐさま装備を整えて門まで駆けた。
思考を埋め尽くすのは様々な想定し得る戦闘プラン。そしてわずかな焦り。
もし万が一オーガに門を突破されれば、無辜の民に被害が出るのは避けられない。それでなくとも、門の付近は往来する馬車や旅人がいるはずだ。すぐさま駆けつけないと手遅れになるだろう。
無表情を取り繕い、常に冷静であれかしと育成された彼は冷酷な印象を他者に与えるが、その実、人一倍正義の心を抱く青年であった。
果たして、そこには傷ついたオーガがいた。
生傷がいたるところに刻まれ、鼻息を荒くしてコールたちを睨んでいる。事前情報の通り、かなりの興奮状態だった。
どこぞの冒険者が取りこぼした個体だろう。血だらけでいつ倒れてもおかしくない有様である。
しかし、いくら手負いとはいえ、本来であれば新人冒険者が敵うような相手ではない。興奮状態であればなおさらだ。
この状態のオーガは、通常より危険度が遥かに跳ね上がる。己の命を厭わずに捨て身で敵を粉砕する死兵となるからだ。ベテランの冒険者がパーティを組んで討伐に挑むことを推奨されるレベルである。
だが、そんなことは関係ないとばかりに、コールは腰のショートソードを抜き取ると、逆手に構えて距離を測る。
そしてオーガの注意が逸れた直後、疾走した。
腰を落として、草原を滑るように進み、オーガに肉薄する。
そして、堅牢な筋肉を纏った首の動脈部分、その筋繊維の隙間を縫って、刃を突き立てた。
グリン、と。刃を捻って頸動脈をぐちゃぐちゃに掻き回すと、オーガは己が死んだことにも気が付かぬまま、草原に斃れ伏した。
小さく息を吐いて安堵する。
緊張していたわけではない。他の人々に被害が出ていなかったことに安堵したのだ。
コールにとってオーガなど雑魚に等しい。それがどんな状態であってもだ。
生まれてからそれだけの修練を積んできたし、強制されてきた。
もはやコールの手に馴染みきった、生物を効率的に殺す動作だった。
ふと我に返って、コールは門の脇に立つ少女を見た。
もしこの少女が貴族の令嬢であればこんなところに連れてくるなんて論外なのだが、コールはもはやその可能性を除外している。この少女なら多少目を離したところで問題ないだろう。そういう確信があった。
少女は外壁に寄りかかって、コールのオーガ討伐を見物していた。
結果論だが、冒険者の一日見学としては最高の見世物だったはずだ。
コールは少女が今更討伐なんかを見て喜ぶなどとは思わないが、何らかの反応を得られると考えていた。
だが、少女の瞳に浮かんでいた色。
それは深い失望だ。
予想外の反応だった。
少女はあからさまに表情に出しているわけではないが、他者の機微に敏いコールには、失望に沈んだ少女の姿がありありと見えた。
オーガの討伐といえばちょっとした武勇伝くらいにはなる代物だ。しかも接敵してから数分も経たず、たったの一太刀で仕留めている。新人どころか熟練の冒険者でも難しいだろう芸当。
少女はそんな光景を目の当たりにして興味すら抱いていない。
それは、異常な反応だった。
コールは守衛に後始末を任せると、少女をひとりにした詫びをして、装備の点検に移る。少女は黙ってそれを眺めていた。
血糊を拭き取りながら考える。
少女の正体はなにか。
貴族ではないことは確定だ。だが、どう見てもただの平民ではない。それも確かだ。
コールは計りかねていた。
チラリ、と。
少女を盗み見る。
目があった。
真っ黒な瞳だ。ガラス玉のように綺麗で、けれどそこにコールは映っていない。
もっと奥底。遠くを見透かすような、そんな不気味な眼差しだ。
コールは咄嗟に目を逸らした。
それを見てか、少女は二ヤリと口角を歪めた。
まるで、悪辣な企みをする魔女のような笑みであった。
その後、思考に没頭したまま鍛錬をしていたら、いつの間にか日が暮れていた。
コールは少女とはいったん分かれて、一人で食事を摂る。
そして約束の時刻になると、少女が泊まる宿へと向かった。
曰く、色々と話を聞かせてほしい、とのことである。
色々と、という含みを持たせた言葉にコールは警戒を滲ませるが、蓋を開けてみれば拍子抜けするような内容であった。
どうやら少女はパーティの恋愛事情に興味があるようで、根掘り葉掘り、それこそ色々と聞かれてしまった。
コールとしてはあまり己の裡を話すことは好かないが、少女の弁舌に乗せられ、ついつい話し込んでしまった。
なにせ色恋の話などしたことがないため、思わず興が乗ってしまったのだ。ブルストは剣バカであるため色恋に興味などないだろうし、プシーはまさに話の中心だ。とうてい話せるはずがない。
初めて他者に語るプシーの魅力を、少女は心底楽しそうに聞いている。
この一場面だけ見るとまるで普通の少女のようであるが、コールはこの少女が得体の知れない存在であると知っている。
これは擬態なのか、果たして少女の一側面なのか。
まるで子供の恋路に口を出すお節介焼きの親戚のようなアドバイスを聞くうちに、夜は更けていった。
コールは思案する。
結局のところ、今日一日を振り返ってみても、少女の正体を特定できるような情報はなかった。
コールを含めて「勇ましき剣」に害意はないようだが、あまりに存在が不気味すぎる。出来れば正体とその目的くらいは知っておきたかった。
思い出すのは少女の瞳。
まっすぐで、けれど心の中を見透かすような知性の光。それでいて狡猾で傲慢なのが透けて見える。
正体を隠して何やら企みごとに暗躍している姿は、まるで魔女を彷彿とさせる――
魔女。
コールにはその存在に覚えがあった。
俗称としてではない、固有名詞的な魔女である。
冒険者ギルドの魔女と言えば、誰もが知っている存在が一人だけいる。
数百年前、このロマネスク王国に冒険者ギルドを創設した、初代ギルド長だ。
彼女のことを伝える文献は少ない。
曰く、魔女は少女の姿をしている。悠久の時を生き、かつては世界を救った勇者を師事していたこともあるという。
今でもなお存命であり、現在は現役を退いて楽隠居同然の身分ではあるが、時たま身分を隠してギルドにやって来ては有望な新人を見出して育てるのが趣味であるとか。
眉唾な噂である。
コールは今まで毛ほども信じていなかったし、彼に限らず、冒険者の大多数がお伽話程度にしか捉えていない。
だが、今となっては話は別だ。
思い出すのは少女の瞳。
そこに宿る光は、まさに魔女と呼んで差し支えない深謀遠慮と魔性のそのものだった。
そして、コールは更なる事実に気が付く。
思えば、ギルドがこの依頼を受理したことも謎であった。本来であれば依頼書に必須の項目が二つも抜け落ちているのだ。いくら何でもそのまま掲示するのはあり得ないだろう。
だが、そこに魔女の圧力が加わっているならば納得できる。積極的に害を為そうとする依頼ではないのは明らかなのだ。ギルド側も、魔女にそれくらいの忖度はするだろう。
事ここに至り、コールは確信する。
あの少女は魔女だ。
そして、確かなことがもうひとつ。
自分はその魔女のお眼鏡に適わなかった。
そこに悔いがあるわけではない。
だが、自分のせいで「勇ましき剣」というパーティ自体が低くみられること。
唯一、その一点だけは悔しかった。
◇
少女に対する第一印象は恐れだった。
深く刻まれた眉間の皺。むっつりとした表情。底冷えするような冷たい視線。
どこをどう見ても好意的でないこの少女が、ピニーは苦手であった。
だが、仕事は仕事である。
そもそも、相手をえり好みできるほど「勇ましき剣」の経済状況は芳しくはない。
相手が貴族令嬢であるという危険要素はあるものの、最終日に至るまで二人から緊急事態であるとの知らせは受けていない。
であれば、少なくとも二人は上手く仕事をこなしたのだろう。
その事実にピニーは少し安堵して、しかしすぐに気を引き締める。
冒険者にとって油断は命取りだ。
気を緩めた瞬間、隙を見つけた死の刃は喉元に喰らいつこうとする。それは人間を相手取るときでも変わらない。
三日目の朝。
そんな決死の覚悟を胸に、ピニーは少女のもとへ向かった。
だが、そこにいた少女の表情を見て、ピニーの覚悟は霧散した。
笑顔であった。
気難しそうな人相は鳴りを潜め、可憐でのどかな笑みである。
初日に対面した少女との違いに困惑するが、ともあれ、害がないのであれば問題はないとすぐに納得する。
そうして、ピニーと少女の冒険者の一日見学は始まった。
と言っても、ピニーも自覚するところではあるが、彼女の一日は模範的な冒険者のそれとは程遠い。
午前中はギルドの修練場で走り込みをして体力作りを行うものの、身体修練はそれくらいなものである。
その日もメニュー自体に変わりはない。
唯一の違いは少女が並走していたことだ。
並走している最中も、少女は終始笑顔であった。
疲れを微塵も感じさせない走りだった。それどころか、親し気にピニーに話しかけてくる始末である。
落ち着いていて、知性を感じる話し方だ。
走りながらだというのに、聞いていて煩わしくないちょうどいい塩梅。初対面だというのに、壁を感じさせない空気感。それでいて、馴れ馴れしすぎない距離感。
話しているうちに、最初に抱いていた苦手意識がみるみるうちに薄れていくのを感じた。
昼食を食べて、ピニーと少女は次の目的地に向かう。
街の南西に位置する孤児院。
お世辞にも治安がいいとは言えないスラムの近くにそれはあった。
真っ先にピニーたちを迎え入れたのはたくさんの子どもたちであった。
彼らはみな一様に笑顔を浮かべてピニーを囲み、そして興味深そうに少女を眺めている。
ピニーは残りの時間を孤児院での無償奉仕に充てるつもりであった。
これこそが、ピニーの一日が普通の冒険者と違う最たる由縁である。
ブルストやコールを始めとする戦闘職と違い、僧侶であるピニーはサポートがメインとなる。
無論、サポートとはいえ最低限の戦闘技能は必須ではあるが、世の中には適材適所というものがある。戦闘は前衛が担い、後衛はその支援に努める。
すなわち、僧侶であるピニーは、戦闘技能を差し置いてでも、回復などのサポート力を磨く必要があった。
そのための無償奉仕である。
神の庇護下にある孤児院で奉仕活動をすることによって、神の奇跡である回復魔法の力を高めているのだ。
もちろん、少女には事前に了承を得ている。
他の二人とは違い、自分の一日はひどくつまらないかもしれないが、それでもいいのか、と。
しかし、それでも少女は快諾してくれた。
ピニーはその懐の広さに、少女の貴族令嬢たる器を見た気がした。
子どもたちの相手を少しすると、早速仕事に取り掛かる。
炊事に洗濯、掃除、やることは山積みだ。
あくせく働いていると、見かねた少女が手伝いを申し出た。
感激したピニーは大喜びすると、早速、少女には子供たちの遊び相手をお願いした。
さすがに貴族のお嬢様に家事を任せるのは気が引けたのだ。
視界の端では、少女が子供たちに質問攻めにされている。
貴族に対する蛮行である。
本来であればすぐにでもしょっ引かれてもおかしくはない光景だが、ピニーは少女がそのようなことをする人ではないと確信していた。
それほどまでに親しみを覚えていたといえる。
そうして、夜になった。
ピニーはせっかくだからと少女を夕餉に誘ったが、予定があると断られてしまった。
この数時間で随分と仲良くなったのか、子供たちも残念がっていたが、こればかりは仕方がない。
ぐずる子供たちを宥めながら、ピニーは神へ祈りを捧げると、食事を済ました。
皆の食事が終わり、食器の片付けも済んだ。いつもならこの後は子どもたちを寝かしつけるのだが、今日ばかりは仕事がある。
ピニーは院長に子供たちの世話を任せて、少女の泊まる宿に向かった。
寂れた宿だった。
話が通っているのか、快く老夫婦に案内され、部屋の前に着く。
ノックをしたが反応がない。
その後も何度か繰り返しても返答がなかったため、ピニーはノブを回してみた。鍵は開いていた。
そっと、部屋の中を覗いてみる。
小さな部屋だった。家具はベッドと机、椅子しかない。しかし、掃除は行き届いているようで、それほど古い感じはしなかった。
そんな部屋の一角を占有する大きなベッドの上に少女はいた。
彼女は眠っていた。
あれほど危険視されていた貴族の令嬢には到底見えない、あどけない寝顔だった。
応答がない時は、慣れない子供の世話が祟って体調を崩したのかとも思ったが、この様子だと大丈夫そうだ。
この一日ですっかり仲良くなった少女の安否を確認して、ピニーは胸を撫でおろす。
ふと、机の方に視線が行った。
そこには、紙の束とペンが粗雑に置かれていた。
興味を惹かれたピニーはそろりそろりと机に向かう。
部屋の主が起きていないにも関わらず、入室をしてしまっていることに、今更ながら罪の意識を感じてしまったのだ。
部屋を物色するのも気が引けたが、それよりも好奇心が勝った。ピニーは一枚の紙を手に取り、そこに書かれていた文章に目を通して......。
◇
ピニーは、今、己が愚かしいことをしているのだという自覚があった。
少女の言葉を遮り、ピニーは機関銃のように質問をぶつける。
本来であれば、この時間は少女がピニーへ冒険者に関することを聞くために設けられた。
そのはずなのに、今ではなぜか立場が逆転していた。
いくら仲が良くなったとはいえ、これはあまりにも無礼だ。
貴族に対する行いとしてあり得ないという話でもあるが、そもそも、依頼を受注した冒険者として私情に走るなど言語道断である。
だが、それでも。
ピニーは己が止められなかった。
知りたい。
この少女のことを、もっと知りたい。
少女の性格、嗜好、生い立ち、趣味、好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きな人。
なんでもいいから知りたかった。
それが、この胸に灯る情動の正体へと繋がると思ったから。
――ピニーが手にした紙には、物語が綴られていた。
最近流行っている小説とやらの真似事だろうか。
そんなことを考えながら読み進めていくうちに、気が付けばピニーは見知らぬ世界に飲み込まれていた。
真似事などという言葉で片づけていいものではなかった。
ピニーが感じたもの。
それは、一種の完成された世界だ。
その世界に根付く人々がいて、彼らはまるで本当に生きているかのように生活をしている。
感情を揺さぶり、愛を叫び、そして悲哀に涙する。
それは、紛れもなく生きた人間の姿だった。
そしてそのどれもが愛に満ちていた。丹精込めて練り上げられ、一人一人に想いが詰まっている。そして物語を読んでいるとき、自分は確かに彼らの一員だと思えた。
物語は読み終わったのに、ただの文字の羅列に過ぎないのに、そのインクの奥で、彼らは今もなお営みを続けているのだと、ピニーは確信できた。
ふと、思った。
こんな素晴らしい世界を創造できるのは、まさしく神しかいない。
すなわち、この少女は神さまなのである。
発想の飛躍であった。
それはピニーも自覚していた。
だが、娯楽に乏しく、これまで孤児院以外の世界をほとんど知らなかったピニーがそう思ってしまうほどの衝撃をもたらしたこともまた事実であった。
ゆえに、ピニーは知りたがった。
この物語世界の創造主たる少女のことを。
だが、少女のことを困らせるのは本意ではない。
少女は安らかな眠りから起きたばかりなのだ。それにお疲れでいらっしゃる。彼女の信奉者として、ここは一歩引くべきであろう。
僧侶としての教義を捨て、一瞬で破戒僧と成り下がったピニーは、寝転んだ愛する神の横に、大きなあくびとともに寄り添う。
すると、にわかに眠気が襲ってきた。
この宿を訪れてから随分と経つ。思えば、いつもであればとっくに寝入っている時間だ。
微睡の中で、ピニーは神に
寝物語を語ってほしい、と。
それは、ピニーの最初で最後の願いだった。
誰のためでもない、ただ自分のためだけの物語が、世界が、愛が欲しかった。
ピニーは生まれてこの方、神に救いを求めたことがなかった。
彼女が僧侶の道を志したのは、なんてことのない理由だ。
ただ、孤児院で育って、そこで神に触れて、院長に勧められて、惰性で未来が決まった。ただそれだけのこと。
神のことは信仰している。
だって正しいことを言っているから。
私に愛をくれるから。
だから彼女は奉仕を選んだ。
たくさんの愛をくれた恩返し。それ以外になかった。
たとえそれが万人に等しく与えられる、自分だけものではないではないとしても。
ふと、ピニーは考えた。
今思えば、孤児院で無償奉仕をする理由は、魔法力を鍛える以外にも、立ちあÞ行為としての側面があったのかもしれない。
神以外に愛されなかった自分の代わりとして、孤児院の子どもたちに、たくさんの愛を与えたかったのだ。
親から捨てられても、何があっても、君たちを愛する者は確かにいるのだと。
そう伝えたかったのではないか。
己の人生は神への奉仕で終わるのだと思っていた。
それに対して疑問を挟む余地はなかったし、当たり前だとも思っていた。
だが、今日。
目の前に、新たな神が現れた。
神に救いを求めたことはなかった。
何故なら、ピニーは救いなんていらないから。
ただ愛が欲しかっただけ。
それだけのために、ピニーは神を信仰していた。
この少女が自分の信奉していた神なのかどうかはわからない。
だが、
かくして、神はピニーの願いを聞き入れた。
欲を掻いたピニーはさらに縋る。後悔が影を差すよりも早く、神はその寛大な心でピニーの欲を受け入れた。
果たして、語られるはピニーが得られなかった愛のカタチ。
ピニーは今か今かと待ち侘びて、少女に熱い視線を送る。
そうして、ゆっくりと物語は紡がれた。
◇
私は、幼い少女だった。
右も左もわからない、そんな幼子。
私は我儘な子供だった。
好き嫌いも多くて、勝手なことばかりをする。
そんな私に、家族はとっても困っていた。
母は厳しく、時に優しく私をしつけた。
けれど、私は全然いうことを聞かなくて、ずっと知らんぷり。
母は困り果てていた。
ある日、私は母と買い物に出かけた。
けれど、いつの間にか母とはぐれていた。
たくさん歩き回る。けれど、全然見つからなかった。
私は、もしかしたら捨てられたのかと思った。
後悔が積み重なっていく。
もっということを聞いておけばよかった。
私は独り、ただ涙を流すことしかできない、哀れな少女。
人混みのなか、私は泣きわめくことしかできなかった。
◇
おしまい、と。
物語の締めを聞いて、ピニーは我に返った。
呆然と辺りを見回す。そこは、古い宿の一室だった。
いつの間にか、宿に戻っていたようだ。
思わず、そう考えた。
否、自分はずっとここにいた。
意識だけが、少女の作り出す世界に引き込まれていたのだ。
思い出すのは母との思い出。
あり得るはずのない、顔すら覚えていない、優しかった母との絆。
優しくて、けれど時に厳しい母の姿。
どれだけ自分が愚かな振る舞いをしても、決して見捨てない無償の愛。
どれだけ離れていても、どれだけ人ごみの中にいようと、最後には見つけ出して、少し叱ると、強く、強く抱きしめてくれる。
母がいなかったピニーにも理解ができた。
それは、ピニーが夢にまで見た、母の愛そのものだったのだ。
胸に広がる温かい気持ち。
穏やかで、けれど同時に荒れ狂う海のような不可解な情動。
この正体が分かった。
愛だ。
自分はこの少女に愛を抱いているのだ。
自覚した途端、ピニーは全身が熱くなる。
頬は朱に染まり、行き場を失ったエネルギーが身体の中で荒れ狂う。
体が無意味に捩れる。鼓動が早まった。心臓が胸を突き破ってしまわないかと心配になって、胸元を手で押さえた。
あふれ出す情動が止まらない。
心の奥底から滾々とパトスが迸る。
ピニーの愛は、もはや臨界点を突破仕掛けていた。
――だが、仮にも目の前のお方は自らが神と崇めるお人。そんな方に自分程度が愛を伝えてよいものか。
ピニーはそう考える。
だが、凄まじいまでの愛は全身を巡り、体を火照らせる。
もはや限界であった。
――否、己には捧げられるものなど他にはない。自分に初めてホンモノの愛を教えてくれたのだから、自分も彼女に愛を返すべきである。きっとそうなのだ。間違いない。むしろ今すぐやらねば不敬だ。今がその時だ。
「――お慕いしておりますわーッ!!」
そしてとうとう我慢できなくなったピニーは、何やら呆けた表情の
まるで、飛び込み台からプールに突入するような、華麗なフォームだった。もちろん、愛を伝えるために邪魔な衣類はすべて脱ぎ捨てた。
しかし、寸でのところで少女は覚醒し、目にも止まらぬ速さで荷物をまとめると、部屋を飛び出した。
修練の成果か、ベッドに叩きつけられたピニーは辛うじて受け身をとると、シーツを身体に纏わせて、急いで少女の後を追った。しかし、宿を飛び出した少女の背中はどんどん遠くなっていく。
ピニーは紺色に染まった街に消える少女に手を伸ばす。
玄関先から見える彼女の背はみるみるうちに小さくなって、やがて消えた。
夜闇に染まった街にピニーの慟哭が響いた。
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