第32話 おとなしく従うのが身のためです
私が立っていたのは島根県のとある無人駅だった。駅員がいないのに特急列車が猛スピードで通過するので、裏では自殺の名所として知られていた。
でもその日、私の目の前で電車を待っていた大友瀧さん――名前は後で知った――は違った。紛れもなく私が殺したのだ。私がこの手で特急の前に突き飛ばした。
彼は粉々に砕け散った。文字通り、粉々だ。一つの肉体が大量の肉片と化した。私が着ていたワンピースにもいくつか飛んできた。だが、そんなものは当時の私にはどうでもよかった。
人を殺してしまった。その事実だけで混乱し、後のことは何も覚えていない。後から聞いたところによると、その場でうずくまって泣いていたらしい。
私は警察に連行された。取調室に延々と留め置かれ、かわるがわる刑事が入ってくる。誰も口を割れないからだ。
「あんたが大友さんを殺害したのは分かっているんだ」
私は何も否定しなかった。でも肯定もしない。赤松は机を思いっきり叩いて威嚇する。
「なぜ何もしゃべらないんだ? 何人の警官があんたのために時間を使っていると思っている?」
そんなもの知ったことではなかった。私は何もしゃべりたくないだけだ。憐れみを含んだ視線を相手に送り、口は決して開かなかった。
取調室は蒸し暑かった。六月の真っただ中、梅雨の最盛期だった。その日は気温が高く、湿度も異常だった。暑いのは赤松の方も同じだっただろう。玉汗が額から吹きこぼれていた。
「なぜ大友さんを殺したのか。それだけでいいんだ。早く吐いた方が身のためだぞ」
なぜ殺した、なぜ殺した、なぜ殺した。呪詛のように同じ質問の繰り返しだ。取調室に閉じこめて疲れさせたらポロッと吐いてくれるだろうという警察の汚い魂胆は見え透いていた。
逆に言えば、私が殺害動機を話さない限り、彼らは調書を完成させられないことを意味している。向こうは「大友さんを突き落とした人物がいると特急の運転手が証言している」という不確実な証拠しか持っていないようだった。
私は疲弊しきっていたが、決意は固かった。
世間話を持ち出してくる刑事もいた。優しく問いかけてくる刑事もいた。それでも何もしゃべらなかった。向こうはプロだ。下手に受け手に回ったらすぐに負けてしまう。口を開かないことだけに集中し続けた。
連日の取り調べを乗り越え、勾留期限がやってきた。私は狭苦しい部屋で耐え抜き、勝利した。動機が警察に見抜かれることはなかった。起訴は証拠不十分で見送られた。
罪の意識ははっきりとあった。時々フラッシュバックに襲われる。トラウマになって残っているのだろう。
決して刑罰が怖かったわけではない。無関係の人を殺したら死刑か無期拘禁刑に処されるのは当然だと思うし、本当はそうあるべきだった。でも――私には絶対に気づかれちゃいけない理由があったのだ。
悶々とした日々が過ぎた。動きがあったのは今から三週間前。日付は八月二〇日だった。
スマホに一件のメールが届いた。
〈どうも初めまして。町谷英世と申します。早速本題に入りましょう。二か月ほど前の、大友瀧さん死亡事件。あれはあなたが起こしたものですね? 殺人動機を見抜かせていただきました。いや、見抜いたというと嘘になりますね。動機としてありえそうなものを思いついたまでです。証明することはできません。ですが、警察の調書に記し、裁判官を納得させるには充分でしょう〉
そのような前置きがあった後、町谷は私の殺害動機をピタリと言い当てて見せた。
私は恐怖した。捕まるのが怖かったわけじゃない。怖かったのは、こちらからは見えないすべてを見通すような目だった。文面は「なぜ私が動機を見抜かれたくないのか」まで言い当てていた。
町谷のメールは私の動機を当てた後、
〈取引については明日連絡します。あなたも今更再逮捕されたくないでしょう。おとなしく従うのが身のためです〉
と締めくくられていた。
翌日、私はやきもきしながら次のメッセージを待った。何かをしようとしては、メールの更新ボタンを押す繰り返しだ。仕事も何も手につかなかった。
「もしかしたら」と思いつつ何百回目かに押した更新ボタンがようやく反応を見せたのは、午後八時ごろだった。慌ててメッセージを開封した。
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