第4話 喫茶店の男

 会議が終わると、私を含めたほぼすべての講師はそそくさと身支度を整えました。そして、まるで独り言のような別れの挨拶を自由気ままに互いに投げかけ合うと、各々の歩調で速やかにスクールを後にしました。


 皆のその後の行き先などこちらは知る由もないわけですが、私はいつものようにこのまま家路を急ぐわけではありませんでした。


 珍しいでしょう、私がすぐに家に帰らないなんて。

 社交を楽しむあなたとは違い、私は一人静かな部屋で過ごす孤独時間を楽しむタイプの人間ですからね。

 でも、そんな私だって、通常運転の殻を破りたくなる時があるんです。


 今日がまさにそんな日でした。

 一年で一番晴れやかな日、いわば心の空気の入れ替え日。


 めったに訪れないこの機会を逃すわけにはいきません。今日の私は目覚めた時から気合いの入れ方が違うのです。それならば、仕事終わりに一人で優雅に昼食でもとってやろうと、実は朝の支度時から心に決めていました。


 帰りに大きなため息を吐かなくて済むくらいの、適度な距離を心掛けて、私は少しだけ車を走らせました。普段あまり足を運ばない土地へ出て、馴染みのない大通りを進みます。

 すると、その道沿いにどこか現代風仏壇を思わせるような、こじんまりとした喫茶店が目に入りました。

 今流行りのスタイルのような古めかしいような、趣味が良いような悪いような、私の目にはそれはどこか遠い国への憧れのかたちに見えました。

 喫茶店の外壁は、ヴィンテージ加工を施した白い木目調のサイディングでした。それはどこか中学校の渡り廊下に敷かれたざら板を思い起こさせましたが、同時に一人でも気楽に立ち寄れそうな親近感をまとわせていました。


 私はまんまと、そんな幻影のような建物に吸い寄せられるようにして、その店の駐車場へと車を滑り込ませました。店の入り口に一番近い場所に車を停め、コートを助手席に置いたまま、足早に建物に向かいました。


 木枠で四つに仕切られた窓ガラスがはめ込まれた重厚な木製の扉を開けました。すると、それを合図に扉の上に吊るされた小さな鐘が「カランコロン」と甲高い音を響かせました。

 同時に、ナッツと焙煎されたコーヒー豆が混ざり合ったような、濃密で香ばしい匂いが、背後の冬の澄んだ空気を弾き飛ばし、私の全身を包み込みました。

 それは確かに良い香りでした。でも、人によってはとことん嫌いになるタイプの香りでもありました。


 店内に足を踏み入れると、まず目に入ったのは、長細いカウンターテーブルでした。恐らくマホガニー製と思われるその重厚なカウンターには、座席間に余裕をもたせた五脚のカウンターチェアが並んでいます。


 カウンターの背後、窓際には、二人掛けと四人掛けのテーブル席が三卓ずつ整然と配置されていました。すべての窓には、濃い茶色のウッドブラインドがかかっており、陽の光を柔らかく遮っています。その真下には造り付けのモケット生地のソファが備えつけられ、テーブルを挟んだ向かい側には自由に動かせる椅子が並べられていました。


 椅子はどれもばらばらで、スチールパイプ製の片持ち式や、Y字形の背もたれのもの、ピンクや黄のカラフルなもの、革張りのものなど、まるで統一感はありません。その雑多さがかえって空間に独特の温かみを与えているようにも感じられました。


 右手奥の突き当たりには、大きなパーテーションで隠すようにしてトイレがあるようでした。私はなぜか、どこかの建物に入ると真っ先に化粧室の位置を確認してしまいます。外出先で用を足すことは滅多にないのに、その癖だけは子供の頃から変わっていません。


 壁には、白い壁をところどころ覗かせながら、オレンジ色の薄いレンガが不規則に貼られていました。天井からは数多くのシンプルなペンダントライトが下がり、床は深い傷が無数についた古びた無垢材。滑りにくくはありますが、つま先を引っかけそうになるほどの傷の深さが印象的でした。


 カウンター内の壁面には、いわゆるおしゃれな喫茶店にありそうなコーヒーカップのディスプレイ棚はなく、代わりに、針だけの巨大な丸い時計がひとつ、ぽつんと掛けられていました。まるで規格外の画用紙に薄墨で手描きしたかのような、文字盤も装飾もない簡素な時計です。


 店全体に意匠は凝らされているものの、それが洗練されたものなのか、それとも田舎くさいだけなのか、デザインに疎い私にはよくわかりませんでした。


 私は、喫茶店で過ごす時はいつも、普段読まないファッション誌をここぞとばかりに読み漁ることにしています。でも、この店には雑誌や新聞などは置いてありませんでした。

 これは手持ち無沙汰になりそうだなと少し不安になっていると、一人の男性店員が声をかけてきました。


 彼は三十代半ばくらいで、埃一つ付いていない濃紺のコーデュロイシャツと黒のデニムパンツを履いていました。腰には黒のエプロン。黒の長髪は整髪剤でしっとりとまとめられ、無造作に一つに束ねられています。

 そして、その顔には何かをごまかすように黒縁眼鏡がかかっていました。

 男性店員は薄い唇をきゅっと引き上げ「お一人ですか」と、にこやかに私に尋ねました。


 その端正な顔立ちと清潔感のある上品でカジュアルな出立ちは、まるでファッション誌の切り抜きのようでした。

 不思議なことに、彼がそこに立っているだけで、あの風変わりな針時計さえも、子どもの工作ではなく価値のあるアート作品のように見えてきたのです。


 単純でしょうか。でも、それほどに彼の存在感は、この店の空気を支配しているように思えました。

 けれど同時に、私はその爽やかな表情と優しい声に、どうしようもない嫌悪感を覚えてしまったのです。

 自分でも理由がわかりませんでした。彼には、人を苛立たせるような要素なんてどこにもなかったのに。むしろ、その辺の店の店員よりよほど丁寧で感じがよかったはずなのに。


「お好きなお席にどうぞおかけください」と、ゆったりとした口調で彼は言いました。

 客は他にもいました。カウンター席に年配の男性が一人、そして奥の四人掛けのテーブル席には身なりの良い四十代半ばくらいの三人組の奥様達が座っていました。

 私は、入り口に一番近い二人掛けのテーブル席のソファに座りました。


 そこへ、水とおしぼりを手にした若い女性店員が、しっかりとした足取りでやってきました。

 おそらく二十代前半でしょうか。端正な顔立ちに華奢な体つきでありながら、嫌味の感じられない、どこか凛とした雰囲気がありました。

 そして、私に向けて話しかける声は柔らかく、それでいてはきはきとした言葉づかいで、彼女の内にある聡明さが自然と伝わってくるようでした。


「ご注文はいかがいたしましょう。また後ほどお声がけしましょうか」

 彼女は腰を軽くかがめながらこちらに笑顔を向けました。


「そうですね。あの、このナッツの香りは何ですか」

 私はずっと気になっていたこの香りについて、パンケーキなどのスイーツを頭に思い浮かべながら尋ねました。


「これはヘーゼルナッツの香りなんですよ。うちはヘーゼルナッツの香りがするコーヒーをお出ししているんです。もちろんフレーバー系以外のコーヒーや紅茶もご用意していますよ」


「じゃあ、そのヘーゼルナッツのコーヒーをいただきます。でも、その前に食事をとりたいんですが、何かありますか」


「失礼しました。お食事ですと、こちらのメニュー表にございますよ」

 彼女は、テーブルの際に立てかけてある赤色のメニュー表を開いて私に手渡しました。


 実際、スタッフの少ない小規模な喫茶店だったため、食事の方はあまり期待はしていませんでした。けれど、サンドイッチやパスタ、ハンバーグと意外にもそのメニュー表の中身は充実していました。

 私は何度も店員を呼ぶのをあまり好まない質なので、そのままふと目にとまった「海賊風ドリア」を注文することにしました。


「それでは、ドリンク付きの海賊風ドリアで、食後にヘーゼルナッツのコーヒーをお持ちいたしますね。ランチタイムは、こちらのミニサラダも追加でお付けできますがいかがいたしましょう」


「じゃあ、このミニサラダもお願いします」


「かしこまりました」


 「海賊風ドリア」とは、いわゆるシーフードドリアのことでした。バターライスの上に、エビとイカとムール貝の入ったホワイトソース。それをたっぷりのチーズで焼いた割とシンプルなドリアでした。

 けれども、それは喫茶店で出るようなものとは到底思えない逸品でした。


 海鮮の風味が強く、ホワイトソースもコクがあり、チーズも具材も惜しげもなく使われていました。あまりの美味しさに、私は夢中で食べ進めました。半分の量を一気に食べ進めると、今度はすべて食べきるのが惜しくなり、サラダと交互にゆっくりと味わうことに。

 こうして懸念していた手持無沙汰も次第に薄れてきたので、今度はあの二人の店員に目を向けてみることにしました。

 私はカウンターの真正面に座っていたため、二人の働く様子をはっきりと見ることができました。


 仕事中ということもあり、二人は業務上のやりとり以外の会話はしていないようでした。

 しかし、その様子から、男性店員がこの店の店主だろうということがうかがえました。料理もコーヒーも、主に男性店員が担当しているようでしたし、その落ち着いた態度からは、この店をしっかりと仕切っている印象を受けました。

 一方で、客に注文を聞きに行ったり、コーヒーを運んだりするのは女性店員の役目でした。ただし、カウンターに座る客の相手(今そこに座っている年配の男性客は、おそらく常連でしょう)は、二人で代わる代わる行っていました。会話の内容までは聞き取れませんでしたが、二人ともとても朗らかで、感じのよい接客をしていたのが印象的でした。


 でも、やはり何か引っかかるものがあります。

 そこで私は男性店員の方を注意深く観察することにしました。魅力的なこの男から受けたあの嫌悪感の正体を突き止めたかったのです。それからの私は、ドリアと男性店員を交互に気にかけながら過ごしていました。


 彼は、物静かに笑みを浮かべながら、聞き役に徹していました。その姿は惚れ惚れするほど男前で、彼自身もそれを十分に自覚しているように見えました。けれどもナルシストというわけではなく、あくまで謙虚に振る舞っているのです。その姿が、むしろ彼の魅力を引き立てていました。

 半ば見惚れるように彼を眺めていた私の視界を、ふと遮るものがありました。女性店員が声をかけてきたのです。


「そろそろ食後のコーヒーをお持ちいたしましょうか」


 その言葉ではっとして、自分がほとんどドリアを食べ終えていたことに気付きました。

「あ、お願いします。とてもおいしかったです」

 私がそう答えると、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべ、「すぐにお持ちします」と言ってカウンターへ戻っていきました。

 彼女はその足で、食器を片付けていた男性店員のもとへと行き、そっと耳打ちします。すると彼は私の方を見て、穏やかに微笑み、軽く会釈をしました。

 ――男前は、どこまでも男前なのだな。

 そう感心していると、再び女性店員がヘーゼルナッツコーヒーを持ってこちらに戻ってきました。


「お待たせいたしました」

 ガラスの小皿に、小さな正方形のチョコレートクッキーが二枚添えられていました。水とおしぼりも新しいものに替えてくれます。


 その時でした。


 カウンターの方から、賑やかな声が上がりました。女性店員の体で視界は遮られていましたが――


「ケラケラケラ」


 聞き覚えのある、癖のある男の笑い声が聞こえてきたのです。

 一瞬で、私の思考は停止しました。体が固まり、あの忘れかけていた嫌悪感が全身に広がっていきます。女性店員が立ち去ると、私はすぐさま笑い声のする方に顔を向けました。

 そこには、さっきまで静かに微笑んでいたあの男性店員が、歯をむき出しにして――

「ケラケラケラ」

 と楽しそうに笑っていたのです。


 その笑い声、その笑い顔。


 その瞬間、嫌悪感の正体だけでなく――彼という人間の正体までも、はっきりと思い出してしまったのです。

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ジロー アン @anna-anne

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