閉め忘れ
男の家に一人の中年男性が入ってきた。
男は独身で、その中年には全く面識がなかった。記憶をたどると、その散らかった頭頂部の白髪にはかすかに見覚えがあった。どうやら隣に住む笑い声が騒々しいやつのようだ。その中年は入ってくるなり一言も男に声をかけず、まるで今起きたかと言わんばかりの気だるさでトイレに入り、洗面所で歯磨きを始めた。
あまりに突然の出来事に男は声を発することができず、ただそれを見ていた。昨晩帰宅した時に鍵を閉めていなかったのだろうか、それだけが悔やまれる。シャコシャコと洗面所から歯ブラシを忙しなく動かす中年は、それを終えると一切をたんとともに吐き散らかし、口を濯いでいる。中年の姿はリビングにいる男からは見えないが、その音を聞くだけで自分の洗面台が汚れているのだろうと察する。
だんだんと怒りが湧いてきた男は、ようやく立ち上がり洗面所へと向かう。中年は歯磨きを終えて今にも出ていきそうなところだった。
「あの、ここでなにしてるんですか」
「何って、トイレと歯磨きだけど」
当然だろ、と言わんばかりにその中年は口を尖らせる。
「……失礼ですが、何か病気でもあるのですか?ここは私の家で、あなたの家ではありません。それに私はあなたを招き入れたつもりもないし、これはれっきとした不法侵入です」
「ひどい言われようだな。おれは鍵が空いていたから、知らせようと思っただけだ」
男は困惑のあまり、返す言葉を見失った。
今喋っていたのが日本語だったのかも怪しむくらい、ちぐはぐな返答に何を言っていいか分からなかった。続く言葉を見失った男は怒りで言葉を発した。
「だから、何勝手に入ってきてるんだって言ってるだろ。それに鍵が空いてないって、一言も俺に言ってないじゃないか」
「おいおい、そう怒るなよ。おれはあんたになにもしていないじゃないか」
「あんた自分の家に知らないジジイが入ってきたらどう思う?穏便に済まそうとしたけど、あんたは根っからの犯罪者みたいだな」
「なんて失礼なやつだ、これだから最近の若者は礼儀をしらん」
失礼なやつ?と男は反芻した。無礼で厚顔無恥なやつが一体何を言っているのか。
あまりに中年に罪の意識がないせいで、まるで本当にこちらが迷惑をかけているようにさえ思える。
だがここは男の家で、中年はやはり鍵が空いていたことを言い訳に上がり込んだ不審者だ。どう考えても非はあちらにある。鍵を閉め忘れたからと言って見知らぬ他人が勝手に人の家に上がり込んでいい道理などない。
「……分かりました。もうそれでいいですから、今後は絶対にウチに入らないでください」
「鍵が空いていてもか?」
「鍵が閉まっているかどうかなんて関係ありません。人の家には許可もなく入ってはいけないんです。本来なら警察沙汰の問題だ」
「じゃあ、鍵が空いていたことをどうやって伝えればいいんだよ」
中年は少し声を荒げて言った。返す言葉で怒号を発しそうになるところを男はこらえた。
「そんなことはあなたに関係ないことでしょう、伝えるも何もそんな必要はありません」
「そうか」
中年はそれだけ言うと、のそのそと家を出ていき、隣の部屋へと戻っていった。
「一体なんだったんだあいつは」
男はバタンと扉を閉め、鍵をかけてドアチェーンをかける。中年が使ったトイレに消臭剤を振り撒き、便座を洗う。それから洗面所に行って、汚れた洗面台を石鹸で洗い、表に出ていた歯ブラシを全て捨てた。
それからしばらくして、その中年が少女監禁強姦の罪で逮捕されたことが報道された。
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かくれた夢にて 暮葉紅葉 @momizi_kagemiya
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