掬えば零れる
一ノ宮ひだ
掬えば零れる
「前へ、前へと進むのが怖いのです」
「それはなぜ?」
好きな人を想う度、もう一人の私が問いかけてくる。
それは心の中にいる、影のような私。
それとも、言葉にならない感情のかたち。
あるいは、恋の終わりを知っている私。
つまるところ、私にしか見ることのできない、これからの運命を知っている自分自身だ。
「もし踏み出した先に何もなかったら――私は、一体どうなるのでしょうか?」
海水を掬えば、指の隙間から零れ落ちるように。
どれだけ手を握りしめても、潮水は私の意思とは関係なく、ゆっくりと静かに、けれど確実で絶え間なく、腕から滴り落ちていく。かつて確かにそこにあったものが、まるで欠け落ちたかのように消えていく。手のひらには、潮の冷たさと匂いだけが取り残され、私はただ、ぎゅっと握りしめながら、見つめることしかできない。
それはおそらく、一度掴んだとしてもすぐに消えていく、私の恋と同じだ。
毎日会えるし、毎日話せるのに、告白には辿り着けない無力感と馬鹿らしさ。生活は同じことの繰り返しと思いきや、必ずどこか違っている。そこで初めて、過ぎ去る波のように、取り戻せないものがあるのだと悟る。
「願いはどれだけ祈っても、叶わない。心もきっと、そんなふうに雨漏りしてしまうのだと思います」
だからいっそのこと、停滞が幸福だと思い込めたら楽なのに。
けれど、立ち止まれば、いつか誰かに追い越される。そうして追い越されて、生まれてくる、とめどない焦燥感と不安。
「それでも、信じ続ければ、何かが変わると思うよ」
「きっと、次は」
「ずっと続けていたら、夢は叶う」
なんて。彼女は結末を知っているのに、いつも楽観的なことばかり言う。
「……そんなのは幻想です。ただの夢物語です」
心を遮って、もうやめてしまいたい。だけど、その危うさを捨ててでも、動けなくても、なぜか進みたくなる。
私を閉じ込めるのは、そんな固くて脆い、鳥籠みたいな私の世界だ。
❀
「ねえ、
「……いいけど。どこで?」
どこでもいいと思った。彼女が隣にいるなら、場所なんてどこでもよかった。
「……海」
「う、み?」
彼女は聞き返すように、その二文字に疑問符を付け足した。
「うん。海」
「いつから?」
「今から」
「えーっと?授業は?」
学校はまだ三限目が終わったばかり。イースター島の文明陥落にまつわる論文の音読を丸一時間しただけの国語の授業。
一言で表すなら、退屈。時間が経つだけで、つまらなかった記憶がさらに薄れていく。私も同じような結末になるのでは、なんて、思ってしまう。
「別に、優等生だからばれないでしょ、私たち」
それなりの成績、それなりの知識。それなりに楽しい、それなりの日常。だけどたまに、ほんの少し羽目を外したい、なんて思ってもいい、はず。
「それ、ダメじゃない?」
「あなたは真面目すぎるの」
「うーん。まあ、しょうがないか。……たまには不真面目になろっか、二人で」
❀
頬を撫でるのは、乾いた潮風。清涼で、優しい刺激。その風の反動で、泡沫とともに波が砕ける。弾けた一雫の潮水が、乾いたアスファルトの上にぴちょん、と落ちると、黒く滲んだ点が浮き上がり、やがては消える。普段よく見ることはないからこそ、いざ見てしまうと、言いようもなく儚いものだ。
「二人でお出かけなんて、久しぶりだね」
ブレザーの胸元あたりまで伸ばされてある艶のある黒髪と、白い肌。莉羅は、学年一ではなく、北海道の北西部に位置するこの街で、一番と言っていい美貌を持った少しだけ背の高い同級生だ。
「……えーっと、何で海なの?」
「何だろ?……時々さ、海、見たくなることってあるでしょ?」
「そんなことある?」
「あるでしょ。気持ちいいじゃん。綺麗な海って」
「……いや。ないない」
そう言って、彼女は真上にそびえる青空を見上げた。
初夏の午後に広がっているのは、ふたつの青。空の水色と、透いた海の紺青。水平線の彼方に映る白を境に、半分に分かれている。上空で、凛とした鳴き声を上げている鷲以外、ここには何もない。綺麗すぎるくらい誰も、何も存在しないので、見てると不安になる。
そんな不安を払拭するかのように、莉羅は無邪気に防波堤の上を歩く。
ネイビーのサブバックが彼女の歩調に合わせて揺れている。シルバーの留め具に付けられているのは、白い貝殻の中に、海を模した青のレジンと砕いたシーグラスを閉じ込めたキーホルダー。彼女の誕生日に、私が渡したプレゼント。
ああ。懐かしい。いざあげるとなったときは緊張したなあ。
なぜ緊張したのか。それは彼女のことが好きだから。好きな理由は沢山ある。勉強もスポーツも秀でているところとか、容姿が完璧なところとか。ただ、長年二人でいると、細かいところにも愛着が湧いてしまう。いつも歩幅を合わせてくれて、遅れた時には小走りで追いつこうとするところとか、瞳の傍まで近づいて、ようやくわかる睫毛の長さとか。
彼女は几帳面で真面目。ほとんどのことをそつなくこなす完璧な性格だけど、一つだけ欠点がある。それは手先が不器用なことだ。自販機で購入したサイダーの缶を開けるのに苦労しているくらい。
だけど、私はそれもギャップ萌えみたいで好きだ。
「かして。開けてあげるから」
「わー、ありがと」
「……これくらいは開けられるようになりなさい」
「……えへへ」
「……もう」
缶を手渡すついでに、彼女の手背を優しく撫でる。ぴったりとくっつくことのない、たまに手の甲が触れ合うようなその距離感がもどかしくて、心地いい。
「でもさ、できないものはできないし、なれない者には、どれくらい望んでもなれやしないんだよ」
「……その台詞、大人っぽい。
「でもあなた、サイダーも好きでしょ」
「……好きだけど、どういうこと?」
「つまり、そういうことだよ」
「白菊と炭酸飲料を同じ天秤にかけるつもりはないけど……」
「……あー、もう。忘れていいわ」
こういうとき、「好意」と「恋愛」を結びつけるのは、良くない。自分でも分かっている。
だけど、彼女のこういった女たらしな言動もどうかと考えてしまう。
「白菊ってさ、いい友だちだよね」
「どこが?」
「そうね、友だちね」
「友だちだからこんなに付き合ってくれるんでしょ?」
友だち。一番の褒め言葉で、最も分かりやすい白旗宣言。
「まあね。莉羅を見てるのは、こっちも見ていて飽きないから」
「……白菊は、この空、好き?」
「いや、何、いきなり?」
「いや、空、綺麗だから。あなたが私を見るようにさ。ずっと空を見てるとね、私は心が落ち着くの」
「……うん、好きだよ」
その空を見上げると、心がぎゅっと、鼓動の高鳴りで締めつけられる。
彼女の傍にいることが幸せ。その幸せの先にあるもの――いつしかそれは、「好き」という気持ちになっていた。
でも、彼女の「好き」と私の「好き」は違う。
きっと、それは交わることのない感情。
煌めく波が押し寄せ、引いていくように。
私たちの感情は、すれ違うこともないほど、遠く離れている。
「これ、飲む?」と言いながら、彼女は水滴を纏った、水色のサイダー缶を差し出す。
「そういうのに抵抗とかないの?」
「白菊なら、大丈夫」
「ふーん」
これは彼女の本心だろう。友人として信頼されていること。それを素直に嬉しさとして受け取れたらいいのだけど。
なんだか納得いかない。
「白菊こそ、大丈夫なの?」
「意識するわけないよ」
「そっか」
防波堤の先に広がる海に向かって、莉羅は手を伸ばす。私は何を伝えればいいのか分からない。だから口元を隠すように、何も話さなくていいように、彼女が飲みさしにしたサイダーを飲む。ただ甘いだけなのに。温くて、炭酸も抜けかけているのに。
そのサイダーの甘さが、喉に染み渡っていく。
「白菊、どうしたの?」
「……どうって?」
私は缶に唇をつけただけなのに、どうして余計なことばかり考えているんだ。
もう。彼女は無責任すぎて、あまりにも卑怯だ。
「……なんかね、ぼーっとしてるよ」
「……なんだろうね。何かに、閉じ込められてる気がして」
「……悩みが多い子だなぁ、白菊は」
何秒かの沈黙が続いた後に、風が吹いた。私たちの言葉を空に溶かしてくれるような、そんな涼しげな風。
その風の反動で、スカートが揺れる。
彼女の白いブラウスからは、白い肌と黒い肌着が僅かに見えた。
「中、見えてない?」と後ろを向いて尋ねてくる。
「見えてるよ」と一言。
「えっ、本当?」
冗談だということを知らずに、リラは顔を赤くしてスカートを押さえ始めた。いつもはこんな表情なんて見せないのに。
「うん、嘘」
そんな彼女を見て、素直に可愛いと感じてしまう。一度そう感じてしまったら、感情の伝染は止まらない。身体の全ての細胞が、もっと彼女について知りたいと語りかけている。
「……あなたが嘘つきになるの、初めてじゃない?」
「まあね。私の花言葉は、『誠実な心』だから」
「……それはまあ、偽りの心をお持ちで」
「……いいわ。嘘はつかない。これ以上は」
好きになって初めて、嘘をついた。
その嘘は、「好き」を真実だと心に言い聞かせるのに、必要なものだった。
「……綺麗だね」
「何が?」
「……辺り一面が青色だから、すごく綺麗」
「……そう」
「……何か、期待してたよねぇ?」
「……別に」
「あー、すねた」
「……いじわる」
「……嘘、冗談。綺麗だよ。白菊も」
「冗談で綺麗って言わないで」
「……綺麗、可愛い……ほんとにほんとだよ」
「……もっと言って」
「言ってほしいのか言わないでほしいのか、どっちなの?」
「ほんとのことを、もっと言ってほしいだけ」
ただ鈍い甘さの刺激で喉を潤しても、すぐに乾きをみる。
心だって一緒だ。ただ満足感で心が一杯になっても、またすぐに別の欲望が生まれて、心はまた私にそれを求めようとする。
「あなたのこと、もっと知りたいの。だから、色んなこと、私に聞いてほしい」
「……じゃーねぇー」
そしてまた暫くの静寂。鈍い波音が鼓膜を通り抜ける。
「……私は、何色?」
「あなたを色で例えると、ってこと?」
「そう」
リラの花言葉。白色は青春で、紫色は恋。
だけどそんなのは名前も顔も知らない誰かがでっち上げた都市伝説みたいなもので、私にとっては彼女の色は、青。
「青色、かな」
「どうして?」
「海の青色は、掬えば零れるから」
透き通る青。美しい青。
止まらずに、ただ駆け出していく青。
でも、冷たくて悲哀の混じった青。
その青によって、私の心の奥底にある何かは膨らんで、弾けて、消えて、なんだか夢幻泡影に近い感情を生む。
私はずっと彼女を見ていたいけれど、きっと見ているだけでは、永遠に触れられない。流れる波の小音と煌めく水面の光を言い訳にして、私は瞳と鼓膜を塞ぐ。
ゆっくりと開けた瞳に映る彼女は、もう防波堤から離れていた。
「そろそろ、夏がやってくるね」
「そうだね」
彼女は腰を低くして、海開き前の冷たい海水を掬っている。そして案の定、それは零れていく。
「不思議なことだけど、夏の記憶ってさ、一生消えないんだよ」
そう言って彼女はにんまりと笑う。
「……ほら、えいっ!何ぼーっとしてるの!」
莉羅の細い指先から、冷たい水が跳ね上がる。
太陽に透かされたその雫は、一瞬だけ空に溶けて、今、この瞬間、空に放たれる放物線を描いて私の頬を打つ。
「やったな」
私も負けじと波をすくい、彼女の肩へと放る。
煌めく水滴が彼女の肌を滑り、一雫、鎖骨のくぼみに落ちた。
「もう、負けないんだから」
きゃあ、と弾ける声。
跳ねる水音は、私たち二人の無邪気さを抱きしめる。
寄せては返す、夏の記憶のように。私の鼓動は波の端をなぞる速さで進む。
そう。穏やかに凪ぎながら、それでいてほんのわずかに胸が高鳴る、あの感覚。
私は歩幅を揃えながら、静かにあの子の方へと近づいていく。その足音は、前へ前へと乗り出しつつ、砂に混じって消えていく、波のリズムに似ている。
❀
あの日から二年もの月日が経っていた。二年というのは案外長く、中学生だった私は、高校で後輩ができる学年にもなった。月日の経過に比例して、制服も、校舎も、その中で出会う人も変わっていた。
だけど、変わらないものもある。夏が近いというのに少し肌寒い気温も、食べ物のおいしさも私の不甲斐なさも。そして何より、街を覆っている霧のような空気も。北海道では、梅雨という季節は存在しない代わりに、夏の前、このような冷たい空気が発生するのだ。ご当地限定で、道民はこの現象を「リラ冷え」と呼んでいる。
水で薄めた灰色が広がった、家の前の街道では、リラの花が霜をつけながらしっとりと咲いている。
青みを帯びた、藤紫色の花弁。
リラの美しさは、気温によって変わっていく。空気が冷たい程、花の美しさは増していき、暖かくなる程、青々とした葉が茂る凛々しい姿になる。それが廃れたこの街の、薄っぺらい謳い文句だ。
つまるところ、リラの美しさは、その変化によって生まれている。私のように変わることができない人間には、その花木の変わりゆく姿がただただ眩しく、そして憧れに似た気持ちを抱かせる。
左手を添え、一輪の小さな花に触れる。
その反動で、花弁が揺れて、掠れた甘い匂いがふわっと香る。それは自然の、嫌味のない素直な甘さ。例えると、あの子の髪の匂いのような。
会いたい。
話していたい。
傍にいたい。
手に触れていたい。
触れたことのない肌を触りたい。
もっと、ずっと――
すぐさま我に返る。
思ってはいけないことを思ってしまった。
「――悲しいのです」
私はただ、繰り返す。
「ただ、悲しいのです」
「どうして悲しいの?」
心の中の私が尋ねてくる。
妄想に過ぎないから、私は心の中だけで、本音を言うだけ。
「――ここままだと。駆け出すことのない限り、私は、彼女の心に触れられることすらできないのです」
早く、大人にならないと。
じれったい感情を整理するように、ため息に似た深呼吸をひとつ。その息は、空気の冷たさに混じっていく。
緊張と、迷いと、微かな希望。
「ああ。どうして、『好き』の正体は、いつも私に意地悪ばかりするのでしょうか?」
何も変わらなくていい。
彼女が本性を隠さないように、私も私のままでいい。急いで走る必要もないし、かと言って何かを警戒するように止まる理由もない。ゆっくり歩いていくように、隣合わせでいられる日々を、続けていければいい。
――そんなの全部、嘘だ。
「掬えば零れる」
好きと分かっていても、自我を抑えきれず、その思いを外に出したくなるときがある。もっと、彼女みたいに、その先へ――届かなくても、手を伸ばしてみたい。
「おはよう、莉羅」
自分を偽る嘘の中に、人匙の本音が芽生えてしまったら――ワンピース外れたホワイトパズルみたいに、意地悪な心の愛おしさが、私の胸を締めつける。
「おはよう、白菊」
だから私は、想う。
――私は、垂れ落ちると沈む海水の一雫でも、来る度に壊れるさざ波でもない。
だからもう、くじけるな。
何をどう拒んでも、何をどう無くしても、私は私だ。風に揺れる彼女の髪を押さえながら、私は告げる。
「どうしたの?」
「……ねえ」
「ん?」
「もし、私が……」
声が震えた。でも、もう迷わない。近くにあって、でもずっと遠くにあった心の本音を、今日は吐き出してしまおう。見透かされないようにしていた心を、奥底から探り出してしまおう。ずっと言い淀んでいた答えを、明かしてしまおう。
もう、後悔なんてしないように。
深呼吸をひとつ。
強く、遠く、長く。
自分で自分を振り解くように、私は今日、籠の中から抜け出す。
霜を飛ばすような、冷たく強い風が吹いた。
❀
莉羅が私の頬に触れていた。
指先の冷たさは、まるで熱を帯びた心臓と拮抗するように、じんわりと染み込んでいく。触れられた場所から、見えない何かが、触感を通ってゆっくりと広がっていくように。
私は息を呑む。声を出したいのに、喉が動かない。
こんなに近くにいるのに、彼女は遠い。
白の長髪で目を伏せて、視線を下に落とす。なぜだろう。私はどうも、彼女と視線が交わるのが怖い。
「もし、私が、今日、暇って言ったら?」
ああ。
彼女は青すぎて。その青が綺麗すぎて。
触れたら壊れそうで。
「好き」なんて言葉は、私には重すぎて。軽い気持ちでは言えない。言いたくない。
「――別に、いいけど。付き合うよ」
まだ、籠の中にいる。
分かっているのに誤魔化してしまう。見せたいのに隠してしまう。心はその矛盾をただ繰り返すばかり。
こんなにも近くにいるのに。
私は、あなたへの想いを隠すことも、その想いを届けることもできない。
「――白菊って、不思議な子。まるで何かに、囚われているみたい」
囚われている、か。よく分かってる。私のこと、何も知らないのに。
「何度でも、同じこと、だよね」
掬えば零れる。
自分が変われない代わりに、彼女を愛してしまう。そんな心の我儘をせき止めても、必ずどこかで満溢する。青く滲んだ水性の日々が、過去の乾いた思い出に貼り付くと、潤みを帯びたそれは欲望だけが透けた願いとなって、再び私の前に現れてしまう。
何日も、何通りでも、何遍でも。
「また、失敗しちゃったね」と、心の中の私は語りかける。彼女はもう答えを知っているから慰めの笑みを浮かべている。
「でも、しょうがないのです。それが私だから」
それに釣られて、私も笑う。
「だけど、あなたにしか伝えられない愛のかたちも、きっとあるはずよ。だって――」
私はふと、前を見た。心の中のメッセージは、莉羅よって遮られる。
「ねえ、七月になったら、陽の光ってもっと濃くなると思わない?」
「濃く?」
「例えば……そう!檸檬を搾った紅茶みたいな色になる感じ!」
莉羅の言葉に、私は想像する。朝陽がじわじわと地面に染み込んでいくような感覚。今はまだ柔らかいその光も、夏になればきっと、鋭い熱を帯びていく。
それと同じように、彼女も変わっていく。
透ける肌、結いた黒髪、解けかけた靴紐。
知らない彼女に出逢うたび、私はまた惹かれてしまうのだろう。
だけど、日々は止まることなく流れていく。
「もう少しで夏休みだね」
「まだまだじゃない?」
「あと一ヶ月半くらい?」
「ながっ」
「そう思っててもさ、急にやってくるものよ。待ち望んでる瞬間は」
彼女が呟く。
「まあ、それはそう」
「夏休み、どこか出かける?」
「わからない。まだ何も決めてないけど、どこか出かけたいね」
言葉を濁しながら、私は心の中で呟く。
――どれだけ手を伸ばしても、いつまでも彼女には届かない。
運命は昨日と今日を繰り返す中で、私の心は常に「明日」を求めている。そんな随分と自分勝手な二者に挟まれて、私は迷子になっている。
「ねえ」
「なに?」
「もし、今すぐ夏が始まったらどうする?」
私は変われない。
私は怖くて逃げてしまう、臆病者。
だからいつもの生活を、いつも通り送っていくだけで精一杯だ。
だけど彼女が、明日の照らす方向へ、私を誘ってくれるとしたら。
「……夏が始まったら、また海に行こう。ベンチにでも座って、またくだらないことを話そう。また、泡の弾けるサイダーでも飲みながら」
「……いいねえ」
「……あと一つだけ、やってみたいことがある。だからちょっとだけ、いい?」
そう言った瞬間、私は莉羅を抱きしめた。
「フフッ、白菊ってば」
彼女がここにいることを確かめるように、そっと腕に力を込める。両手で優しく触れたブラウスの生地は、少し冷たい。
「……こういうこと、しないと思ってたでしょ?」
意味のない涙になりそうな、言葉にならない感情が、心の奥底から押し寄せてくる。何一つうまく言えない、だけど今この瞬間だけは、ここで止まってほしい。
ただ、傍にいたいから。
それだけが、その感情だけが、今の私の全てだった。
「まあねぇ」
彼女の表情は夏の日照りのように、一段と眩しくなっていく。
それでも変わらない、彼女の色は青。
ただ実直で、純粋な青。
「私は二人で、あなたと一緒にいたいの。例えばこの真っ白なブラウスが、淡い橙色に染まるまで」
「……今すぐにでもできそう」
また、一日が始まっていく。意味の無いことに意味がある、そんな一日が。
何が起こるだろう。何を見るだろう。何を知るだろう。
――そして何を、想うだろう。
彼女がいるなら。彼女がいるから。
私はそこにいたい。それに理由はない。
私は恋を知る。
私は恋をする。
そうやって生きていく。
この想いも、いつか忘れてしまうのだろうか。この景色も、見えなくなってしまうのだろうか。
「じゃあ、行こう」
明日のことなんてわからない。
わからないなりに、前に進むしかない。
――私にできることは、それしかない。それしかないけど、いつかそれ以上を求めてしまう。だからまだ、あなたの傍に居させてほしい。
「えっ、本気?」
「当たり前でしょ」
「……まあ、いいか。二人でいると、楽しいしね」
「絶対に、あの場所がいいの。あなたと一緒にいるときは」
どこでもよく、なんかない。
他愛のないことをしながら、彼女と一緒に、私の恋に似た波のゆくさきを、ただじっくりと、見つめていたい。
「今すぐ。見に行こう。海に浮かぶ、冷たい青色を」
私はもう一度、彼女の手を握って駆け出す。
時間がない。そんなことはないけど、いつ終わりが来るかわからない。だから急がなくちゃ。春が夏空へと翔けるような、足早なリズムを重ねて、廊下で二人笑い合う。
彼女の手は、夏のはじまりみたいに汗ばんでいて、でもどこかひんやりとしている。
その感触を、私は何度でも思い出すのだろう。
たとえ、この瞬間がいつか、終わってしまっても。
何度でも、何度でも。
❀
今日の放課後、私たちは海を見た。二年前と何も変わらない海岸線は、いつもの潮風の匂いがした。
彼女は言う。眩しさをのせた明るげな笑顔で。
「やっぱり何も変わらないね。すごく綺麗」
二年前、この場所で。彼女は私の瞳をじっと見て、こう言った。
「綺麗だね」
夏の記憶は、一生消えることなく残り続ける。私は、今になってそのことを思い出す。
あの日のサイダーの記憶。あの日の鈍い、微炭酸の甘さ。
上唇を舐める。もうその甘さはない。舌の先端を刺激するのは、潮のしょっぱくて、どこか懐かしい味。
「唇、しょっぱい」
「白菊って、案外エロいこと言うのね」
「ねえ、今の馬鹿にしてるでしょ?」
「うん。もちろん」
ああ。こういうところも好きなんだよ。どうしようもなく。イタズラっぽく笑う、その仕草も。
彼女の唇もきっと――
邪念を取っ払うために目を瞑って、そして開く。視界に入るのは輪郭がぼやけた遠くの島々と、凪いだ海の水面。
やっぱり、綺麗だ。その美しさに、胸が苦しくなるほど。
変わるわけがない。
美しさも、脆さも、弱さも、優しさも。
実らない愛に気づいて、傷ついてしまう心の仕方なさも。
何もないような退屈な明日を待ち続けるだけの、変わらない日々も。
「掬えば零れる」
悲しいかな。ずっと、永遠に、報われることなんてないだろう。
悲しいけど、それが幸せだ。
幸せだから想いが溢れる。溢れた想いは、失うだけで、決して手には残らないけれど。
これが、「愛する」ことのできない私の、彼女への愛し方。
「……まだそばにいたい。まだ追いかけていたい、あなたのこと。冗談じゃなくて、ほんとのこと」
両手で海水を汲み取り、そっと陸へと引き寄せる。すると、掬った青が静かに零れ落ちた。
「――す、き」
「……白菊、今、何か言った?」
「……えっ、いや」
貝殻のキーホルダーが風で揺れた。それはまるで、誰も知らない私だけの秘密をそっと告げているようだった。
「一瞬だけ風が吹いて、よく聞こえなかったの」
「……そう」
「……もう一回言ってみて」
私と彼女の心のように押し寄せ、引いていく波の青と白。大きさも、色も、凹凸の歪み方も違うまま、重なり合い、いつしかすれ違っていく。
あまりに美しすぎて、私は踏み込めない。波を壊れるのを恐れて、それが消えるのを見届けるだけ。
弱虫すぎる私の後ろには、いつも波跡が残る。消えても残るその痕は、どこか後悔と似ている。
「……いえ、なんでもないわ。ただね、あなたといるのが、私はどうしようもなく好きな人間なんだなって、気づいてしまったから」
「……寂しがりやだなぁ。白菊は、いつも変わらない。私はそういうところが――」
「好き」なんて、あなたに言わせない。
だってそれは、私だけがあなたへ伝えられる、最初で最後の誠実な心だから。
「……ふふっ。そうねぇ。私、変われないのよ、ずっと」
掬って零れる。その色は。
捨てるつもりなどないのに、ただ、失われていく私の恋の色。
――綺麗だけど、どこか冷たくて、今にも泣き出してしまいそうな青色だった。
掬えば零れる 一ノ宮ひだ @wjpmwpdj
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