第十一章 大嵐

十一之一 兆し

「宮古は遠いのう、相も変わらず」


 星辰櫓せいしんろで真っ青の大海原を睨みつけて、源内が呟いた。存分の備えをしてから那覇を後にし、今は宮古へと向かっている。宮古まで六十里余り。五日は掛かる沖乗りだ。


「まあそう言うな。いつものことだ」


 源内の肩を叩いてやる。


 木花は、船磁石と陽の動きを睨みながら、ただひたすら南西・未申ひつじさるの方位に進んで行った。夜も進みを止めることはできない。その間に潮に流され、方角の見込みを失ってしまうからだ。夜は船磁石と星見で未申に進む。


 琉球であれば、低い空に北の明神がまだかろうじて見えている。それでも夜は進みがずれてしまうので、昼は陽の動きと潮を見て夜に狂った分を取り戻す。


 おかを見て船の進みを直すこともできず、恐れが常に心を揺らす。場所の見込みを外しているのではという声が常に頭の中を駆け巡り、心を揺らす。これぞ沖乗りだ。


 さらにそれが沖渡りともなると、陸なき大海原が何十日と続く。剛の船乗りでも、その間にきもを病み、狂う者すら出る。五日の沖乗りは、沖渡りのいい試しとなる――。俺はそう考えていた。


 朝早く那覇を出て、すでに丸一日過ぎた。この時節に望みもしていなかった追い風を一の帆に受け、木花は波を蹴立てて進んでいる。


「この進みなら、四日で着くやもしれん」

「そうだの。夜でなければいいが……」


 両眼鏡を外すと、源内は玻璃はりぬぐった。細かな波しぶきが着き、乾いて塩となるから、度々拭わないとならない。


「なに、宮古はそこそこ大きい。雲を見ていれば、夜でも見逃しはせんだろう」

「それはそうだが、見逃すと痛い。昼が助かる」

「そうよの」


 一の帆には夜儀が付いていた。かじは上げ、畳んである。この風なら舵に人はいらない。どうしても困ったら、俺が取りつけばいいだけの話だ。残りの船人ふなびとは、皆眠らせている。夜は厚めに人を配さねばならない。宮古までは夜伽を解いて、アサルも手伝いに当たらせている。


「おっ」


 天象てんしょうを読んでいた源内が叫んだ。


「なんだ」

「あれじゃ」


 指差す空を見上げた。眩しくて何も見えない。


「それ、そこ。丸い雲の……」


 目を細めると、丸い雲の脇をおひょうが二十余り、白い腹と茶色い背を見せ合いながらひらひら流されている。


「多い。まるで渡り鳥のようじゃ」


 ただひとつか、せいぜい幾つかが一緒に渡るのが、空飛ぶ魚、おひょうの常。これ程多い試しは滅多にない。空になにか危うさがあるという知らせだ。


「これは……嵐が来るぞ」


 潮風でかさかさに乾いた唇を舐めながら、源内が告げた。


「……そうか、それでこの時外れの追い風か」


 頷いている。


「どうする」

「天津殿、しばらく様子を見るしかあるまい。嵐になるかはまだわからんし、どれほどの雨風かも見通せん」

「そうだな」

「それに、那覇を出てもう一日。逃げて隠れる港や島陰はない。――なに、ぱらついて少し揺れる程だろう。寝ておる連中が驚いて叩き起こされはするだろうが」


 ふたりで笑い合った。しかしその実、笑っていられたのはここまでだった。


 おひょうを見てから半刻もしないうちに、空の一点に薄く雲の筋が立った。それを取り囲むように黒々とした雲が、墨を流したような速さで空に広がってゆく。それはあっという間に陽を隠し、ぱらぱらと雨を降らせ始めた。遠くで雷の音がしている。


「早い……」


 源内が呟いた。


日向ひゅうが油津あぶらつで聞いたはこれか」

「すぐに天色てんしょくが変わるという嵐だな」

「……天津殿、この匂いはまずい」


 眼鏡をずらすと鼻を高く上げ、風の匂いを測っている。


「この風は、強い嵐のものだ。念のため、船人を起こしたほうが良いやもしれん」

「そうだな」


 さっそく潮見の間を後にする。


「あっ、ついでに河豚の水樽の蓋を頼む」


 源内の叫びが追い掛けてきた。



■注

玻璃はり ガラス。この場合は眼鏡のレンズ

天象てんしょう 天気

おひょう この世界に何種かいる、空飛ぶ魚の一種。見た目は巨大なヒラメかカレイ

天色てんしょく 天気変動の具合

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