十一之二 嵐の極み
「これでないといかん」
一の帆の
「これでこそ
大粒の雨が、痛いほどの勢いで顔に当たってくる。
「ちょうど風呂に入りたかった。体が清められ、清々しいわ」
やがて船は大きく揺れ出した。船の先にある
「雨より風、風より波だぞ、
潮見の間から顔を出し、源内が前後ろに叫ぶ。
「おうよっ」
「大店の蔵に盗みに入ったときより高鳴るぞっ」
数え十頃の夜儀……鼠小僧次郎吉はやはり、命と気持ちの高まりを求めて盗みを繰り返していたのだろう。江戸で。
ここまでは一の帆だけで進み来たが、これくらい荒れていると船の全てを使い風と波に向かわせなければ、危うい。もっと荒れれば逆に帆を畳まなくてはならないが……。
いずれにしろ、今は先帆に写楽を置いている。一の帆には、存分に寝て気合いが入る大綿。一の帆の操りで疲れている夜儀には悪いが、舵棒を持たせた。舵の操りでは、船人で最も信頼が置けるからだ。
源内は潮見の間で万端、考えさせる。俺は潮見の間と星辰櫓を行ったり来たり。津見彦は大綿の助けとして一の帆に置き、共に筈緒を持たせた。大綿がなにか細かに伝えたい事など出れば、津見彦を潮見の間に走らせるはずだ。
アサルは潮見の間に控えとして置いてある。使いをさせるし、異国の知恵で源内と嵐を談じさせるためだ。
雨風、そして波はどんどん激しくなった。すでに波は、
先帆を見ると、たったひとりで難しい帆の操りに暮れる写楽が、歯を食いしばっていた。
夜儀は舵棒を強く握り締め、渾身の力で押している。めくれ上がった船着から覗く野太い腕は、ぎりぎりと強く膨らんでいた。神に護られた木花の舵は本来軽い。あれだけの力が入り用ということは、船底の下の流れがどれほど激しいかを物語っている。それはもはや海ではない。天から降り注ぐ大滝のような有様だろう。
いくらなんでも、これは激し過ぎる。このような嵐は、俺の四十年以上の見聞きでも、聞いた試しがない。波で船が
気の迷いを、帆や舵に取り付く
たまらず潮見の間に飛び降りた。
「もう嵐の真ん中かっ」
轟々と雄叫びを上げる風に負けぬよう怒鳴ると、源内が叫び返す。
「おそらくそうだ。神に加護された
源内が指差す。風を満帆に受け、一の帆は苦しそうに膨らんでいた。はためくことすらできずに。神の
「あそこまで暴れるは
「風に煽られ、船を傾けさせるばかりだ。畳ませる」
稲光が始終光る中、大声と身振りで命じ、大綿に帆を畳ませた。そのまま
嵐に帆を張り舵を操るのは、進むためではない。船を落ち着かせ、波に耐えるためだ。これだけ大きな波を横から食らってしまっては、さしもの
一の帆が畳まれると、残る先帆と舵で操るしかなくなった。幸い風が強いので、先帆に受ける力だけでも、それなりには操れる。
「アサル、お前はどう読む」
「わからんっ」
揺れる潮見の間で窓枠にしがみついたまま、アサルが大声で答えた。
「
「嵐の盛りと思うか」
「それは読めんが、源内が言うたように、今が一番厳しい折だろう。空を見よ。雲の流れが鉄砲水のようだ。これほどの風が長く続くはずはない」
たしかに、墨が流れるような速さで雲が飛んでいる。瀬戸内船人の言い伝えにも、ここまでの嵐はない。
星辰櫓に戻ると、大声で前と後ろに叫んだ。
「今が極みぞっ。これを抜ければ楽になる。揺れるが踏ん張れ。あな気を抜くなっ。海に転がり落ちるからなっ」
船人達が鬼の形相で頷く。皆、力を込めた腕と肩が張り、雨が降り掛かって肌がぬめるように輝いていた。
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