十一之二 嵐の極み

 船人ふなびとを起こすと、それぞれ持ち場に就かせた。アサルと津見彦に命じ、乾物や握り飯、水瓢箪みずびょうたんなどを船人に配らせる。やがて雨風が強まり、波も次第に荒れ始めた。


「これでないといかん」


 一の帆の筈緒はずおを力強く操る大綿が、呵々と笑う。


「これでこそ神木船かみきぶね辺境船征へんきょうふなゆきよ」


 大粒の雨が、痛いほどの勢いで顔に当たってくる。


「ちょうど風呂に入りたかった。体が清められ、清々しいわ」


 やがて船は大きく揺れ出した。船の先にある忍野神社おしのじんじゃの鳥居が、男三人分程も上から下へと叩き付けられている。重苦しい鉛色の空と海に、紅緋べにひの鮮やかな鳥居が舞っている。つややかな神輿みこしが、熱い男達にかつがれているかのようだ。


「雨より風、風より波だぞ、此度こたびはっ」


 潮見の間から顔を出し、源内が前後ろに叫ぶ。


「おうよっ」


 かじに取り付いた夜儀が叫び返す。


「大店の蔵に盗みに入ったときより高鳴るぞっ」


 数え十頃の夜儀……鼠小僧次郎吉はやはり、命と気持ちの高まりを求めて盗みを繰り返していたのだろう。江戸で。


 ここまでは一の帆だけで進み来たが、これくらい荒れていると船の全てを使い風と波に向かわせなければ、危うい。もっと荒れれば逆に帆を畳まなくてはならないが……。


 いずれにしろ、今は先帆に写楽を置いている。一の帆には、存分に寝て気合いが入る大綿。一の帆の操りで疲れている夜儀には悪いが、舵棒を持たせた。舵の操りでは、船人で最も信頼が置けるからだ。


 源内は潮見の間で万端、考えさせる。俺は潮見の間と星辰櫓を行ったり来たり。津見彦は大綿の助けとして一の帆に置き、共に筈緒を持たせた。大綿がなにか細かに伝えたい事など出れば、津見彦を潮見の間に走らせるはずだ。


 アサルは潮見の間に控えとして置いてある。使いをさせるし、異国の知恵で源内と嵐を談じさせるためだ。


 雨風、そして波はどんどん激しくなった。すでに波は、甲板こういたのすぐ下までもの高さだ。先程まで笑っていた大綿も、眉を寄せて帆を操り、津見彦に次々なにやら叫んでいる。雷が船の近くに幾つも落ち、その度に腹をえぐるような轟きが響いた。海なのに大火で焼け焦げたような臭いが立ち込めている。稲光が空と海を焼いているのだ。


 先帆を見ると、たったひとりで難しい帆の操りに暮れる写楽が、歯を食いしばっていた。


 夜儀は舵棒を強く握り締め、渾身の力で押している。めくれ上がった船着から覗く野太い腕は、ぎりぎりと強く膨らんでいた。神に護られた木花の舵は本来軽い。あれだけの力が入り用ということは、船底の下の流れがどれほど激しいかを物語っている。それはもはや海ではない。天から降り注ぐ大滝のような有様だろう。


 いくらなんでも、これは激し過ぎる。このような嵐は、俺の四十年以上の見聞きでも、聞いた試しがない。波で船がねじれ、すでに甲板からは、そこここで板が軋む不気味な音がし始めている。腹を見せるまでもなく、このまま木花がばらばらになってしまうやもしれん。


 気の迷いを、帆や舵に取り付く船人ふなびとに見せるわけにはいかない。皆が死ぬ程の力を振り絞っていられるのは、船長ふなおさの見込みを信じているからだ。そこに疑いが生まれると、心が離れ離れになり、船の統率が失われてしまう。そしてもちろん、それは黄泉路よみじへと繋がる。


 たまらず潮見の間に飛び降りた。


「もう嵐の真ん中かっ」


 轟々と雄叫びを上げる風に負けぬよう怒鳴ると、源内が叫び返す。


「おそらくそうだ。神に加護された木花このはながここまで揺れるなど、あり得ん。今、この船は、瀬戸内はおろか扶桑の船乗り、船人が見た事も聞いた試しもない嵐の真っ只中。それも一番厳しいところだろう。見よっ」


 源内が指差す。風を満帆に受け、一の帆は苦しそうに膨らんでいた。はためくことすらできずに。神の護持ごじを受けた帆布でさえ千切れそうだ。


「あそこまで暴れるはまれぞ」

「風に煽られ、船を傾けさせるばかりだ。畳ませる」


 稲光が始終光る中、大声と身振りで命じ、大綿に帆を畳ませた。そのままともに行かせ、夜儀と共に舵棒を持たせる。


 嵐に帆を張り舵を操るのは、進むためではない。船を落ち着かせ、波に耐えるためだ。これだけ大きな波を横から食らってしまっては、さしもの神木船かみきぶねといえども腹を見せて沈んでしまう。帆と舵で波頭なみがしら舳先へさきを向けないといけない。しかしそれも風が強過ぎては、むしろ危ない。もっとも大きな一の帆は、畳ませる頃合いをすでに過ぎていた。


 一の帆が畳まれると、残る先帆と舵で操るしかなくなった。幸い風が強いので、先帆に受ける力だけでも、それなりには操れる。


「アサル、お前はどう読む」

「わからんっ」


 揺れる潮見の間で窓枠にしがみついたまま、アサルが大声で答えた。


繪琉波蘭えるはらあんで船や漁を知り育ったとは言うものの、私は船人ではない。ただ、これまで故国で乗った限りでは、これほどひどい嵐は試しがない」

「嵐の盛りと思うか」

「それは読めんが、源内が言うたように、今が一番厳しい折だろう。空を見よ。雲の流れが鉄砲水のようだ。これほどの風が長く続くはずはない」


 たしかに、墨が流れるような速さで雲が飛んでいる。瀬戸内船人の言い伝えにも、ここまでの嵐はない。


 星辰櫓に戻ると、大声で前と後ろに叫んだ。


「今が極みぞっ。これを抜ければ楽になる。揺れるが踏ん張れ。あな気を抜くなっ。海に転がり落ちるからなっ」


 船人達が鬼の形相で頷く。皆、力を込めた腕と肩が張り、雨が降り掛かって肌がぬめるように輝いていた。



筈緒はずお 帆の向きをコントロールするための引き綱

とも 船尾

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