十之六 解呪
その夜、全ての用向きを終わらせると、俺は船頭の間に引き上げた。これから仙宝を使い、いよいよ呪い解きの儀を執り行わなくてはならない。包みを書見台に拡げ、闇寝の仙宝を取り出した。
闇寝の仙宝は、ひとつ型ではない。さまざまな大きさや形を持っており、中には一度に幾つかの呪いを解けるものすらある。その成り立ちはよくわかっておらず、聞く限り、今では作れる者がいない。
さていよいよじっくり見ようと目を細めたそのときに、アサルが訪ねてきた。なぜか藍の襦袢を着ている。
「なんだそれは、大黑屋で着せられておった奴ではないか。――持ってきていたのか」
俺の台詞を聞くと、気色悪そうな顔になり入ってきた。
「陽高よ忘れておったのか。今宵はお前の夜伽順だ」
抱きついてきた。自分の部屋に多くの男を迎えているからか、アサルはそこで交わりを持つのを嫌がった。俺が夜伽番のときは、おおむね船頭の間を訪ねてくる。
「まあ待て。今、大事の用をしている」
「こちらのがずっと大事の用なり……」
潤んだ瞳で、そっと俺の体に唇を這わせてくる。
「待てというに。ほら、これを見てみろ」
仙宝を手に載せ目の前に突き出してやると、ようやくそれを見た。
「なんだこれは」
「闇寝の仙宝よ」
「昼に源内が言っておった奴か」
「それよ」
小さな仙宝を、まじまじと見つめる。
「飴を捻ったような形だな」
たしかにこの仙宝は、太い紐を
「指ほどの大きさなれど、重いのう」
「ああ」
「これをどうする」
「俺の呪いを解く」
黙ったまま、アサルが俺の目をまっすぐに覗き込んできた。
「……やはり、あれは呪いなのだな」
「そうだ」
「これで解けるのか」
「ひとつだけだがな」
「ひとつ……だけ」
アサルの瞳が陰った。
「そうだ」
もう隠していても仕方ない。大枠を告げる事とした。
「三十八年前、俺は木花咲耶姫に求められ、船頭の契りを持った」
「それは聞いた。初めて木花に乗せてくれたときに」
「お前には話さなかったが、それには引き換えの取り決めがあったのだ。夜の安らぎが死ぬまで訪れないという」
「夜の……安らぎ」
「体を百八に分け、それぞれに呪いが掛けられた。夜眠ると全ての身が呪いで痛む。ひとつだけでも、死ぬほどの苦しみと痛みだ」
「それが百と、八つ」
「ああ。そうだ」
アサルが俺の頬に手を添えた。
「それであのような闇の苦しみを」
アサルの手を取るとそっと頬から離し、両手で挟んだまま膝の上に置いた。女の手は温かい。
「なに、これでも随分楽にはなった。闇寝の仙宝をこれまで四十幾つか手に入れ、呪いを解いてきた。中にはふたつ解けるものもあったので、残っている呪いは、五十と三つだ」
「……では、初めよりは楽だと」
頷いてやるとアサルは少し瞳を和らげたが、すぐにまた厳しい顔つきとなった。
「半分解けてすら、あの苦しみか。では呪いを受けた頃はさぞや……」
「思い出したくもない」
俺が笑うと、少し微笑んだ。
「そうであろうなあ」
事問いたげなので、もう少し話してやることにした。
「あの頃俺はすでに家もなく、人に辛く当たられて厳しい世過ぎに従っていた。この世に名高い神木船の船長となるるなら、夜安らかに眠れずともなんの問題があろうや。――そのような、捨て鉢の心があったのだ」
「陽高……」
瞳を潤ませながら、俺を抱いてきた。先程と異なり、どこまでも優しく、柔らかく。心安らぐ、女のいい匂いがする。これより先は話さぬつもりだったが、その匂いについ口が滑った。
「だが俺も老けた。堪え性が若い頃よりない。呪いは軽くなり楽になっても、それを受ける体と肚、魂がすっかり磨り減っている。だからむしろ辛い。これより先、遅かれ早かれ呪いで心が抜けるだろう」
「そのような世迷い言を口にするな、陽高よっ」
緑の瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ち、俺を濡らした。ふた月で伸びてきたきれいな髪が、俺の胸で震えている。
猫の和毛のような柔らかな髪を、そっと撫でてやった。まだ十四かそこらの女の心を乱してどうする。天下に名高い神木船の船長が。護ってやるべきは俺のほうなのに。
「少し脅かしが過ぎたな。なに、そのような事はまず起きん。これ、このような仙宝もあるからな」
「……本当か」
か細い声で問われた。
「本当だとも」
「心は抜けないな」
「抜けん」
「わらわと共に
「忘れてはおらん。いつか必ず」
「約すぞ、陽高……」
心の音を確かめるかのように、そのままじっと、俺の胸に顔を着けている。
「……ところでお前、なんで大黑屋の奴隷の衣など船旅に持ってきたのだ」
「これは……」
涙を拭うと、俺の瞳をじっと見つめた。
「これは、陽高が初めてアサルを
「そうか」
「陽高。あのときのように、この体を存分に検分するがよい。お前の女だ」
胸紐をそっと解くと、俺の手を取り胸へと誘った。
「そうしよう」
柔らかな胸に、俺は溺れていった。
●
長い間、抱き合っていた。暗い船行灯にゆらゆら照らされた寝床で。時を惜しむように。指と指を絡め、ふざけて肌を口で吸い、痕を付ける。
「呪いを解くところを見ていくか」
足で俺の体を優しく包んだまま、アサルが頷いた。
「……見せてくれ、ぜひ」
「では始めるか」
俺が仙宝を手に取ると、アサルも気だるげに起きてくる。
「私も……とうとう本物の女になった。初めてだぞ、頂きを見たのは」
「そうだな」
「愛しくて……死ぬかと思った」
また俺を抱く。
「……素敵な船長。私のものだ」
「ほら、仙宝だ」
寝床にそっと置いた。
「どうやって解くのだ」
仙宝を前に、奴隷は胡座を組んだ。
「手を当て、木花咲耶姫に祈るのよ」
「それだけか」
「そうだ。ただし心からな。――見ていろ」
仙宝を両の掌で包むようにし、目を閉じる。姫に教えてもらった秘呪の真言を、口の中で唱える。
そのまま――。
しばらくは、なにも起こらなかった。それからふと、小さな青い稲光が走った。それは数を増やし、鈍色の仙宝を細かく包み込み始める。
驚きに、アサルが息を潜めるのがわかった。そのまま真言を唱え続けると、ひととき仙宝が強く橙色に輝いた。その刹那。俺の体の中、五臓六腑のどこか、そして左の肘が急に熱を帯び、鋭く痛んだ。
思わずうめくと、アサルが俺の手を取った。汗ばんでいる。
「……平気だ」
血の気が引き目が眩みながらも痛みを堪えているうちに、やがて息が整ってきた。気づくとすでに、仙宝の輝きが消えている。稲光も、もう収まった。
「終わったのか」
俺が深く息を吐くと、アサルが訊いてきた。頷いてやる。
「呪いが解けたのだな」
「多分。腹の中のどこやらと腕らしい。どうやらふたつほど、呪いが解けたようだ」
「そうか……」
俺の腹を撫で始めた。
「あとたった五十一だ。この旅で幾つも見つかるに違いない」
「……そうだな」
力が抜けて、寝床に倒れ込んだ。アサルが俺の胸に頭を乗せてくる。
「私も一緒に探してやる。ふたりで見つけよう」
「……ああ」
「繪琉波蘭にいつか行ったら、我が民にも探してもらおう」
「……」
目蓋が重くなってきた。そのまま俺は眠りの世界に誘われてゆく。どうした具合か、呪い解きした夜だけは地獄を見ずに済む。もうゆっくりと眠りたい。
すっと極楽に吸い込まれ、そのまま眠りへと落ちた。
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