乾杯

 紫苑は脱いだ服を着ると、前のボタンを上から順番にかけた。


「もう良いぞ。今日は妾の大切な乳房が戻った祝いじゃ。これから皆で宴会というのはどうじゃ」


 ふり向こうかどうしようか。まだ、ぐずぐずとしている小室を佑子が肘で小突いた。

「ほら、気がきかないわね。さっさとお酒でも買いに行ったらどう。それとジュースとお菓子。後は、何か食べるものが欲しいわね。紫苑、この近くに出前してくれそうな店はある」


「そうじゃな。どうせなら妾は寿司が食いたい。なあ神三郎様、良いであろう」


「それもいいな。この前、探偵としての報酬が入ったばかりだ。今日は豪勢にいこう」


「わしはどちらかといえば、死んだ魚より生きた虫の方がいいのですが。寿司屋にありますかな」

 八咫烏が文字通りの意味でクチバシを挟んだ。佑子がすぐに応じる。


「私は死んだ鳥肉が食べたいわ。素材はここにあるから、首を締めて血を抜くのを手伝ってくれる」


「おおこわ。仕方がないですな。わしはエビで構いません。あれは虫のようですからな。姫様、お願いします」


「ふん、それなら妾のをやる。あんな気持ちの悪いもの、食う者の気がしれんわ」


 気がつくと、志穂が笑っていた。もう一生、心の底から笑うことはない。少し前までそう言っていたのが嘘のようだ。

 ここには何でもある。悲惨な過去も、後悔も、苦しみも。でも、喜びもある。愛情もある。未来への希望もある。ひとつじゃない。決まってもいない。たぶん、それが世の中なんだろう。


「おい、神三郎。先に注文してたのか。もう寿司屋が来たぞ」


 買い物に出ようとしていた小室が戻ってきた。大きな寿司桶を抱えた男が、二人も続けて入ってくる。


瑞穂寿司みずほずしの大将じゃないか」

 神三郎が驚いたように言った。馴染みの寿司屋らしい。後ろからついて来た若い男は店員だろう。


「やあ、九十九さん。毎度あり。特上を五人盛りで二十人前。いや、今日は仕入れから違うからな。最高のネタばかり、特上の特上だ。こっちの桶はサビ抜き、エビ抜きで、卵と赤身を多目にしてある。紫苑ちゃん専用だな」


「誰か先に頼んでたのか」

 神三郎が首をひねる。大将は寿司桶を重ねて置くと、空いた左手で押しとどめるような仕草をした。


「いいんだ。金は先にもらってある。なんかスーツを着た、パリッとした男だったぞ。俺も修行時代に銀座で握ってたことがあるんだが、ありゃあ、政治家の秘書って感じだな。九十九さんに会ったら、紫苑ちゃんに約束したアメ玉の代わりだって伝えろってさ。意味はわからないんだが、確かに伝えたぞ」


「どういうこと」

 佑子が紫苑に聞いた。


「どうせあの、狸オヤジの仕業であろう。芸の細かい古狸じゃ。妾たちが集まるのも、最初から調べておったに違いない。神三郎様、この寿司をどうする。いっそのこと、受け取らずに返してしまうか」


 寿司屋の大将が急に顔色を変えた。

「冗談はよしてくれ。もう金はもらってるんだ。返そうったって、そうはいかないぜ。どういう経緯いきさつかは知らないが、俺の握った寿司を粗末にするなら、あんたとの付き合いも終わりだ。二度と店に入れてやらないから覚悟しろよ」


「それは困るな。紫苑、もらっておこう。あの人も寿司くらいで恩に着せるほど小さい男じゃないだろう。今度お返しに、また何か占ってやるさ」


「ちょっと。さっきから勝手に話を進めてるけど、それって誰のこと。もしかしてこの前、あの工房に融資してくれた人と関係あるの」


「お主にも、知らぬことのひとつくらいはあっても良い。神三郎様と、妾だけの秘密じゃ」

 紫苑は勝ち誇ったような顔をした。佑子は面白くなさそうに、ぷいと横を向く。


 寿司には割り箸だけでなく、陶器製の醤油瓶と小皿までついていた。どんな人が注文したのか知らないが、呆れるほどに気が利いている。


 やがて小室が両手に大きな荷物を下げて戻って来た頃には、大体の準備はできていた。グラスは下のスナックに借りてきた。おすそ分けに寿司をひと桶渡すと、スナックのママは代わりにウイスキーのボトルと氷をくれた。ずんぐりとした黒いボトル。ほう、ダルマか。ボトルを見て小室がつぶやく。


「手伝いましょうか」


「いや、俺ひとりでいい。佑子さん。これ、どこに置けばいいかな」


「とりあえずそこでいいわ。あと、念のために言うけど、あなたは運転手ですからね。お酒を飲めないのを忘れないでちょうだい。私は飲むから、運転は代わってあげないわよ」


「えっ、少しくらいはいいじゃないですか。俺は警察の人間ですよ。取り締まりに引っかかっても、警察手帳を見せてやれば大抵の警官は見逃してくれます。特に所轄の人間は本庁の刑事には遠慮してくれるから大丈夫ですよ。それに俺は酒には強い方なんです。一杯や二杯飲んだくらいで、ハンドルを握れなくなったりなんかしません」


「人間の判断能力は少しのアルコールでも格段に落ちるのよ。女子高生も乗せるんだから、我慢なさい。その代わり、これをあげるわ」


 佑子は自分が持ってきた紙袋の中から、細長くて薄い箱を取り出した。デパートの包装紙だ。ラッピングのリボンがついている。


「ここで開けないでよ。これは、志穂さんたちに付き合って車を出してくれたお礼。余計なことかも知れないけど、これからは少しは身だしなみにを気をつけた方がいいわよ。そのヨレヨレのネクタイじゃ、一緒にいるのも恥ずかしいもの」


 涼子は小室のネクタイをじっくりと見た。確かに佑子の言う通りだ。縁からほつれた糸は出ているし、色もすっかりくすんでいる。細くなっているように見えるのは、縮んでしまったからだろうか。


「えっと、えっ。つまり、俺と一緒にいてくれるってことですか」


「バカ、誤解しないでよ。たまに、今日みたいな時のことよ。私は忙しいの。男の人と付き合っている暇なんてないの。紫苑の体を戻して、兄さんの世話をしてなんて考えてたらすぐにオバサンになっちゃうわ。でもまあ、もしも。それまで待っててくれる人がいるんだったら、考えてもいいけど……」


「それなら大丈夫です」


「えっ」


「佑子さんは絶対にオバサンになんかなりません。十年後も、二十年後も綺麗です。ずっと変わりません。俺が保証します」


「何よ、それ」

 佑子は苦笑した。


 でも、小室らしい。涼子もつられて可笑しくなった。狙っていないから、ある意味新鮮な気がする。


「おい。俺いま、何か変なこと言ったか」

 急に小声になって、小室が話しかけてきた。こっそり聞いているつもりらしいが、それもバレている。見えない位置で佑子がまた笑っている。


「いいと思いますよ。結構、刺さってると思います」


 神三郎がグラスを持って立った。

「さあ、そろそろ始めよう。集まってくれたみんなのために乾杯だ。一言ずつ好きなことを言ってくれ。僕は、生きる勇気を取り戻した志穂くんのために」


「もちろん妾は、神三郎様に」


「私は、おバカな刑事さんのために」


「美しい佑子さんのために」


「姫様の麗しい乳房に」


「私の大好きな親友、涼子のために」


「私は……」

 涼子は少しだけ考えた。視界の隅で、八咫烏がアピールするように黒い羽根を広げている。まあ、いいか。名前を呼ばれない人がいるのもかわいそうだ。


「私は、エッチなカラスさんに」


 息を吸う。上を向く。グラスを高く掲げる。そして次の瞬間、全員の声がひとつに合わさった。


「みんなのために、乾杯」

 


〜 鬼狩り神三郎 〈完〉 〜

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鬼狩り神三郎 千の風 @rekisizuki33

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