エピローグ 居場所

居場所

 砂利を押し潰すような音を立てながら、ゆっくりと車が停まった。舗装されているのは商店街までだ。探偵事務所のある路地は、砂利道のままになっている。

 小室の運転は慎重だった。助手席に佑子が乗っていたからかもしれない。

 車は排気量の小さい国産車だったが、後部座席の後ろにある収納スペースが広い。座席は少し窮屈だったが、車椅子を入れるにはちょうど良かった。


 志穂の退院から二か月。それから涼子たちは事件の関係者を訪ねて回っていた。仕事で忙しい佑子はほとんど同行できなかったが、小室はいつも黙って車を出してくれた。

 鬼神のことを隠しながら訪問するのは精神的にきつい。先週、鬼に喰われた兄妹の所に行った時は特に辛かった。猟奇殺人者の被害者同士。そういう理由で訪問したから、向こうの家族は泣きながら志穂を抱きしめてくれた。苦しい。こちらから慰めの言葉をかけることを、志穂はそう言っていた。死ぬほど辛かっただろう。でも、それでも歯を食いしばって、志穂は自分の責任のひとつひとつに懸命に向き合っていった。


「いよいよね。志穂さん、覚悟はできてる」

 佑子が後部座席を振り返って聞いた。志穂が無言で深くうなずく。


 手がぎゅっと結ばれているのに涼子は気づいていた。これから死ぬ。喰われて式神の血肉になる。志穂はそう思っている。


「狭い階段だから、小室さんが背負って行って。車椅子は涼子さんの担当よ。私は荷物を持っていく」


「はい」

 涼子は先に車の中で、志穂にコートを羽織らせた。


 季節は冬に入っている。半月もすればもう、年明けだ。ごめんね、来年は一緒に初詣には行けないね。淋しそうな志穂の言葉が、涼子の胸にずっと刺さったままだ。


 小室がドアを開けて、志穂の手を引いた。

「ヨシ、いいか。背負うぞ。ほお、なんだ。こんなものか。軽い軽い。死んだ俺の婆さんみたいだ。冬に女を背負うなんてまるで姥捨て山にでもいくようだな。俺の田舎の方じゃあ、そういう昔話があるんだ。聞いたことあるか」


「バカ」


 佑子が、小さくつぶやくのが聞こえた。

 明るい声で言えばいいってもんじゃない。これで気を遣っているつもりなんだから呆れる。


「まるで、処刑台の階段みたい」

 志穂がぽつりと漏らした。


「大丈夫だ。このまえ数えてみたんだが、ここの階段は十三段じゃない。それにそもそも日本の死刑場は階段じゃなくて、落とし穴みたいになっているんだ。首に縄をかけたまま床がパカっと開いて落ちるようになってる。刑務官の友達にわざわざ見せてもらったんだから間違いない。今度一緒に見に行くか。結構、上手くできてるもんだぞ」


 小室が自慢気に蘊蓄うんちくを語った。空気が読めないのも、ここまでくれば尊敬する。

 でもまあ、今度はいいか。涼子は思った。これで志穂の気が紛れたのは間違いない。下手に気を遣うより、かえって白けた方がいい場合もある。


 『九十九探偵事務所』。事務所のドアにある貼り紙は、涼子が筆で書いた物に変わっていた。本物の書家ではないけれど、これでも書道部の副部長だ。前に貼ってあった下手くそな字よりはマシだと思う。

 事務所の中は意外に暖かかった。南に向いた大きな窓のおかげで、室内が温室のようになっている。それに反射式の石油ストーブも二台、応接セットを挟むようにして置いてあった。

 神三郎はソファーで煙草を吸っていた。その隣には紫苑がいる。そして今日は、八咫烏までいた。冬になったせいか、今日はおとなしい。段ボール箱に刻んだ新聞紙を詰めて巣箱のようにして、その上にうずくまっている。


 小室に手伝ってもらって、涼子は志穂を車椅子に座らせた。それを見て紫苑が立ち上がり、ゆっくりと歩いてくる。

 少女の姿をした美しい式神は、いつものようにゴシック調のドレスを身につけていた。


「よう来たな。聞いたぞ。そなた、妾の餌になりたいそうじゃな」


「はい。私を食べていただきに参りました」

 不思議なほど静かに、志穂が答える。


「本当にいいのじゃな。これからそなたの体は、妾の物になる。言い残すことがあれば、何でも言うておくが良い。妾は鬼神じゃ。喰うた人間との約束は必ず守る」


「言いたい事があったんじゃないの」


 佑子が促した。志穂はうなずいてから、正面からしっかりと紫苑を見た。


「ひとつだけ、お願いがあります」


「なんじゃ」


「私が死んだら、涼子のお友達になってください。涼子とはずっと、ずっと一緒だったんです。明るいけど怖がりで、怒るとぷっと頰を膨らませたりして。ケンカするとすぐに仲直りして。それで、それで、誰よりも優しくて。今でも大好きです。私がいなくなったら、きっと淋しがります。

 だから私の代わりに、紫苑さんが涼子のお友達になってください。私が食べられちゃっても、紫苑さんの中には私がいるから。きっと涼子もわかると思うんです」


「志穂……」


 涼子は自分の頰を冷たいものが伝わっていくのを感じていた。ああ、志穂と友達で良かった。間違いじゃなかった。心の底からそう思う。


「心得た。それでは首筋を出すのじゃ。そなたの体が妾の役に立つかどうか。味見をしてやろう」


 志穂は小さくうなずくとセーターを脱ぎ、前開きのシャツのボタンを外し始めた。半分くらい外すと、今度は下着の片方を肩まで下げる。ブラジャーの紐に触れたところで、問うように紫苑を見た。


「そこまでで良い。ここには男もおるのでな」


 紫苑は 左肩に手を置くと、大きく口を開けた。いつの間にか鬼の鋭い牙が現れている。そしてその牙を、剥き出しの右肩に近づけていく。


 トクン。警報のように心臓が鳴った。

 紫苑なら喉元を一瞬で噛み千切れる。涼子はその事を知っている。

 大丈夫。私と紫苑に任せて。きっと上手くいくから。涼子は、佑子のその言葉だけを信じて車椅子を押してきた。でも、ここまでくると怖い。信じている。みんなを信じている。でも、恐怖は別だ。心臓は自分の言う事を聞いてくれない。


 無意識に目を閉じていた。指を組んで必死に祈った。手が震えている。一分、いや二分もそのままにしていただろうか。やがて、肩に手が置かれた。女性のしなやかな手の感覚。佑子だ。


「目を開けて、あなたの友達を見てあげて」


「思うた通りじゃ。体によう馴染む」


 紫苑が、志穂の首筋から静かに離れた。首は、まだ胴体についている。志穂は生きている。

 安堵が涼子を満たした。涙を拭うことをようやく思い出す。


「どういうことですか」

 志穂が、首筋に触れながら佑子の顔を見上げる。少しだけ青白い。


「鬼神の体をこちらの世界に呼び込む方法は二つしかないわ。人間を生きたまま食べること。それともう一つ、処女の生き血を吸うこと。あなたの血が紫苑の役に立ったのよ。ありがとう。私からもお礼を言うわ」


「処女の生き血。でも、私はもう……」


「警察が、あなたを乱暴した高校生たちに確認したそうよ。暴行された時、コンドームを使っていたんでしょう。リーダー格の山田っていう学生が厳しく指示していたそうよ。妊娠したら絶対にバレる。だからもて遊んでも、避妊だけはする。動機は自分のためだけど、あなたにとっては幸いだったわね」


「でも、私はもう汚れています。もう綺麗な体じゃありません。出血だってありました。痛くて痛くて、悔しくて。だから処女だなんてことありません。自分でわかってます」


「そんなこと、誰が決めたのじゃ」

 紫苑が一喝した。

 

女子おなごなら、もっと堂々としておれ。棒でつつかれ、捏ねくり回されたくらいで何が変わるものか。そんなものは男のくだらん幻想じゃ。処女でなくなるのは好いた男の精を受け入れ、自分とひとつになった時じゃ。それまでは、女子おなごの髪の毛一本であっても変える事はできぬ」


「でも、でも……」


「信じられぬのであれば、これを見よ」


 紫苑は胸元からボタンを外し始めた。上着を脱いでしまうと、そこに黒いコルセットに包まれた白い肌が現れる。

 前に見た物とは少し違う。

 鎧のようなコルセットは、片方の胸の部分だけが、切り取ったように大きく開いていた。だが、そこに乳房はない。乳首もない。あばら骨の浮いた薄い肉の上に、ピンク色に乾いた皮膚だけが、その位置にある。


 佑子が小室の前に立った。

「男の人は向こうを向いてて。そこのエロガラスもよ」


 涼子は息を呑んだ。また、あれが始まる。

 突然、皮膚が波打った。無数の草が同時に芽吹くように。胸の部分にうねうねと動く突起が伸びていった。それは重なり合い、肉として埋まっていく。そして少しずつ紡錘形に盛り上がっていく。


「そなたの血が、妾の体に届いた。ようやくじゃ。片方だけじゃが。これで、ようやく妾の乳房が戻る」


 やがてそれは完璧な乳房の形になった。滲みひとつない白く滑らかな曲線。最後に顕れたピンク色の乳首が、その気品を誇示するかのように上を向いている。


「綺麗」


「さあ、触れてみるがよい。そなただけじゃ。妾に乳房をくれたそなたにだけに、神三郎様よりも先に触れることを許そう」


 志穂が感動したように、震える指を近づけた。乳首の少し上を押す。弾力のある肌が指先を埋めた。志穂が指を離すと、わずかに揺れてから戻る。


「これが、私の血……」


「そうじゃ、そなたの血が妾の大切なものを戻してくれた。そなたは汚れてなどおらぬ。これがその証拠じゃ。

 女子おなごが処女を失う時、そなたは男に奪われるのだと思っておるのだろう。だがそうではない。女子が男から奪うのじゃ。男の精を奪い、自らの物とする。鬼神が人を喰うのと同じじゃ。だからその相手と繋がり、愛おしくなる。妾はそなたが愛おしい。そなたは妾を嫌いか」


 志穂は首をぶんぶんと振った。涙も、心も。全てを振り払うようだった。


「妾はそなたが死ぬのを許さぬ。涼子も許さぬ。佑子も許さぬ。神三郎様も許さぬ。妾たちは血で繋がった同胞はらからじゃ。そなたの体は妾がもらい受けたのだ。妾に従え。妾と一緒に居れ。そしてそなたが本当に好いた男に出会うた時にこそ、そなたは変わる」


「私に、できるでしょうか」

 紫苑は微笑んだ。


「できるかではない。やるのじゃ。人の世に出てきた時、妾は首だけであった。木でできた人形は、まるで妾の敵のようであった。立つことさえできぬ。だが、妾は神三郎様に大きなことを言ってしもうた。首だけでも役に立ってみせる。その言葉を守るために妾はあがいた。もがいた。その先に、今の妾がある。

 そなたも同じじゃ。苦しいこともあるじゃろう。心ないことを言う者もおるじゃろう。だが、妾がおる。涼子も佑子もおる。神三郎様もおる。そなたは一人ではない」


 う、ううっ。

 志穂は泣いていた。うわあと声を上げ、そのまま突っ伏した。

 愛してる。涼子は唇で言葉を作った。みんな志穂を愛してる。それが伝わればいい。それで全てが解決するわけじゃないけど。少なくとも、それで前に進める。

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