砂漠スタートの異世界転移
クソゲー・オブ・ザ・砂漠
――ざらり。
頬に触れる粗野な粒の感触で、私は意識を取り戻した。
重いまぶたをこじ開ける。視界の上半分は漆黒の闇、下半分は月明かりを吸って鈍く青白く光る砂だった。
上体を起こそうとして手をつくと、ズブりと掌が沈み込む。乾いた音がして、指の間から砂がサラサラとこぼれ落ちた。ひんやりとした空気が頬を撫で、夜の匂い――乾いた土と、冷たい鉄のような香り――がツンと鼻を刺した。
「……どこだ、ここ」
寝ぼけた頭で周囲を見渡す。
砂、砂、砂。世界が見渡す限り単色で塗りつぶされていた。
アスファルトも、電信柱も、コンビニの明かりもない。あるのは波打つ砂丘のシルエットと、頭上に広がる暴力的なまでの星空だけ。
ジャージについた砂を払いながら、記憶を遡る。
――Black Magic。
――異世界に行く方法。
――テギ‐ニン ナ アルテシア。
胡坐をかいて、印を結んで、呪文を唱えて……そして私は、「RPGの背景」を想像しようとして、うっかり「砂漠」の映像を一瞬だけ脳裏によぎらせてしまった。
「まさか、あれで本当に砂漠来た? あの一瞬のノイズを拾ったってわけ?」
どういうことだ。
なんで一瞬のミスをピンポイントで採用するんだ。バグか?
現在の時刻を確認しようとスマホを探すが、どこにもない。財布もない。手元にあるのは、部屋着のスウェット上下と、中に着ているくたびれたTシャツ一枚という軽装のみ。
えー……どうしよ。詰んでない?
いや、待ってくれ。頭が整理できない。……ここが本当に異世界だとして。
異世界転生モノの第1話って、もっとこう……希望に満ちているものじゃないのか?
最初に慈愛に満ちた女神様が出てきて、「手違いで死なせてごめんね☆ お詫びにお好きなチート能力をあげる!」とか言ってくれるイベントがあるはずだ。
そして目が覚めたら緑豊かな草原。近くの川で顔を洗って、スライム的なザコ敵と遭遇したりして、自分の与えられたスキルを発揮して無双ライフが始まる――それがお約束だろう。
なのに、現実はこれだ。
砂漠。夜。極寒。孤独。
初期装備なし、スキルなし、チュートリアルなし。
「……クソゲーにも程があるだろ」
いきなりハードモードどころか、理不尽な即死イベントの真っ只中だ。
物語が始まって3ページ目で「砂漠に投げ出されて死亡」なんて、打ち切り漫画でももう少し粘るぞ。
夢であってくれと願いながら、自身のほっぺをつねってみる。
……痛い。
鮮明すぎる痛覚。肌を刺す冷気の解像度。砂の粒子のリアルな感触。五感が「これは現実だ」と、残酷に告げてくる。心臓が早鐘を打ち、嫌な汗が背中を伝った。
「……さっむ」
砂漠の夜は氷点下になると、と聞いたことがある。私の知っている砂漠がここと同じかは不明だが、冷気が容赦なく体温を奪っていく。息を吐くと、白く曇ったそれがすぐに夜風にさらわれて消えた。
震える手で二の腕をさすりながら、目を凝らす。
闇の向こう、地平線の彼方に、かろうじて小粒の光が瞬いているのが見えた。
星ではない。地上にある光だ。
街の灯り……なのか? それとも、旅人の焚火か。分からないが、あそこしか「人の気配」を感じる場所はない。
身体が小刻みに震えだす。寒さのせいだけじゃない。
――恐怖だ。
この状況を、頭では「遭難」と理解しているのに、心が追いつかない。さっきまでエアコンの効いた部屋で、ビール片手にPCをいじっていたのだ。それが今は、肉体ひとつで死の世界に放り出されている。
SEとして数々の炎上案件や深夜のトラブルシューティングを乗り越えてきた自負はあるが、こんなケースは想定外だ。
「え、まじでどうするの、これ……」
呟いても返事はない。風がヒョウヒョウと鳴き、砂を巻き上げていくだけだ。
泣き言を言っている場合じゃない。あの明かりを目指すしかない。距離感は掴めない。まるで水平線の彼方にある星を追うような、気の遠くなる距離に思えた。
……サバイバルって、こういうこと?
漫画で読むのと全然違う。もっとこう、知恵と勇気でなんとかなるものだと思っていた。でも現実は、ただひたすらに寒いし、足元は悪いし、何より情報がなさすぎる。「死」という文字がだんだんと輪郭を帯びてくる。
動画アプリで「無人島サバイバル術」とか「砂漠で生き残る100の方法」とか見ておけばよかった。いや、見たところで持ち物0のスウェット姿のSEに何ができる。
頭の中で、生き延びるためのリソースを必死に模索する。
――水。食料。防寒具。通信手段。
足元にあるのは砂だけ。オワタ。掘っても掘っても、乾いた層が続くだけ。それでも、とにかく歩いた。
どこかから猛毒を持つサソリが這い出てくるかもしれない。砂漠の夜事情に詳しくない。「知らない」ということが更なる恐怖を作っていた。足をすくませながらも、歩くしかなかった。ここに留まっていても、待っているのは凍死か渇死だ。
どれくらい歩いたのかも分からない。
右足を出して、左足を出す。「歩く」。その単純な繰り返し作業だけが、今の私を世界に繋ぎ止めている。
足を動かすたびに、ジャージの裾から砂が入り込み、肌と擦れる音がした。靴下の中もジャリジャリだ。気持ち悪い。
歩き続けていると、運動熱で寒さは少し和らいだが、その代償として体力が削り取られていく。ふくらはぎが悲鳴を上げ、肺が冷たい空気で痛む。
インドア生活のツケが、いま見事に回ってきた。
喉が、焼けるように乾いてきた。唾液が出ない。舌がザラついたスポンジのように張り付く。
けれど不思議なことに――空腹は感じない。
……ああ、そうか。『Black Magic』に書いてあった「空腹を消す呪文」だ。
さっき面白半分で唱えた『
「一時的に食欲を抑えられる」とかいうダイエット機能が、まさかこんな極限状態で発動し続けているとは。
皮肉な話だ。空腹感というアラート機能が切られているせいで、身体がどれだけエネルギーを枯渇させているのかが分からない。バッテリー残量が表示されないスマホを使っているようなものだ。いつ突然シャットダウンするか分からない恐怖。
それに、空腹というノイズがない分、喉の渇きだけが鮮明に、鋭利に、脳髄を突き刺してくる。
「……これ、死ぬ……?」
自分の声が、老婆のようにかすれていて笑えた。
人間って、水がないと三日で死ぬんだよね? 異世界に来て、魔法を使うこともなく、魔王と戦うこともなく、いきなり脱水症状で野垂れ死に?
そんなの、あんまりだ。
「ふざけんなよ……そんな理不尽あってたまるか」
声に出すことで恐怖を誤魔化そうとするが、言葉は砂に吸われて消えるだけ。
寒さと乾きと孤独。全部が胸の奥で重なって、黒い塊になって押し寄せてくる。一歩、また一歩と砂を踏みしめるが、やがて視界が霞み始めた。
足がもつれ、膝から崩れ落ちる。砂の冷たさがジャージを通して伝わってくる。
もう、立てないかもしれない。
近くにあった大きな岩の影に身を寄せ、少しでも風をよけようと身体を丸くした。胎児のような姿勢。それが一番落ち着く。
砂が頬に貼りつく感触が、やけに遠い。
目を閉じる。
瞼の裏に、置いてきた日常が走馬灯のように浮かび上がった。
――実家のリビング。
万年床でゴロゴロする父と、TVドラマに文句を言いながらリンゴを剥く母。「あんた、またそんなゲームばっかりして」という小言。あの時はうっとうしかった母の声が、今はどうしようもなく恋しい。
今頃、何してるんだろう。
突然娘がいなくなって、警察に連絡してるのかな。いや、時間も経ってないしまだ気づいていない、よな。
もし私がこのまま死んだら、姉ちゃんに続いて私まで失踪扱いになる。
……親不孝にも程がある。
お母さんの作ったカレーが食べたい。隠し味にインスタントコーヒーを入れる、あの少し苦いカレー。
――パソコンの画面。
チャットツールの通知音。
『アオたん、今日レイドボス行くんでしょ?』
『寝落ち? 珍しいな』
いつものメンバーたち。顔も知らない、本名も知らない、でも毎日言葉を交わす友人たち。
私が突然ログインしなくなって、みんな心配してくれるだろうか。それとも、「引退かー」くらいで流されて、新しいメンバーが補充されるだけだろうか。
……やだな。忘れられたくないな。まだ、やり残したクエストがいっぱいあるのに。
そして――姉の笑顔。
交番の掲示板に貼った、あの能天気なピースサイン。
姉ちゃん、今どこにいるの?
私もそっちに行こうとして、失敗しちゃったよ。
姉ちゃんも、こんな風に寒くて、ひもじくて、寂しい思いをしたのかな。それとも、もっとマシな場所に落ちて、どこかで温かいスープでも飲んでいるのかな。
そうであってほしい。せめて姉ちゃんだけでも、幸せでいてほしい。
……あぁ、アルミ玉。
私が人生の時間を削って磨き上げた、あの銀色の球体。
返してほしいなんて言ったけど、そのせいで私がここにいるならもう諦めます。
だから、助けて。
誰か。誰でもいい。
意識が、泥のように重くなる。
思考の処理速度が落ちていく。
暗い。寒い。怖い。
私は最後に、小さく「お母さん」と呟いて、闇の底へ沈んでいった。
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帰りたすぎるアラサーSEの異世界ハッキング 風丸 @rkkmr
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