鼻毛と黒魔術と「Black Magic」
深呼吸。一、二、三。
さて、どうしたものか。
姉の検索履歴は、鼻毛で埋め尽くされていた。
スクロールしても鼻毛、さらにスクロールしても鼻毛。検索ワードのバリエーションだけは無駄に豊富だ。
先ほどの「私の姉は清らかだった」という言葉は、全力で撤回しよう。
だから、こういうのは見たくなかったんだ。人のプライバシーを覗くと、たいていロクなことがない。
きっと姉も、自分の彼氏の鼻毛事情なんて妹に知られたくはなかっただろう。……でも、よっぽど気になっていたんだな。鼻毛。そこまで追い詰められていたのか、姉よ。
いや、でも……まぁ、確かに気になるか。
もしも恋人の顔から、白髪交じりの剛毛が主張激しく飛び出していたら……。
私も姉の彼氏とは顔見知りだったけれど、さすがに他人の鼻の穴をまじまじと観察したことはなかった。まさか、そんな爆弾を抱えていたとは。気の毒に……。
ただ――ここでブラウザを閉じたら真相にはたどり着けない。そんな予感がして、私は再びマウスを握った。覚悟を決めて、地獄のような検索履歴をひとつずつ遡っていく。
そして、その中に一つだけ、異質な光を放つ検索ワードを見つけた。
『鼻毛 黒魔術』
……鼻毛に黒魔術。発想がもう末期だろ。
どんな心境でこの二単語を組み合わせたんだ。科学でも医学でもどうにもならず、ついにオカルトに救いを求めたというのか。もはや恋愛の悩みというより、狂気だ。
履歴からリンクを辿ると、「Black Magic」という洋書の購入ページが表示された。現在は品切れ中。黒い背景に白い文字でタイトルが記されているだけの、やけにシンプルな表紙だ。
どこか画面越しでも不気味な気配があるそれは――見覚えがあった。
「……まさかね」
私は立ち上がり、姉の私物を詰めた段ボールの奥へ腕を差し入れた。
埃っぽい空気と古い紙の匂い。指先にざらりとした布の感触――その下から、一冊の黒い本が出てきた。
表紙は完全な黒一色。光を吸い込むようなマットな紙質に、白い無地の活字で「Black Magic」。さっき画面で見た購入ページの装丁と完全に一致している。
背表紙には版元の記載がない。
「……買ったのかよ!」
ぱらぱらとめくる。乾いた紙鳴りが静寂に響く。古書特有の、湿気を吸って吐いてを繰り返したような重たい匂いがした。
「はじめに」のページには、本を開いたような形の中に、鍵穴のマークが描かれた独特の紋章。その下に太字で『本書の使用はすべて自己責任で』とだけある。本のサイズの割に、やけに大きいフォントだ。免責事項がこれだけというのも、逆に不安を煽る。
著者の紹介欄には「異界由来の術者」と一言。なんやねん。ふざけている、と一度は本を閉じた。
……くだらない。そう思ったのに、手汗で湿った指先は、気づけばもう一度ページを開いていた。好奇心というやつは、本当に厄介だ。
本文には、用途別の術が淡々と並んでいる。巻頭には『この書自体に微量の力が封じられており、記載の手順により術を媒介する』とだけ素っ気なく書かれていた。
紙は新しいのに、インクの黒だけがわずかに沈んで見える。まるで、文字が紙面の奥へと吸い込まれていくような錯覚を覚えた。
目次をざっと追うと、生活の小技めいた項目から物騒な見出しまで、危険度の低い順に配列されているらしい。最初の章は、身体感覚への干渉だ。
『お腹がすかなくなる方法』
※脳を錯覚させるだけなので必ず食事をしてください。食べないと普通に死にます。
1. 胡坐をかき、本をその上に置く。
2. 周りに誰もいないことを確認する。
3. 手のひらを上に向けて膝の上に載せる。
4. 目を閉じ、呼吸を整える。吸って、吐いて、を10回繰り返す。
5.
6. その光が徐々に身体全体へ広がっていく様子を思い描きながら、「
7. 光が身体の隅々まで満ちたら、ゆっくり目を開ける。
……真面目な大人は、こんな手順やらない。項目の二番目の「周りに誰もいないことを確認する」は、魔術的な要件というより、純粋な羞恥心対策だろう。
そう毒づきながらも、私は床にあぐらをかいていた。部屋の窓からは夕暮れの光が差し込んでいて、オレンジ色の影が壁に長く伸びている。
呼吸を整える。吸って、吐いて。数を数えているうちに、不思議と心が凪いでくる。丹田……へその下あたりか。そこに光の球。イメージする。SEの仕事柄、抽象的な概念を構造化するのは得意だ。暖かい、ぼんやりとした光。
私は口を開いた。
「……
言った直後、自分は何をやっているんだと死にたくなった。
だが。
さっきまで「晩御飯はラーメンにしようか」と考えていた胃袋が、すうっと存在感を失った。
唾液の分泌が止まり、胃の腑がしんと静まり返る。空腹が満たされたのではない。「空腹」という概念そのものが、脳のパラメータから削除されたような感覚。
え……?
いや、まさか。思い込み、暗示、プラシーボ。全部、その可能性だ。でも、確かに物理的な違和感がある。自分の身体が、自分のものでないような。
動揺を抑えながら、ページをめくる。
『鼻毛をなくす方法』
※ただし自分にのみ有効
そのページだけ、紙が波打ち、薄汚れていた。
指で撫でると、ざらりとした脂の感触。――姉が何度も何度も開いた気配だ。
「自分にのみ有効」。
この注意書きを見た時、姉はどんな顔をしたのだろう。彼氏の鼻毛を消したくて、怪しい通販で本を取り寄せ、高い金を払い、いざ届いてみれば「自分にしか効かない」。
そのページに残る汚れは、姉の涙か、それとも悔しさで指先から吹き出した脂の跡か。どちらにせよ、無念だったに違いない。
さらに次へ。ページをめくる指先が震えていることに気づいた。
後半のページ。明らかに雰囲気が変わる。
『異世界に行く方法』
※完全自己責任
……異世界。
アニメや小説でよく見るやつだ。エルフやドワーフがいる、地球とは別の座標軸。
いや、まさかね。でも、さっきの空腹を消す術が本当に効いたなら――。
1. 本を胡坐をかいた上に置く。
2. 周りに誰もいないことを確認する。
3. 両手で印を結ぶ。右手の親指と人差し指で輪を作り、左手の親指と人差し指で輪を作る。その二つの輪を重ね合わせて前方に掲げる。
4. 目を閉じ、深く呼吸をする。吸って、吐いて、を20回繰り返す。
5. 心の中で「行きたい世界」のイメージを明確に思い描く。草原、森、城、街並み――できるだけ具体的に。
6. そのイメージを保ったまま、「
7. 唱えながら、重ねた輪を前方へゆっくり押し出す。
8. 光の扉が開くイメージを持ち続ける。
手順を読み終えて、私は本を膝の上に置いたまま固まった。
帰還方法が、書いていないんですが。
「……いや、待て待て。落ち着け私」
私は一度、結びかけた印を解いた。
「まさかだけど恋人の鼻毛が消せないことに絶望して、異世界へ逃亡? ……いや、安直すぎんだろ。動機が軽すぎて、逆にこっちが絶望するわ。そんな理由で現代文明を捨てるなよ」
そんなセルフツッコミが口をついて出た。
けれど、あの履歴に残っていた『鼻毛 白髪』『鼻毛 気にしないメンタル』という必死な検索ワードの数々。姉にとっては、それはもはや鼻毛という名の、巨大な存亡の
あるいは、鼻毛魔法の効能が自分のみだったという「賢者タイム」のような虚脱状態で、つい魔が差したのか。やけになった姉が、興味本位でこのページを開き、実行してしまったとしたら。
警察も、探偵も、誰も見つけられなかった理由に説明がつく。地球上にいないのなら、見つかるはずがない。
だとしたら、私も同じことをすれば、姉に会えるかもしれない。
いや、会えるか? 異世界が一つとは限らないし、同じ場所に落ちる保証なんてどこにもない。死ぬかもしれない。戻ってこられないかもしれない。
――でも、やってみないと分からない。
先ほどの呪文でお腹が空かなくなったのが偶然でないとしたら尚更の話だ。
この二年間、私は無力だった。AIに仕事を奪われ、姉も見つけられず、ただビールを飲んで日々を消費するだけの存在。
もし、これが唯一の手がかりだとしたら。
もし、姉がこの先にいるのだとしたら。
私は深呼吸した。心臓の音が、ドラムのようにうるさい。
――まあ、誰もいないし。冗談半分。いや、九割九分本気だ。
姉に会いたい。またあの笑顔を見たい、そして、まだ持っているならば私のアルミ玉を返してもらいたい。酔いの勢いもあり、「とりあえずやってみるか」という無謀な気がむくむくと湧いてくる。
本をあぐらの上に置き、羞恥心を飲み込む。
両手で印を結ぶ。右手と左手で輪を作り、重ね合わせる。指が氷のように冷たい。
目を閉じる。呼吸。吸って、吐いて。20回。
数を数えていると、だんだん身体の輪郭が溶けていくような浮遊感に包まれた。
なんか怖い……。背筋を這い上がる悪寒に、一度は断念しようとした。けれど、酔いと、それ以上の執着が私を留まらせる。
行きたい世界――。
本には「草原や城」とあったが、私の貧困な想像力ではRPGのありきたりな背景しか出てこない。
緑の平原、石造りの城郭、それとも――。
一瞬、なぜか熱風が吹き抜けるような、乾いた砂の海の光景が脳裏をよぎった。どこかの映画で見た砂漠だろうか。
いや、違う。集中しろ。
私は、強く念じ直した。
姉の笑顔。あの、指名手配犯の横で場違いに笑っていた写真の顔。
姉のいる場所へ。
私は叫んだ。
「
印を結んだ両手を、前方へ突き出す。
瞬間、部屋の空気が爆ぜた。耳の奥でキーンという高い音が鳴り響き、視界の裏側で強烈な光が明滅する。
座面が消えた。浮遊の手前の、落下でもない感覚。ジェットコースターで内臓が浮き上がるあの感覚が、全身を駆け巡る。
PCのファンの音も、夕暮れの部屋の匂いも、すべてが遠ざかっていく。
私は、そこで意識を手放した。
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