給湯室にて
吐き出す息が白く、視界を塞いだ。
「はぁ……」
俺は上着の懐に片手を忍ばせて、ほぼ駆け足で灯りの漏れる部屋へ向かった。
「おつかれ。何?コーヒー?」
給湯室に入るや否や、流れるように声が聞こえて少し面食らった。
「え?……あぁ、うん、そうだね」
俺が答えるよりも早く彼女はやかんに水を入れようとしていた。その間に俺は戸棚から薄汚れたマグカップを取り出し、インスタントコーヒーの粉末を入れようとしたのだが、
「あれ?コーヒーってここじゃなかったっけ?」
「違う。流しの下の……」
俺は言いながら屈む彼女の後ろ姿に話しかけた。
「お前、まだ残ってたんだな」
「まあねえ……。あった、あった」
「もう三時だぞ」
「だって私がいなくなったら、皆さみしくて仕事が手につかなくなっちゃうでしょ」
「……」
俺はカップをテーブルに置くとストーブの方へと近づいた。
「まだ使っているんだ、そのカップ」
「……うん」
ストーブのつまみを回して強に合わせる。
「ちゃんと洗ってる?すっごい茶渋ついてんだけど」
「洗ってるよ」
「私のやつの方がきれいなんじゃないの?」
「そりゃそうだろ。使ってないんだからな」
「ほとんど雨ざらしなのに……」
「……」
彼女はインスタントコーヒーの瓶をカップの口にあてがい、慣れた手つきで適量を落とした。
「ほら、ここの模様のとことかさ……」
「お前、お湯は?」
「あっ、ごめん、忘れてた」
コンロに駆け寄る彼女を尻目に俺は椅子に腰かけた。テーブルの上には色褪せたマグカップの他に埃の被った灰皿しかなかった。
「沸くの、遅いな」
「冬場は水が冷たいからねぇ」
「関係あるのか、それ」
「さあ」
彼女は後ろに手を組んで、足を曲げたり伸ばしたり手持ち無沙汰そうにしている。そして、不意に口を開いた。
「最近さ、どうなの?」
「ふっ……、なんだそれ」
「えっ、なにそれって、別に……」
「変わらないよ、お前がいた時と」
「ホントにぃ?」
「まさかそんな事聞くためだけにわざわざ来たのか?」
「そんなことって……。別にいつ来ようが私の勝手でしょ」
やかんの口から甲高い音と共に湯気が吹き出し始めた。
「そうか……」
蓋がカタカタと振動し始める。
「お前は居なくなる時もそうだったもんな」
ガチャ。
火が止められた。
「ゴメンて」
やかんからカップへ、ゆっくりとお湯が注がれていく。注ぎながらうつむく彼女の顔は、前髪で見えなかった。その姿勢がわざとらしく見えた。
「はいどうぞ」
「ありがとう。…………これ薄くない?」
「そう?疲れてるんじゃない?」
「お前は飲まないのか?」
「私はいいよ」
言いながら彼女はスツールをテーブルの傍に手繰り寄せ、俺の向かいではなく角を挟んだ隣りの辺に座った。
「だってお気に入りのカップもないし」
「来るって分かってたなら持ってきたんだけどな」
「いや、伝えるって、どうやんのよ」
「確かに」
あれから彼女が俺を訪ねてきたのはこれが初めてだった。そしてその時が来たら、おそらく最初で最後のことになるだろうという気はしていた。
「それに、事前に伝えてたら意味ないでしょ」
「なんで?」
コーヒーに口をつけながら彼女の顔を覗いてみた。相変わらず俯き加減でよく見えない。
「…………あのさ」
でも何となく、口元は笑っているように見えた。
「なに?」
こちらの質問にも答えないで、先程から何だか様子が変な気がする。
俺は少し長めに目をつぶって、過去の記憶を思い返した。こういう時は大抵、彼女なりの照れ隠しだった。
「どうしたの?」
そして、俺がこうやって優しく促すと、「あの約束って、憶えてるかなぁって思って」というふうに、いかにも決まりが悪そうに返答したのだった。
「ふふっ……、あのって、どれだよ」
「んんー……、いじわる」
「ははっ、……忘れるわけないだろ」
「ホントにぃ?」
本当に、忘れる訳がなかった。
「じゃあ言ってみてよ、あのときの」
「いいよ。あの時のお前の顔まで再現できる」
「あっ、ああー、やっぱなし。やんなくていい」
懐かしいやり取りだった。まるで本当に戻ったかのような、そう、あの時に戻ったかのような感覚になった。
「コーヒーはいいけどさ、これ」
そう言って彼女は口元に指をやってみせた。
「ひさしぶりに。いいでしょ?」
「はあ……」
俺は内ポケットに手を突っ込むと、渋々煙草を取り出した。
「やったー」
手早くそれを一本取ると口に咥えて「ねえつけてよ」と言った。
「はいはい」
仕方ないので火をつけてやって、うまそうに煙草を吸う彼女の姿を見やった。昔、ライターを忘れてコンロで火をつけようとし、前髪を燃やしたことがあるやつだ。
「あー、やっぱいいわ。でもなんかこれ味変わった?」
「当たり前だろ。何年経ったと思ってるんだ」
俺はそこまでではないが、気持ちは分からないこともない。
「久しぶり、だもんな」
「え?」
「なんでもない」
俺は立上り、机の上にあった灰皿を手に取った。
「あっ」
軽くほこりを払って机に戻そうとして、やめた。
「ふふっ。そんなに私に帰って欲しくないんだ」
「そうだよ」
その通りだった。
「だめだよ、もうすぐ朝になっちゃうし」
「じゃあなんで……」
「……」
「じゃあなんで来たんだよ。わざわざ」
「……」
「ごめん」
灰皿を机に置きなおして、流し台に向かって吐き捨てるように言った。
「ちゃんと約束守ったのに怒られるなんて、私初めてかも。その逆はたくさんあったけど。あははっ」
俺は振り向けなかった。
「でも…………、でも俺は」
「大丈夫だよ」
「えっ…………」
煙の甘さが俺を包んだ。
「大丈夫、大丈夫。君ならできるってー。そんなことよりさ、君も吸おうよ、ほら」
箱から一本取り出すのに随分と手こずった。上手く、火がつかない。
「はい」
後ろから差し出された火に近づこうとして、震える唇から煙草を流しに落とした。
「あー、もったいない」
後ろで彼女が席についた気配がした。でも、まだ振り向く勇気が湧かない。
「……わかった、じゃあ、こうしよう」
俺は黙って聞いた。
「また来るよ、私」
「え……」
「今度はいつになるか分かんないけどさ。また来るから絶対に。また会いに来るから」
「うん……」
「それまでに好みのやつ仕入れといてよー」
「……うん」
「あと私のマグカップも、用意しといてね」
「わかった」
「もちろん洗って」
「……わかってるって」
「うん、よし」
「最後に一つだけ……」
振り向いたところに、もう彼女はいなかった。
「…………」
流しの上の小窓から、小さな朝日が覗いている。
灰皿に残されたまだ長い煙草の残り香が、その陽だまりにいつまでも煙っていた。
幻談録 樫亘 @tukinoihakasa
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