二十日宵闇
知り合いの家へ出向いた帰り道、私は学校へ寄った。家を出る時、送っていこうかと言われたが断った。少ししつこかったのは、もう日が沈みかけていたからだろう。
出て暫くして、土手の上へ登って歩いた。下に流れる川に家々の灯りがきらきらと反射しているのを見ると、河原の傍を野分がさらっていくのが分かった。私はそのまま足元を確認するように歩き続けた。地面を踏みしめる度に、ぬかるんだ土に体が沈む。土手から落ちぬように、自然と歩幅が狭くなるのを体感した。
スカートのポケットに片手を突っ込んだままつかつかと進んでいく。そう云えば、今日は月がない。私が目的の場所へ着く頃にはもう完全に日が暮れていたが、あの土手を照らしていたのは何の光だったのか今更不思議に思った。
門の前に立つと鉄の小さなかんぬきを外した。申し訳程度の街灯の光でも分かる程に錆び切っている門だった。光源に群がる羽虫の影がちらちらと鬱陶しい。ジジジ…………。その羽音を聞いていると妙に懐かしい気分にさせられる。
昔、私がまだ幼かった頃に、良くこの音を聴いていた。夜、自販機の前に行くと必ず聴いた音だ。実家が駄菓子屋をやっていたので私の家の前には自販機があった。私はそれがあまり気に入っていなかった。ゴトン、と誰かが飲み物を買う音を聞く度に、体の節々の痛みが疼き返して仕方がなかったのだ。
外したかんぬきを地面に放り、玄関へ向かった。金網の刷り込まれた硝子戸だった。手をかけるとそれは簡単に開いた。鍵は掛かっていない。丁度良かった。用事を済ますのに、無駄な手間は取りたくない。
教室へ向かう途中、リノリウムの廊下に
街灯の光が反射していた。酷く目障りだっ
た。
片手でポケットの中をまさぐりながら、床に映
り込む灯りの玉を足で踏み付けて進んだ。ドス、
ドス、ドス…………。踏み付ける度、脚に力がこ
もった。その灯を見ていると、両腕ぽつぽつと残
る火傷痕が熱く火照り返すような心持ちになる
のだ。
ポケットの中の手のひらに、じっとりとしたものが滲んでくる。もはや私は廊下を歩いているのか、廊下の床で地団駄を踏み続けているのか分からなくなっていた。そして私は自分の爪先が突き当りの壁にぶつかるまで、目的の所へ着いたことに気がつかなかった。
目的の部屋は、もうすぐ隣だった。
ここだ。
「…………」
引き戸が開いている。
「あっ……」
そこには先客がいた。
「あ、どうも。……こんばんは」
制服を着ている。生徒?こんな時間に?
「誰ですか?こんな時間に」
私は問うた。
「ああ、いや、すみません。もう用事は終わったとこなんで……」
「用事……。この夜の学校に、一人で?」
「あはは、その、いろいろ……」
用事が終わったという割には窓際で落ち着いてしまっているようで、どうもこれから帰る風ではない。
次第によっては、私と同じ事情かもしれない。だとすれば、なんと間の悪い。
「またか……」
「え?」
「なんでもない」
私は彼の隣りに椅子を手繰り寄せて腰かけた。鉄と木で出来た冷たくて硬い椅子だ。
「でも、あなたの方も随分遅かったんですね」
「……」
「今日は誰も来ないかなあと、勝手に思っていたんですが」
「……」
「あれ?どうしたんですか?」
「少し静かにしてくれ」
「ああ、ごめんなさい。何だかうれしくなってしまって、つい」
スカートのポケットに突っ込んだ手をせわしなくもぞもぞと動かして、私は必死に気分を紛らわせた。
矢継ぎ早に繰り出される言葉を飲み込むように咀嚼し、頭から追い出す。
この作業をしていると頭が痛くなる。思い返す気がするのだ。言葉の音が鼓膜を劈き、脳を突き刺すあの感覚が。
その時、ふとポケットに入れた方の手のひらに違和感が走った。汗でぬめった手の中に、何か、しこりのようなものがある。
「今日はどこから来られたんですか?」
「知り合いの家だよ」
私はぶっきらぼうに答えた。
「はあ、知り合いですか……。どんなお知り合いで?」
「ちょっとね……」
私はポケットから手を出さずにその異物感を手の上で転がした。相変わらずじっとりと、ぬめっていて、余り心地が良いものではない。
汗……、ではない。なんだ、これは。
「知り合いに、ちょっと、用事があってね……」
「そうなんですか。奇遇ですね。実は私も用事がありましてね」
そう言うと彼は学ランのポケットに手を突っ込み何かを取り出そうとした。
「待って」
「……え?」
思わず制した。
手のひらの、ぬめりが増した気がした。汗ではない何かが、私の脂汗に混じって。
「今日、ここに」
「はい?」
私はゆっくりと口を開いた。
「今日、ここに来るまでに、何か見たか?」
私は彼のポケットを凝視した。
「何かって……、なんです?」
ポケットから手を出すのは、私の方が早くなければならなかった。
「私は何も見ていないんだ。月明かりもなく、とても暗い夜道だったからね」
「……」
「君の方はどうだったかのかな、と思って」
ポケットに入れた手に力がこもった。
「うーん、それは、まあ……」
「……」
「今日はあんまりに綺麗な月だったんで、それ以外憶えてないですかね」
その時だった。左手に絡む、ぬめぬめとしたそれが、何だか生暖かく感じられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます