エスケープ・シンキング
佐渡 寛臣
第1話
紺と朱が交わって、空が影を落とす時間。薄暮の時であった。スマートフォンから放たれた光に薄っすら顔を照らされた少年がため息を零す。日が沈むのが随分と早くなり、若干の面倒くささを抱えながら、アルバイトへの道のりを歩いていた。
佐江橋は、自宅の最寄り駅を降りて、アルバイト先のコンビニエンスストアを目指していた。踏切の警報音を聞きながら、友人相手のテキストチャットアプリのメッセージを返信して、踏切前で立ち止まる。明滅する赤のランプ。表示される矢印、スマホの画面を確認して、再び深くため息をついた。
走るまでもない。時間には余裕がある。
チャットの内容は、明日のマラソン大会のことだった。友人は陸上部なので、一緒に走る気はないらしく、明日を孤独なランナーとして走らなければならないかと思うと気が滅入る。
チャットアプリには既読が付かない。仕方なく、スマホをポケットに仕舞い込んで、佐江橋はぼんやりと辺りを眺めた。
人通りの少ない踏切である。車もなく、隣には自転車を押しながら、あくびを噛むパーマ髪のおばさん。いつも通りの光景。踏切の向こう側に目をやると、フードパーカーの少年が一人、スマホの画面を眺めているのが見えた。
歳の頃は同じくらいだろうか。黒のパーカーに黒縁眼鏡。表情は無く、ぼぅっと画面を眺めていた。どうせ、アプリゲームでもやってるんだろうな、と佐江橋は思った。
踏切が上がる。足を踏み出すと向かい側の彼も同じように歩き始める。背は低い、佐江橋はすれ違い様にちらりの顔に見遣った。
パーカーの隙間から白い肌が見えた。長い艶やかな髪は細く、ふとそれは女性のようにも見えた。なぜかと思った瞬間、甘い、女物の香水の匂いが鼻孔を擽った。
――あぁ、男かと思ってた。佐江橋は少し申し訳ないような気持ちを抱えてアルバイト先へと向かった。
「――いらっしゃいませ」
退勤直前の時間に、彼女はいつもやってくる。
コンビニのレジカウンター内で、佐江橋はいつものようにやる気のない声を出して、常連客から買い物かごを受け取っていた。スキャナーで商品を一つずつ通して、彼女の顔をちらりと見上げる。
濃い、アッシュブラウンの髪をかき上げ、いつもより少し派手な化粧をした女性はスマートフォンを触っている。
「支払い、電子マネーで」
「ありがとうございました」
話すことはいつもこれだけ。胸元の空いたオフショルダーのワンピースをちらりと見る。作られた谷間が妙に色っぽくて、目のやり場に困りながら、ちらちらと見てしまう。
佐江橋はレジ袋を手渡し、お辞儀をする。女性は、儀礼的に、機械的にだが、ありがとうと答えて袋を受け取り、つかつかと店を出ていく。
赤のハイヒールは攻撃的であり、印象に残る強さのようなものを放っていた。
「美人だよなぁ。大学生くらいかな」
佐江橋は一緒に仕事をする、同僚の三国に話しかけた。茶髪の髪を後ろに結んだ、同年代の彼女は眼を細め、少しにやついて佐江橋に応えた。
「――佐江橋くん。ああいうの、タイプ? やめときなよ。めっちゃ遊んでる感じするし」
「客と店員だから接点ないって。――私生活は知んないけど、美人は眼の保養になるってだけ」
「あーたに見られるために着飾ってんじゃないでしょうに」
三国の言い分も確かにそうだと思い、佐江橋は私語を慎み、作業へ戻り、ぼんやりと考える。
――タイプ、というのだろうか。今日の彼女は三国のいう通り着飾っているように思えた。
夜の十時、デート帰りだろうか、はたまた合コンだろうか。どちらにも自分には縁のないイベントに苦笑いを浮かべる。
それにしたって、いい女というものにはもちろん惹かれるものはある。踏切ですれ違った、綺麗な肌の女だってそうだ。
彼女だって、着飾れば魅力的になるだろうし、かくいう隣の三国だってそれは同じだ。
自分の好きなタイプ。考えてみてもわからず、佐江橋はふぅむと考え込んだ。
そうこうしているうちに、交代勤務のアルバイトがやってきて、佐江橋と三国はアルバイトから上がった。
「――明日、マラソン大会なんだよなぁ」
「あーあ。ご愁傷様。佐江橋くんは長距離苦手?」
三国は髪をほどいて、仕事中に飲んでいた飲料を口にする。佐江橋も着替えを終えてスマホの画面を見る。友人からのメッセージを返信しながら、口を開く。
「スポーツ全般苦手」
「――ひょろがりだもんねぇ」
三国の言葉に、佐江橋は笑う。三国はいつもこうずばずばと言ってのける。
スレンダーな身体に、長い手足、身長も男子の佐江橋とほとんど変わらない三国は、顔立ちも整った美人である。薄化粧に淡いチークが健康的に思える。
「んじゃ、私は帰るね。また」
「おう、またな」
短い挨拶。交代勤務のスタッフと挨拶と軽い雑談を交わして店舗を後にすると、颯爽と三国はスポーツバイクにまたがって去っていった。
それを見送って、佐江橋は帰路へついた。
校庭の周りを二周した辺りで、佐江橋はペースを落とした。今日のために練習をしているはずもなく、体力のないグループに混ざって、たったと足を上げて走っている。
運動部所属のクラスメイトが軽く佐江橋を追い抜いていく。しかし悔しくも思わずに、ぼうっと昨日の考え事の続きをする。
クラスメイトの女子たちとはほとんど会話をしない。接点がないからだ。彼女らは彼女らでコミュニティを形成し、男子は男子のコミュニティを形成する。佐江橋は、そのコミュニティの枠を超えることなく、そこに紛れて生活している。
三国はどうだ。アルバイトというコミュニティの中で、同じ時間で働く同僚だ。そういう意味では特別な相手だ。しかし彼女は佐江橋を特別扱いしていない。誰にだってああいう態度だし、美人だが構えることはない。
好きなタイプ。誰でもいいというわけではないが、誰がいいかなんてのはわからない。
そんなことをぼんやり考えていると、運動音痴グループから少し遅れていることに気が付く。前には背の低い別クラスの男子が走っていた。このままのペースで行くと、彼と二人になってしまう。びりはさすがに恥ずかしいので、彼には申し訳ないが、追い抜かせてもらおう、そう思って、速度を上げたときだった。
ふわりと、香水の香りが鼻孔を擽った。
女物の、香水の匂い。踏切の光景が、脳裏を過る。見上げると、彼の髪が柔らかに揺れている。手入れの行き届いたさらさらの髪。
思わず彼の隣に歩調を合わす。白い肌は汗を浮かべ、黒縁眼鏡の向こうの瞳は真剣に前を向いていた。
頭が混乱した。視覚情報と嗅覚情報に齟齬が生じたような、脳が彼を、彼女をどちらと捉えるのか混乱する。
いや、女子は別ルートだ。ここにいるのは男子だけだ。
――タイプ?
心臓がずきりと痛むような感覚。何を考えているんだと、佐江橋は、急ぎ足をあげようとする。
だけど、どうしてか、走る速度をあげれない。接点のない、知らないやつが隣を走るなんて、お互い、嫌だろうにと思いながら。
「――きついね」
彼が言った。佐江橋は驚いて声も出せない。
「運動苦手でさ……。こういうの、いつもびりっけつなんだ」
「そ、そうか……」
息切れの振りをして、短く答える。
「――先に行っていいよ。僕はびりは慣れてるから」
そう言って微笑む。眼鏡の向こうの美しい曲線を描く、二重の瞼。
「……俺も、このペースがちょうど……いいから」
嘘をついて、二人並んで走る。会話はなく、二人の足音だけが重なって、不思議な感覚が身体に残る。
ゴールして、校庭で水を飲みながら横目に、彼を探す。すると水道で顔を洗いながら、真っ白なタオルで汗を拭いて、一人で校舎の階段に腰かけ、長めの髪をヘアゴムで結んでいる姿を見つけた。
佐江橋は息を整え、そして辺りに自分の友人がいないことを確認してから、校舎の階段へと向かう。心臓がどきどきと脈打つのが分かった。
「――よ、よぉ。さっきはどうも」
彼は顔を上げて、先ほどと同じ笑みを浮かべた。
「こちらこそ、さっきはどうも……えっと……」
「二組の佐江橋康太。あんたは?」
「僕は、小此木優。――律儀なんだね。わざわざ声をかけるなんて」
くすくすと、上品に小此木は笑った。佐江橋は鼻の頭を掻きながら言い訳を探す。
「――ほら、戦友は大切にしろって、じいちゃんに言われてるから」
「へぇ。じいちゃんっこか。いいねそういうの」
小此木が目を細めて笑う。佐江橋は小此木の隣に座って、水を一口飲んだ。それを見て小此木も水を飲む。
「戦友ってことは、友だちになりにきたのかい? それとも僕を面白がって? 罰ゲームとかだったら、僕はやだよ」
まだ声変わりしきっていないような、高音。男子にしては高く、女子にしては少し低い。そんな独特の声。
「罰ゲームって、そんなんじゃねぇって」
佐江橋の低い声に、小此木はふぅんと佐江橋の顔を覗き込む。ふわりと、あの香水の匂いが漂う。
「……香水、してんの?」
「うん? あぁ、匂いまだ残ってるか。汗をかいたからかな。親友の影響でね」
そう言って、小此木は立ち上がり、大きく伸びをする。小さな身体を精一杯に広げて、息を吐きだした。
快晴の空の下、小此木の姿を見上げて佐江橋は息を飲む。
細い肢体に垂れる汗。
佐江橋は頭を振って思考を外へ追いやる。
考えてはいけない。きっとそれは考えてはいけないことだ。
佐江橋は思考を閉じて立ち上がり、階段を降りて振り返った。
「じゃあ、またな」
「あぁ、またね。康太」
名前で呼ばれどきりとする。そして佐江橋は振り返り、けして顔は見ないようにして、手を挙げた。
「またな、優」
言い残して、佐江橋は走った。心臓が、思考がおかしくなってしまったような感覚を散らせたくて。
佐江橋は、ただ走り続けた。
エスケープ・シンキング 佐渡 寛臣 @wanco168
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