人魚の涙 16
「で、何をしているんだ?」
「筆で文字を書いています」
カヨは胸を張った。床に置いた巨大な板に、何やら熱心に筆を走らせている。
あれから一ヶ月。
人魚でもあり吸血鬼でもあり多少は人間でもあるなどと言われても、カヨにはぴんとこない。
彼女の身に起きた変化といえば、少し日光が苦手になったこと、よく喉が乾くようになったこと、精々そのぐらいだ。ひょっとしたら泳ぎが得意になったり苦手になったりしているかもしれないが、まだそれは試していなかった。
体力が回復したカヨは、真っ先に自分の家を引き払った。
「父さんは死にました。もうこの家で待っていても、誰も帰ってきませんから」
家事手伝いの仕事も無理を言って辞めさせてもらっていた。
やりたい事が、できたからだ。
「……で、ここに住むつもりか」
「はい!」
既に家財道具一式は運び込んであった。
「俺の許しも得ずに?」
「はい!!」
カヨが全力で掃除と修繕をおこなった家は、元が幽霊屋敷とは思えぬほど綺麗になっている。
「で、そのふざけたものは何だ」
カヨは書き上げた文字を眺め、満足して筆を置いた。
「看板です!」
元気よく返事をして、作ったばかりの看板を大きく掲げる。
『夕闇相談所 〜不思議な出来事、怪しい事件、何でもご相談ください〜』
大きな筆文字で書かれたそれを見て、竜胆は思い切り眉を顰めた。
「説明しろ」
「あの、私……水津さんと話したときに思ったんです。私たちきっと、眩しい夜を過ごすうちに、忘れちゃいけないものを忘れてしまったんだって」
夜の闇の中に生きる、人ならざるものたち。人に忘れ去られたものたち。
「私は信じていなかったけど、この町には鬼さんもサトリさんも雪女さんもいましたよね。あっ、人魚さんも。他にもいるでしょう? きっと皆さん、人に信じられないと生きていけないほどやわじゃないんです。でも、それだと寂しいじゃないですか」
竜胆はしかめっ面のまま聞いている。
「……それから?」
「だから、この町に暮らす人々と、人じゃない方々が、いつか本当の意味でお互いのことを知れたらいいなって思うんです。今みたいにひっそりと溶け込んでるだけじゃなくて、もっともっと」
カヨは手を目一杯広げた。
「だからまずここから始めます! 人じゃないもの、たとえば妖だとか神様だとか、そういったものに関わる出来事はここに相談すれば解決するよ、っていう場所にしたいんです」
太陽は天高く昇っている。時が経てば沈み始め、やがて山向こうに姿を消すだろう。
その残照は夕暮れとなり、夜の闇の始まりを告げる。
「夕闇は境目の時間です。夜でもあるし、昼でもあります。昼と夜を繋ぐ、この看板が私の夢の始まりなんです」
竜胆はしばらく黙っていたが、やがて、やれやれと首を振った。
「……勝手にしろ」
「はい!」
カヨは嬉しそうに頷いた。
「せっかく長めの寿命をもらったことですし、自分で納得がいく生き方をしたいんです。銀二さんも小雪さんも水津さんも、協力するよって言ってくれました。竜胆さんも協力してくれますよね? 私一人じゃ、まだほとんど何もできませんから!」
竜胆は本日何度目かの溜息を吐いた。
カヨは見事に前向きになってしまった。竜胆がいくら冷たく対応しようとも一切気にせず、ただ「竜胆さんが本当は優しいって知ってますから」と笑う。
こんなことならあの依頼を受けるべきではなかったと竜胆は後悔したが、もう後の祭りである。
同時刻、そこから一里ほど離れた蕎麦屋で、銀二は声を殺して笑った。
「ざまあみろ、竜胆め」
逆立った白髪がぱりりと音を立てた。
「何かあったかの」
隣で蕎麦を煮ている水津が首を傾げる。
「竜胆の野郎が嬢ちゃんの扱いに困ってやがるんだ」
銀二と水津は顔を見合わせ、それから吹き出した。
「どうしましたか」
その笑い声を聞きつけ、小雪がひょこっと厨房を覗く。
「ああ、竜胆がな――」
カヨが竜胆に看板を差し出した。カヨ渾身の筆である。
踊るような筆使いは、まるで未来への希望に胸を膨らますカヨそのもののようだった。
「ほら竜胆さん、私の背じゃ届かないんです。この看板、玄関の上に掛けてください」
竜胆は肩を竦めて看板を受け取り、掲げて紐で止めた。
遠くからでもよく見える『夕闇相談所』の看板がこの港町の象徴となるのは、まだ、もう少し先のこと。
夕闇鬼譚 紫水街(旧:水尾) @elbaite
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