人魚の涙 15
目を覚ますと、なんだか身体が重いような軽いような、不思議な気分だった。
自分の中に別の自分がいるような気がする。カヨは目を閉じたままもぞもぞと動いた。
枕元では聞き覚えのある声どうしがひそひそと何事かを話し合っている。
「……それじゃあ、今の嬢ちゃんは」
「ああ。血を吸われて吸血鬼になっていたから、あれの死に引っ張られて灰になりかけていたんだろう」
「でも、あいつに血を吸われるとあの死体たちみたいになるんじゃないのか?」
「そこまでは知らん。何か条件があるんだろう」
「まあいい。で、そこに人魚の涙が注がれて人魚になりかけたんだよな? この場合、今の嬢ちゃんはどっちになるんだ?」
「知らん」
「無責任なやつめ。ま、生きてるからいいか」
カヨは目を開けた。
「……よくないですよ」
「うわっ。無事か、嬢ちゃん? 気分はどうだ?」
銀二が仰け反った。
どうやらカヨはあの蕎麦屋の畳席に寝かされているらしかった。
小雪が奥からぱたぱたと走ってきて、カヨに水差しを手渡してくれた。
「お水ですよ」
「ありがとうございます……なんだか変な気分です」
椀に注いだ水を一息で飲み干して、カヨは息を吐いた。
「自分が二人いるような」
また水を注ぎ、飲み干す。なんだか喉が乾く。
「そりゃなあ」
銀二が大仰に頷く。
「あんだけいろいろあったんだ。平然としてるほうがおかしいぜ」
「はい……」
カヨは自分の首筋を触ってみた。吸血鬼に噛まれた痕が、心なしかうっすら盛り上がっているような気がする。
「私……どうなってるんですか?」
竜胆が面白そうに答えた。
「面白いことになっている。吸血鬼と人魚の合いの仔とでも言うべきか? 長く生きてきたがこんな状態は見たことがない。自分が二人というのは言い得て妙だな」
「言い方ってもんがあるだろうがよ!」
銀二が怒鳴った。
「じゃあ私は……これから、どうなるんですか?」
「どうもなりゃしねえよ」
銀二が不安げなカヨの隣に腰掛け、優しく語りかける。
「いいか。俺はサトリっちゅう妖怪だが、こうやって蕎麦屋の店主なんかをやってる。小雪は雪女の末裔だが、うちの立派な看板娘だ。ここにいる竜胆なんか、かつては名の知れた鬼として大江山で源頼光に――」
「俺のことはいい」
ぶっきらぼうに手を振ると、竜胆はカヨの顔を覗き込んだ。
「よく聞け。お前の与り知らぬところで、人と人ならざるものたちは密かに交わっている。お前がどちらに転ぼうと変わりはしない。お前にできるのは、今生きている自分を噛み締めることだけだ。死んだ者のぶんまでな」
カヨはこくこくと頷いた。その目から涙が溢れ出した。
脳裏に浮かんだ父親の顔は、首を絞めてきたときのあの無表情ではなく、遠い海の話を聞かせてくれたときの笑顔だった。カヨの記憶に焼き付いた、優しい優しい顔だった。
カヨは目を擦った。どうやら涙というものはどれだけ流しても涸れるということを知らないらしい。
次から次へと溢れ出てくる涙を、小雪がそっと手ぬぐいで拭ってくれた。
「よく泣く奴だの」
声がしたほうに顔を傾けると、厨房から割烹着の女が顔を覗かせて微笑んでいた。
顔に見覚えはなかったが、声にはなんだか覚えがあるような気がした。
声というより話し方だろうか。
「判らぬか? この姿こそ初めて見せるが、暗闇の中であれほど語り合った仲ではないか」
「あーっ! 人魚さん!」
人魚は可笑しそうに笑った。
「人魚さんではない。
「わかりました、水津さん」
名前を教えてもらったカヨは、嬉しくなってにこにこした。
「吸血鬼に操られてたのはもう大丈夫ですか?」
「血を吸うのと血を分け与えるのは幾分か違うらしいの。あるいは人間と妖の違いか? 何にせよ儂の場合は、奴の死と同時に支配から解放された。ついでとはいえ渇きの封印からも解放されて気分が良いぞ」
水津は幸せそうに笑った。
「そういえばあのとき、水津さんが助けてくれたんですか?」
あのとき、とはカヨが灰になりかけていたときのことだろう。
水津が頷く。
「うむ。肉と違って一度きりしか出せぬものではあるが、人魚の涙は人間を冥府より引き戻してこちら側の存在とする。……だがまあ、まだ死んでいなかったおぬしにはいささか過剰だったかもしれぬな。ほんの百年か千年は寿命が延びてしまうかもしれぬが、まあ短いよりは良かろう。しばらくは儂も陸で暮らす。何も心配せず、今は休め」
「はい、ありがとうございます」
寿命が長いと、百年や千年は「ほんの」になるのか。カヨは可笑しく思いながら横になって目を閉じた。
あまりにもいろいろなことがありすぎて、どこから思い返そうか迷っているうちに、また眠りに落ちた。
夢も見ない、深い眠りだった。
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