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  • 第106話への応援コメント

    その通り。
    評価されようが評価されまいが、
    自分の書きたいものを書く、
    まさにカクヨムで実践している最中です。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントありがとうございます。

    SF作家の海野十三の筆名の由来は『運が十さ』だったらしいですし、ラ・ロシュフコーも『運と気質が世を支配する』といっていたはずです。

    実際に、量子力学的に、この世界は、観測者による観測確率でしかうごきません。

    つまり、運が百%なのです。

    そこで、書きたいものを書く、というのが、ラ・ロシュフコーのいう『気質』にあたるのかもしれません。

    愚生ごときが、書きたいものを書け、と申し上げずとも、そもそも、書きたいものでなければ、十枚、百枚といった小説は、書けないはずです。

    ベケットは『書きたいものもないし書きたくもないが書く』というように仰有っていたはずですが、その作品(『事の次第』など)は、書く苦汁にみちています。

    書きたいものがあるだけ幸せですし、書きたいものだけを書けばよいとおもいます。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第98話への応援コメント

    悪文ほど面白いものはないのかも。
    芸術は爆発だってことなのかな。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントありがとうございます。

    本文における『端正なる文章』というのは、おそらく、バルトのいう零度のエクリチュールだとおもいます。

    『異邦人』出版当時、バルトはその『白いエクリチュール』を絶讃しながら、『おそらくこのエクリチュールもまたひとびとに模倣されて白くはいられないであろう』というように書きました。

    実際に、現代文学の九割がたは、カミュを劈頭とする『(すでに汚れた)白いエクリチュール』で書かれているようにおもわれます。

    そこで、少数のすぐれた書き手たちは、零度の(白い)エクリチュールの温度を上げ下げして、あえて悪文を書きました。

    愚生はそれを『百度のエクリチュール』とか『絶対零度のエクリチュール』とかよんでいます。

    時代はバルトと前後するかもしれませんが、百度のエクリチュールとしては、ジョイスの「太陽神の牛」が、絶対零度のエクリチュールとしてはジョイスの弟子であるベケットの『事の次第』があげられます。

    かつて、フローベールが『文体がすべてだ』と仰有りましたが、その言葉がただしければ、文学を復興するためには、百度のエクリチュールや絶対零度のエクリチュール、すなわち、悪文が必要になるかと存じます。

    ここでは説明しきれないので、いつか、まとまった評論として発表できれば、とおもっております。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第95話への応援コメント

    これは、あるあるですね。
    自信作ほど評価されず、
    自信のない作品のほうが評価されたりします。
    不思議ですが面白い現象ですね。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントありがとうございます。

    これは、逆理をとれば、『批判された箇所ほど、自分らしく書けた場所』ということになるかとおもいます。

    村上春樹氏も、森博嗣氏も、『批判されたら、そこをもっと批判されるように鍛える』というように仰有っていました。

    田中慎弥氏は、『編集者に褒められたところばかり伸ばしてゆく新人は、かならずつぶれる』というようなことを仰有っていたと記憶しております。

    むずかしいところですが、愚生も、『賞讃されたらよろこぶ』というよりも、『批判されたらよろこぶ』というくらいのほうが、丁度よいのではないか、と存じます。

    結局、その作品を一番よくわかっているのは、その作品の書き手なのかもしれません。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第75話への応援コメント

    書き手と読者が一体であるように、
    小説家と評論家は一体である。

    本当にそうですね。
    書き手だけでも
    読者だけでも
    成立しませんものね。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    本エピソードは、元来、評論家と小説家の二人三脚が重要だったという認識から執筆したものです。

    たとえば、江藤淳と三島由紀夫、柄谷行人と大江健三郎(あるいは中上健次)、蓮實重彦と村上春樹、というように、過去の文学史は、往々にして、時代を代表する評論家が、時代を代表する小説家を見出す、という二人三脚で成立していました。

    どなたか失念いたしましたが、誰某かが、『現代において、このような二人三脚がなくなったのは、文学史における重大な欠陥である』というように執筆なさっていました。

    豊崎由美氏が舞城王太郎を絶讃しても、現代では『二人三脚』が成立しないのです。

    そういった意味でも、現代において、すぐれた書き手をさがす以前に、すぐれた評論家の立場を盤石たらしめることと、新人評論家を輩出するために、群像や新潮などの雑誌で、評論家専門の新人賞を復活させることが必要だと存じます。

    書き手以前に、読み手を育てるべきだとおもうのです。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第69話への応援コメント

    言い得て妙ですね。
    模倣と独創の間で揺れながら、
    優れた作品は作られていくのでしょうか。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントありがとうございます。

    正直、愚生自身、このエピソードの意味がよくわかりません。

    おそらく、愚生の経験則だったのでしょう。

    あえて申し上げれば、ドーキンスが『利己的な遺伝子』のなかで、『ひとのこころは、外部からの情報遺伝子でしか成立していない』といっていたように、『外部からの情報遺伝子=文豪などの他者の文体が多様なほど、書くときには、模倣のようにおもえて、実際は独創になっている』ということかもしれません。

    そうなると、このエピソードは、文体のみならず、ドラマツルギーや哲学的主題にも応用できるので、『文体』にこだわる必要はないかもしれません。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第57話への応援コメント

    純文学の基本は、《物語がないこと》であり、
    大衆文学の基本は、《物語しかないこと》である。

    これは名言ですね。なるほど。
    めちゃくちゃ腑に落ちました。
    純文学は孤独。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントありがとうございます。

    純文学と大衆文学のちがいについては、『物語』性についてのみならず(ご存知かもしれませんが、純文学の物語性論争は、すでに芥川龍之介先生と谷崎潤一郎先生がなさっております)、山田詠美氏だったか、平野啓一郎氏だったか失念いたしましたが、『次のページを読みたくなるのが大衆文学で、前のページを読み返したくなるのが純文学である』という名言もあったと記憶しております。

    かつて、フローベールが『文体がすべてだ』といったはずですが、愚生としては、純文学を極端に定義すると、『文体があるかどうか』だともおもっております。

    ただ、そこまで狭義にこだわると、純文学といえる作品が、あまりにもすくなくなってしまうので、こまってしまいます。

    たとえば、極端なはなしになると、クロード・シモンやガオ・シンジェンなどのヌーヴォー・ロマンしか純文学とみとめられないことになりかねません。

    そのあたりは、矢張りむずかしいです。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第55話への応援コメント

    詩歌や短編小説を中心に作っている者には、
    耳が痛い言葉です。
    何卒、お手柔らかに。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントありがとうございます。

    これは、愚生の説明不足でした。

    すみません。

    ここでいう『文章』とは、センテンス、つまり、『一文』のことでして、『一文はみじかいほどよい』という最近の風潮に警鐘をならしたかったのです。

    個人的には、クロード・シモンの作品群や、蓮實重彦氏の『表層批評宣言』などの長文に耽溺してきたので、このように表現いたしました。

    愚生としては、ガルシア=マルケスの長編よりも、ボルヘスの短編のほうが価値があるとおもっていますので、けっして、詩歌(ボルヘスはすぐれた詩人でもありましたし)や短編小説を揶揄したかったわけではございません。

    そこについては、ボルヘスが『伝奇集』の冒頭にて、『数分間で語り尽くせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である』と書いているとおりです。

    滝口アルファさんに勘違いされるような書き方をしてしまい、もうしわけございませんでした。

    滝口アルファさんの御意見は、たいへん貴重なものとなりました。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第45話への応援コメント

    精神の安定は重要ですね。
    でも、
    ときには心が乱れているときのほうが、
    爆発力のある作品が書けるかもしれませんね。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントありがとうございます。

    筒井康隆氏は、『軽い躁状態で執筆している』と仰有っていたはずですが、愚生は心が乱れていると、書けません。

    毎日、決まった時間にパソコンをひらき、一時間から二時間、胸臆を虚無の状態にして、ひたすらキーボードを打ちます。

    だから、傑作が書けないのですかねえ。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第40話への応援コメント

    たしかに。

    1人の人間にも、
    人類全体にも言えることでしょう。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントありがとうございます。

    これはたしか、曩時、雑誌《群像》の鼎談で、某芥川賞作家(名前は失念いたしました)が、『文学史ってのは、そこに残らなかった無名の作家たちの流れでもありますよね』というように発言なさり、ほかの話者から無視されていたのを元としております。

    愚生は、くだんの芥川賞作家さんに共感するとともに、かれを無視した作家たちに反撥し、この文章を書きました。

    つまり、文学史というのはそういうものだということです。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第37話への応援コメント

    一流は、歴史に残らない。

    なるほど。
    それくらいの覚悟でないと、
    本当の傑作は作れないのでしょうね。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントありがとうございます。

    愚生の尊敬する作家、丸山健二氏は、『真文学の夜明け』のなかで、『本物の文学(真文学)が応募されたら、かならず一次選考で落とされるから、新人賞に応募する意味はない』というように書かれておりました。

    一流の小説家は、そもそも、構造上、プロになれないので、必然的に、歴史に名前を残せないことになってしまいます。

    然様なことを考えながら書きました。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。


  • 編集済

    第27話への応援コメント

    永遠に残るような作品を作りたいものですが、
    実際は1年残るのさえ難しい。
    永遠に残るような作品を作れたら、
    それは一流どころか、神作品でしょうか。
    まあ、こつこつ作っていくしかありませんね。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントありがとうございます。

    本稿は、知の巨人、立花隆氏が、生前『基本的に、古典というのは、千年以上読まれている作品を指します。もっといえば、ホメロス以前といってもよい』というように仰有っていたのを記憶していて、それを基準に書いたものです。

    トルストイもドストエフスキーも、まだ千年以上読まれているわけではありませんが、ホメロスにせよ紫式部にせよ、今後、一万年読まれるだろうか、という疑問でもあります。

    その先に、永遠に読まれるような作品を書きたい、という愚生のねがいもこめました。

    今後、どのような作品が読みつがれてゆくかわかりませんので、もしかしたら、滝口アルファさんの御作が永遠に読みつがれるかもしれません。

    愚生も、負けないように頑張ります。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第20話への応援コメント

    分かるなあ。
    なんとなく作った作品のほうが評価されてしまう。
    あんまり作品に情熱が籠もっていると、
    読者には重く感じられるのかも。
    何事も、ほどほどに、でしょうかね。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントありがとうございます。

    曩時、愚生の尊敬する丸山健二氏が、随筆で、『出版業界では、ひどい作品のほうが売れるというのは常識になっている』というように書かれていました。

    そこで、愚生は、『売れる小説のほうがひどいのならば、愚生は売れない小説を書いてやろう』というようにおもうようになりました。

    まあ、それでは食べてゆけないので、なんとかしようとはおもうのですが。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第10話への応援コメント

    なるほど。
    一理ありますね。
    逆転の発想。

    作者からの返信

    こんにちは!
    九頭龍一鬼です。

    滝口アルファさん、コメントのみならず、星レビューまでいただいて、まことにありがとうございます。

    本作は、タイトルどおり、『マーフィーの法則』ですので、かなり、皮肉なことが書かれています。

    ゆえに、一旦は、全文削除しようかとも考えたくらいです。

    ですので、どうか、あたたかい目でご鑑賞くだされば幸いです。

    では、今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 第238話への応援コメント

    おれは、これがいちばん好きです。

    作者からの返信

    こんにちは。九頭龍一鬼です。
    コメントありがとうございます。
    本作は、あくまでも、愚生が自分自身のためにつづった雑文集ですので、へげぞぞさまの神経をさかなでするような記述もあったかもしれませんが、好意的に評価してくださって、うれしいです。
    今後とも、よろしくおねがいいたします。