第6節 再会と別れ

「トワちゃん? どこ行っちゃったの?」


 静かな空間に私の声だけが響いた。

 返事はなく、返ってくるのは静寂だけだ。

 どうやら手分けして探索している間にはぐれてしまったらしい。

 近くにいるとは思うのだけど、トワちゃんの姿が見えないだけで途端に不安が広がった。


「いるなら返事して。トワちゃん……」


 声を掛けながら、慎重にトワちゃんの姿を探して回る。

 私の足音以外に音はせず、一歩踏み出すだけでも足が震えた。

 あの曲がり角から肉食動物が襲ってきたらどうしよう……。

 そう考えるだけで、まともに歩くこともできなくなる。


 泣きそうになりながら、必死にトワちゃんに呼びかけた。

 だけど、どこを探してもトワちゃんは見つからない。


「もう、どこ行っちゃったの……」


 壁に手をつきながら慎重に歩いていると、ふと、壁の感触が変わった。

 不思議に思って見ると、赤黒い塗料のようなものが凝り固まって付着している。


 それは血だった。


 誰のものかもわからない血の跡が壁についていた。

 思わず「ひっ」と小さな悲鳴を漏らす。

 誰かがここで襲われ、そして逃げたのだろう。

 壁や床に、血の手形や血痕が点在している。

 明らかに人のものだった。

 じゃあ一体誰が襲われたんだろう?


 自分やトワちゃんでなければ、あとの可能性は限られている。

 だとすればそれはきっと――


 ドクンと、心臓の鼓動が早まるのを感じた。


「お父さん……」


 呟くと同時に、脳裏に最悪の可能性が思い浮かんだ。


 もし、お父さんがこの先に逃げたのだとしたら。

 あるいは傷を負ったまま、身を潜めているとしたら。

 一分一秒の遅れで、死んでしまう状況にいるとしたら。


 最悪の想像は、どれだけ堪えても次から次に浮かび上がってくる。

 いても立ってもいられず、私は駆け出した。


「お父さん!」


 地面や壁に付着した血の跡を追う。

 流れている血の量は決して少なくなかった。

 最初に強烈な一撃を受け、命からがら逃げ出したんだ。


 私が助けなきゃ。


 あんなに嫌いだったはずなのに。

 私はさっきまでの恐怖も忘れ、夢中で走っていた。

 だってお父さんが死んでしまったら、私は一人ぼっちになってしまうから。

 お父さんは、たった一人残った――家族だから。


 走って廊下を抜けると、柱が点在する大部屋にたどり着いた。

 更に奥に道が伸びているのが見える。

 進もうとして、不意に何かが視界の端で動いたことに気がつく。

 それは柱の陰に入っていった。

 何となく気になって、柱を覗き込んでしまう。


 最初に目にしたのは、大きな塊だった。

 巨大な岩かと見紛うほどの何かがそこにいる。

 それは私の足に反応するように、ゆっくりと動いた。

 眼の前のそれが生き物だと気がつくのに、時間は掛からない。


 蛇の尾にヤギの胴体と、ライオンの造形をした頭部を持つ奇妙な生物がそこにいた。

 昔、似たような動物を絵本で見たことがある。


 神話の時代に英雄に討伐された魔物――キマイラだ。


 キマイラが振り向くのとほぼ同時に、柱の陰に身を潜ませた。

 気づかれなかったのは奇跡だったと思う。

 震える呼吸を両手で無理やり押さえつけると、すぐ近くで獣の息遣いが聞こえた。


 どうしよう……。


 今ここに私を助けてくれる人はいない。

 極限の状況が、逆に私の思考を冷静にした。

 パニックになっちゃダメだ。

 ここで取り乱したら、すぐに死んでしまう。

 トワちゃんがいない今、自分の力で逃げなきゃ。


 一歩踏み出すキマイラの足音は重い。

 一瞬見ただけだけれど、相当な大きさだった。

 指先で軽く触れられただけでも、きっと無事でいられない。


 キマイラは私を探しているようだった。

 周囲を確認しながら、ゆっくり遠のいていくのが見える。

 幸いなことに嗅覚はそれほど鋭くないようだった。

 視認されないよう、私は慎重に柱から柱へ位置を変える。


 すると、足元に先程の血痕があった。

 地面を点々と走る血痕は奥の道へと続いている。

 幸いなことに、キマイラはこちらに背を向けていた。

 今であれば気づかれないかもしれない。


 私は意を決すると、いざなわれるように通路へ向かった。


 大部屋を出て再び通路へ。

 床に、血痕が点々と伸びているのが見える。

 その後を追っていくと、やがて出口が見えた。

 小鳥たちの鳴き声が聞こえる。

 外に繋がっているらしい。


 神殿から出ると、そこは広場になっていた。

 水が流れ、緑が生い茂り、周囲は水堀に囲まれている。

 静かで開けた美しい広場だった。


 広場の中心には、視界に収まりきらないほどの巨木が伸びていた。

 私たちが何日もかけて追ってきた、あの木だ。


「きれいな場所……」


 血痕は木の方へと続いている。

 私は慎重に木へ近づき、根本を覗き込んだ。

 そこにあるものを見て、言葉を失う。


 死体があった。

 ヒゲが生え、すっかり痩せこけた男性の死体が。


 足には鋭い牙で深く穿たれた傷が見える。

 これが致命傷になったんだろうな。

 腐敗はしてないから、亡くなってまだ日は浅そうだった。


 変わり果てていたけど、私はすぐにそれがお父さんだと気付いた。

 見間違えるはずがない。

 自分がまともに呼吸できているかもわからないまま、私は遺体に近づいた。

 何か声を掛けてあげたいけれど、何を言えば良いかわからない。


 ふと、お父さんの手に何かが握られているのが目に入った。

 皮の表紙がつけられた手帳だ。

 見覚えがある。


「これ、お父さんの冒険の手帳だ……」


 震える手で手帳を取ると、中を開く。


 手帳には絵が描かれていた。

 色んな土地の風景が、木炭で緻密に描かれている。

 絵の横には土地や大陸の名前が記されていた。

 どうやらこれは、お父さんが今まで巡ってきた場所をスケッチしたものらしい。

 一枚一枚が、丹精込めて描かれているのがわかる。


 お父さんの見てきた世界の景色が、その中にはあった。


 お父さん、こんなに絵が上手かったんだ。

 そんなことも知らないほど、私はお父さんを理解していなかったんだと今更気づかされる。

 沈んだ気持ちでページを捲っていると、最後のページで手が止まった。


「あっ……」


 最後に描かれていたのは、女性が赤ん坊を抱きしめた絵だった。

 お母さんと私だ。


『いつかこの風景を、メリンとアキナに』


 最後のページにはただ一言、そう書かれていた。


 ポタリと水が紙に落ちた。

 私の頬から流れ出た涙だった。


 冒険家だったお父さん。

 今まで、何度もボロボロになって帰ってきた。

 頭や腕に包帯を巻いて、全身に怪我をしてきたこともあった。


 私やお母さんがどれだけ心配しても、お父さんは冒険を止めなかった。

 それはきっと、広大な世界を――美しい景色を、私とお母さんに見せるためだったんだ。

 そしてお母さんは、お父さんのその想いを理解していた。


「私、何もわかってなかったんだ。お父さんが冒険家だった理由も、お父さんの無事を祈っていたお母さんの想いも……」


 お父さんは、箱庭の渡航を成功させた冒険家だった。

 中を探索して、この大木を追って神殿に入って。

 そこでキマイラに襲われたんだろう。

 必死に逃げて、そしてここで力尽きた。


 もうお父さんと言葉を交わすことはできない。

 その事実が、私の胸をギュッと締めつけた。

 心が苦しかった。


「ごめんなさい……お父さん、お母さん……本当にごめんなさい」


 ギュッと手帳を抱きしめる。

 涙が溢れて止まらない。

 だけど、お父さんの死をずっと悼むことはできなかった。

 背後から大きな咆哮が聞こえたから。


 私を追いかけてきたキマイラがそこにいた。


 改めて見ると、規格外の大きさだ。

 あんなものに襲われれば、一瞬で殺されてしまう。


 大きく血走った目で、キマイラは私を見据えていた。

 鋭い眼光に貫かれ、極度の恐怖で身体が強張る。


 逃げなきゃ。

 でも、どこに……?

 考える間もなく、キマイラがこっちに向かって走り始めた。

 距離が見る見る内に縮まり、瞬きをする間もなく、キマイラは私の目の前に立つ。


 キマイラが腕を振りかぶった。

 巨大な爪が振り下ろされる。


 助からない。

 そう思った時。


 突如として、キマイラが大きく仰け反り、苦しげな声を上げた。


 何が起こったんだろう?

 よく見ると、キマイラの額の上に何かがいる。


「アキナー! 無事かー!?」


「トワちゃん!」


 トワちゃんが、 持っていたナイフでキマイラの目を潰していた。


 キマイラは首を振って必死にトワちゃんを振り落とそうとする。

 だけどトワちゃんはバランスを崩すことなく飛び跳ねると、今度は首元にナイフを突き刺した。

 キマイラが苦しみに叫び倒れる。


 キマイラの転倒と同時に、トワちゃんは高く跳躍すると、こともなげに私の前へ着地した。


「トワちゃん、どうやってここが……?」


「テトが見つけてくれたんだー。高い場所から探してくれた! 間に合って良かった!」


 トワちゃんが指さした方を見ると、遥か上空でテトが旋回しているのが見えた。


「そっか……ありがとう、トワちゃん」


「あ、でも安心するのはもうちょっとあとの方が良いかも」


「えっ?」


 トワちゃんが言うやいなや、キマイラが苦しげに立ち上がる。

 目を潰され、喉元から血を吹き出しても、その目はまだ死んでいない。


「ちょっと浅かったな。身体が大きいから厄介だ」


「トワちゃん! く、来る! こっちに来るよ!」


「大丈夫!」


 トワちゃんは鞭のように振り下ろされたキマイラの尻尾を宙返りで軽く回避すると、そのまま尻尾に乗って胴体に向けて駆け出した。

 予想外の行動に、キマイラが逃げようと大きく後ろへ飛び退く。


 しかしトワちゃんは高く跳躍すると、キマイラの頭部目がけてナイフを構えた。

 着地すると同時に、ナイフで獅子の頭部を穿つ。


 急所を突かれたキマイラは、巨大な咆哮を上げて絶命した。

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神の箱庭に棲む少女 @koma-saka

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