わたしを読んで
@wakefield
わたしを読んで
鉛筆は書くことで紙を汚してしまう。
光はフイルムに塗られた銀化合物を感光させ、変色させてしまう。
語られたがために無垢さは失われてしまいます。記録されたものは全て汚いし、すべてのデータはあらかじめ欠損しているし、ひとはほんとうの意味でなにか現実のものごとをことばに移し替えることはできません。語れば、現実は変えられてしまうのです。わたしはそう思います。関わることで汚してしまうことを忘れてはならない。撮ることで記憶が変質したことを忘れてはならない。カメラの背面にも世界が広がっていたし、その
だから、これは現実に起きた出来事ではありません。ここにははじまりも結末もありません。あるのは
これは、昔のきみから送られてきた手紙です。もう誰もが忘れ去ってしまったような、遠い過去の出来事について書かれています。これは小説ではありません。
なにも持たないわたしから、きみへ。わたしに与えられる贈り物は、ただ、ことばだけなのですが。
***
これは小説ではない。これは小説なんてものではない。ここにははじまりも結末もみなの心を豊かにするような
みなが異変に気づき始めたのは国語の授業でのことだった。教科書の指定の範囲を朗唱するよう、教師は彼に命じた。彼は立ち上がり、以下の文章を読み上げた。
「つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六粒泡を吐きました。それはゆれながら水銀のように光って斜めに上の方へのぼって行きました。つうと銀のいろの腹をひるがえして、一
そこで彼はことばを切ることになる。
周囲の児童たちはあまりにあっけにとられていたので、茶化すことさえしなかった。彼はそれまで幾度も皮肉っぽいジョークを口にしてきたが、これはユーモアとして捉えるならばあまりに痴劣で、状況にそぐわぬものに感じられた。彼が読み上げた内容は教科書に書かれていることばとはまるで違っていたのだ。
「つーぶらの……泡が流れてちがっていきます。過信の総面……積もっぽったる日々の泡が。それはゆれながらいく水性マジックみたいなひかりが斜めがかって生まれていきました。つう……ノヴァ。そんなに湘南のミル貝が蠕動しておりますから。「東に行く旅はもイマジナリーライン』『スケール異常のページ』『本の空洞……』『殺されたよ』『地殻の流れる庭の音楽』ターコイズの意味が消えていく所作を埋めていくこころのいちばん遠いところになりました……」
物事をより奇妙にみせかけたのは、彼じしんが、自分がなにを言ったのか理解していないようにみえたことだった。彼はまるきり当惑していていた。女教師はまるでなにも起きなかったかのように次の子に文章のつづきを読み上げるよう指示したが、その様子から困惑がみてとれた。
彼はその日から汚点になる。
彼という書物はそのように読まれ、彼自身、クラスメイトに関わろうとしなくなった。孤独だった。だが、その孤独は彼が自分で望んだのだ。間違って読まれるより、誰にも読まれない方が苦痛が少なかったのだろう。
夏休みがはじまり、終わり、新学期が始まった。彼が自分のことばをコントロールするために舌を噛むことが有効であると気づき、実践をはじめてからすでに永いときが経っていた。彼が怖れたのは彼のはなしことばが暴走して、意に沿わぬときに訳のわからないことを喋ってしまわないかということだった。だが、舌を噛みつづけている限り、彼の舌は沈黙をつづけてくれるはずだ。
彼が顔を上げると、筆談具を持ったAが目の前に居る。Aはなにか喋ろうとしてくぐもった子音を何度か発声したあと、筆談具にこう書いた。
『はじめまして』『転校生のAです』『よろしくお願いします』
ふたりが仲を深めていくのは傍目にもあまりにはやくみえたろう。Aの病気は明確に
Aは彼の奇妙なことば遣いについて尋ねなかった。意に介さなかっただけかもしれないし、彼が正常に話せないことを望んだのかもしれない。ひょっとしてそれは彼女の友人たちが喋れないAを喋らないマスコットとして愛玩し自分たちの会話のためのツールとして扱っていたからかもしれない。
いつしかAは彼とふたりきりのときにだけ、さほど吃音を出さずにことばを発音できるようになっていた。「わたしはわたしを演じとんよ」彼女は云った。「先生の話やと、わたしの
彼女はことばを操る才気に溢れていた。すでに複数の詩や小説を書き終えていて、二十歳になるまでにことばで世界を征服するのだと息巻いていた。彼女のいうには、ある言語学者の仮説によれば、人間は言語を使わずに思考することができないということだった。そこにつけいる隙があるというのだ。人間の知覚しうる世界がことばでできているなら、ことばで壊すこともできるだろう。そう考えたのだ。
「たとえばこうやって、拳を握って、相手の顔を思いっきりぶん殴ったら、頬骨が陥没するかもしれん。ひょっとしたら、もとに戻らんかもしれん。
ほれと同じで、ほんとうの文学は人間の魂を永遠に変形させる。だれも、ほれを読む前のほいつと読んだあとのほいつが同じ人間だとは思わん。顔のかたちが違うけん。
同意なく、不可逆に、根本を変えうる力。地震や、資本主義や、かみさまや、ゴジラといっしょで、暴力や」
彼は書くことも話すこともできない。
彼がまともに喋らなくなって永い時間が経ったから、担任は彼が自閉症児である可能性を彼の母親に相談し始めていた。彼が突然ことばを話さなくなった理由を「思春期特有の心の悩み」だと考えていた母親は動転して、上茶の入った湯飲みのなかへ嘔吐した。
夕方、部屋で寝込んでいた彼をAが訪問する。彼はAの兄が死んだことを知らされる。Aは云う。「無意味な死やった」「無意味な人生やった」「兄の死体は林崎の浜辺に打ち上げられた」「両足が折れとった」「ガードレールの向こうに投げ出されたあと数日は生きとったはずやって」「その間、兄がなにを感じとったんか知っとるひとはだれもおらん」Aは彼の手を取り、曳いて、部屋の外へ、家の外へ、夕景の街のなかへ連れ出していく。
「
「海に行くん」
街路樹はすでに葉を落としていた。西日が彩度の低い冷えた空気を通して彼らの背に、つながれた手に照りつけた。東へ向かって彼らは歩いた。次第に空は暗くなっていった。その距離は彼らのまだ幼い足には長かったが、彼らの不安を解決するにはあまりに短かった。彼女はたくさんのことばを口にし、彼はたくさんのことばを返した。いくつもの街を抜け、田園を通りすぎて、たくさんの橋を渡っていった。山道へ入る前にあったコンビニの棚からあたたかい煎茶を盗み、駐車場で栓を開けた。そのとき、彼女の舌に雪片のひとつが触れた。彼女はその冷たさに目を見開いて、睫毛越しに上を仰いだ。掌を夜空へ返し、差し上っげた。
ひとひら。
もうひとひら。
鳥の羽毛のような、ふわりとした雪が、風に舞い、指と指とのあいだをすり抜け、地上にかすかな痕跡を残して溶ける。突然に、街灯からライムグリーンのひかりが
「ゆ・き」
音節の、最後の響きが唇から溢れるやいなや、彼女は両手で口を覆う。
ことばがまるで偶然に、かみさまを名指してしまった。
彼女はつづける。歩みを再開して、視界に映るものをひとつひとつ指さしていく。
「電柱」
「わたし」
「セブンイレブン」
「おーいお茶」
「ホンダの車」
「架空線」
「道路」
「山」
「街の灯り」
「ガードレール」
「木」
「枯れ葉」
「病院」
「空き缶」
「草むら」
「夜」
「白い息」
「
「
「水飲み場」
「レンガ」
「松の木」
「白砂」
「
「空」
「世界」
「水平線」
「ことば」
彼女は波打ち際に立って、水平線の方の、濃灰の空をみつめている。視線の先、内海のずっとずっと向こうにあるはずの浜辺で、彼女の兄の
彼女は云う。
「透明なものでいっぱいだ」
吹きすさぶ風が
「透明なものでいっぱいだ」
そう呟いて、彼女はつづける。「透明なものでいっぱいなんよ」「よう説明できんけど」「ほんまなんよ」「ずっとわたしたちのこと見とう」「これが終わったら帰るんよ。これは永く続く
「わたしを読んで」
わたしを読んで。あなたのことばであらしめて。その確かで透明な視線で。
定義して。すべてのひとにそうしてきたように。すべてそうあるべくように。吐息が触れるほど近くで。ひっそりと、ちいさな声で。
わたしを読んで。
彼はそのことばが彼に向けられたものでないことを知る。彼は踵を返し、浜辺を去って行く。
それから十億年が過ぎた。大量の雨がアスファルトで被覆されていないあぜ道にたたきつけられている。轟く低音。水と大地が合わさる音。流れる音。遠景に山の陰。周囲に家はない。たったひとつだけ、街灯の灯す緑がかった光芒が輝いている。その手前を「彼」が通り過ぎて、光は隠れる。
降る雨が前髪をべったりと額に貼りつけ、小高い鼻先から顎の下から大量に滴っている。懐中電灯その他の灯りを持っていない。疲れているのか、口で息をしていて、雨をいっしょに吸い込んでしまうので、ときどき水の塊を吐き出している。なにがしのことばをつぶやきながら。
あまりにちいさな、曖昧なうわごと。うなる風の向こうに耳を澄まさなければ、とても聞き取れない。
「遠ざかる庭に延びていくハサミの銀色がつらい。盲目の神様がたくさんいて、死ななければいけないと決まっている。汚い土。エンドウ豆。時間が終わる。巨人に触れられて苦痛だった。左ポケットのボタンが好きだった。色彩のない窓よりもずっときれいだった」
突然の沈黙。一度だけ「あー」と意味のない音節が放たれる。
稲光。彼の唇がきっと結ばれる。眼はなにかに憑かれたように不規則に動いている。喉の筋肉の収斂から、彼が舌を噛んでいるのをあなたは想像する。遅れてきた雷鳴に被せるように「んあああああああ」閉じた口の向こうから、低音でうなり声が漏れる。叫んでいるのだ。舌を噛みつぶしながら。その痛みを吐き出すように。
凡庸なことに、その瞬間まで彼は自分がだれかになれると信じていた。潔白な大人に、清廉な恋人に、厚顔な卑劣漢に、どぶを攫う乞食に、秩序の破壊者に、無垢な求道者に。ΧにΥにΖに。はかりしれないほど多くの互いに矛盾した自己像を抱えながら、そのどれもがほんとうでありうると心の底から信じきっていた。
だれだって一度はそう考えるのだ。いつか、自分は単一の物語のなかを生きられる、そうすれば無矛盾かつひとりの【わたし】でいられる。だけど、そんなことは最初から不可能だった。書物がだれかに開かれている間だけしか物語ることができないように【わたし】はだれかにみられているあいだしか存在しない。人間は生まれながらに自分のからだを他者の視線にさらすことを決められた売笑婦で、だれかの視線を感じなければ【わたし】であることすらままならないのだ。一冊の書物である【わたし】は異なる存在として立ち現れる。あらゆるテキストが読み手によって異なる意味内容を提示するように。
おしなべてことばはただはじめから誤謬だった。この
この世がことばでないならば。
再び強烈な光が彼の全身を照らす。車のヘッドライトだ。ドアの開く音、閉じる音がして、警官ふたりが彼に近づく。彼の名を確かめる。彼は答えない。警官は写真と彼の顔を照合し、もうひとりに確認を求める。もうひとりは頷き、パトカーに上半身を突っ込んで「当該児童と思われる少年を発見しました。今から連れ帰ります」と訛りのある標準語で無線機に向かってがなる。彼の顔をのぞき込み、方言で「お母さん心配しとうわ。来てくれるか?」と優しげにいう。彼は舌を噛んだまま答えずにいるが、警官の誘導にしたがって車内へ入っていく。そうして、ぱちんと、巨人が掌を合わせるような音がして、すべての灯が
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