第12話 図書室が使えない日の、待ち場所

朝、鞄を持ち上げたとき、まず重さを確かめた。


鞄の中には、美咲からの手紙がまだ入っている。開いていない。封は、そのままだ。スマホのほうも同じだ。最初の謝罪メッセージは、未読のまま伏せてある。開かない理由を、今日の俺は言葉にしなかった。ただ、まだ読むと決められていない。それだけが、今日の正直なところだった。


昨日、図書室で決めたことがひとつだけある。その日も、待つことだ。場所は、まだ決まっていない。けれど、待つことは決まった。その順番が、俺には合っていた。今日は、その続きを話す日だ。場所を、今日こそ決める。そう自分に言い聞かせて、俺は学校へ向かった。


教室では、美咲と目が合った。挨拶はした。けれど、それ以上の会話はなかった。美咲も、俺も、それ以上は踏み込まなかった。校門で傘を持って立っていた理由を、俺は今日も尋ねなかった。尋ねれば、話が動き出す。動き出した話を、最後まで聞く準備が、俺にはまだない。だから、今日も手紙は開かずに持ち歩く。謝罪メッセージも、未読のままだ。許すかどうかも、まだ決めていない。決めていないことを、無理に決めない。それが、今の俺の精一杯だった。


授業のあいだ、俺は場所のことを考えていた。昨日、頭の中で並べた候補だ。中庭のベンチ。渡り廊下の窓際。教室の隅。どれも、図書室の窓際の席とは違った。紙と木の匂いはないし、ページをめくる音も聞こえない。けれど、隣に座ることだけは、どの場所でもできるはずだった。


中庭のベンチは、放課後の光が強すぎる気がした。人の目も多い。教室の隅は、静かだけれど、どこかよそよそしかった。放課後の教室は、昼間の教室と空気が違う。机が並んでいるだけで、もう別の場所のようだ。そこに二人で座る姿が、俺にはうまく想像できなかった。


渡り廊下の窓際は、少しだけ違った。窓がある。光がある。並んで座る、というより、並んで立つ場所だ。けれど、窓のそばにいれば、図書室の窓際の席と、少しだけ似た空気になる気がした。静かに本を開くことはできないかもしれない。けれど、待つことはできる。隣にいることは、できる。その二つがあれば、今日の俺たちには十分だと思った。


放課後、図書室へ向かった。扉を開けると、紙と木の匂いがした。窓際の席に、桐生先輩がいた。先輩はいつも通り、本を開いて座っている。俺が入ってきたことに気づくと、ほんの少しだけ顔を上げて、頷いた。


「来たね」


その一言で、昨日の約束が続いていることがわかった。俺は頷いて、窓際の隣の席に座った。しばらく、二人で黙って本を読んだ。ページをめくる音だけが、静かに続いた。図書室が使えない日には、この音も、この匂いもない。そう思うと、今日の図書室の静けさが、少しだけ惜しくなった。けれど、惜しいと思うことは、ここが自分の場所になった証拠のような気がした。


俺は、自分のノートの端を思い出した。昨日、書き写した先輩の言葉だ。『その日も、待ってる』。その言葉は、場所を決めていないままの、待つことだけの約束だった。今日は、その約束に場所の名前を添える日だ。待つことが先にあって、場所があとからついてくる。その順番を、俺は間違えたくなかった。図書室の窓際の席で、隣に座ること。その静けさが、俺たちの約束の形だった。渡り廊下の窓際でも、その形だけは残せるはずだ。そう思って、俺はゆっくりと息を吐いた。


やがて、俺は本を閉じて、先輩の方を向いた。


「桐生先輩、昨日の続きです。来週、図書室が使えない日。場所のこと、考えました」


先輩は本を閉じて、俺の方を向いた。急かさなかった。俺の言葉を、黙って待ってくれた。


「渡り廊下の、窓際はどうですか。図書室みたいに本は読めないかもしれないけど、隣にいることは、できます。待つことも、できます」


言いながら、俺は自分の言葉の短さを確かめた。場所を決めることは、約束を軽くすることではなかった。待つことを先に決めて、場所をあとで決める。その順番を、俺たちは昨日決めた。今日は、そのあとの部分を決める日だ。だから、場所の名前を口に出すことは、約束を進めることだった。


先輩は、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。


「……うん」


それだけだった。けれど、その一言で十分だった。先輩は、急に饒舌になったわけではない。短い言葉のままだった。その短さが、今日の俺には、かえって確かに聞こえた。


「窓際、いいね」


先輩は、もう一言だけ添えた。窓際という言葉が、先輩の口から出たことが、俺には嬉しかった。図書室の窓際の席と、渡り廊下の窓際。場所は違う。けれど、窓際という言葉だけは、同じだった。その同じ言葉が、二つの場所をつないでくれる気がした。


俺は頷いた。「じゃあ、その日は、渡り廊下の窓際で、待ちます」と言った。先輩は頷いて、「うん」とだけ言った。場所を決めたことは、先送りではなかった。待つことを先に決めて、場所をあとで決める。その順番通りに、今日は場所が決まった。図書室が使えない日、その日も隣にいる約束が、今日の俺たちには合っていた。


場所が決まったあと、俺は渡り廊下の窓際の姿を、頭の中で静かに思い浮かべた。窓の外の光。廊下を歩く人の足音。図書室のように本を開いて座ることはできないかもしれない。けれど、窓のそばに二人で並んで立てば、それだけで待っていることになる。読む本がなくても、隣にいることはできる。その姿が、今日の俺には、図書室の窓際の席と同じくらい確かに思えた。場所が変わっても、隣にいることは変わらない。先輩の言葉を、俺はそう受け取っていた。


それから、先輩が自分の読んでいた本を閉じて、立ち上がった。返却のカウンターへ行き、さっきまで読んでいた本の貸出カードを、手に取った。先輩はカードの裏に、何かを書き加えた。俺は、自分の席からその背中を見ていた。先輩の手が、ゆっくりと動いた。何を書いているのか、遠くからはわからなかった。


先輩が自分の席に戻ってくると、その本を俺の方へそっと押し出した。カードの裏には、新しい字があった。


『窓際で、待ってる』


俺はそのカードを、しばらく見つめた。待つという言葉が、今日は図書室の席だけを指していないことがわかった。図書室が使えない日も、渡り廊下の窓際で、待っている。その言葉が、胸の奥で静かに広がった。俺は、自分のノートの端に、その言葉を書き写した。『窓際で、待ってる』。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。書き写すたびに、先輩の言葉が、俺の中で少しずつ自分の言葉になっていく気がした。


夕方、閉館の放送が流れると、先輩は本を閉じた。俺も本を閉じた。図書室を出て、廊下を歩いた。廊下の端に、美咲の姿が見えた。美咲は、こちらを見ていた。声はかけてこなかった。俺も、声をかけなかった。昨日、校門で傘を持って立っていた理由は、今日もわからないままだった。傘を渡したかったのか。それとも、ただ見送りたかったのか。理由を想像することはできても、確かめることはしなかった。確かめることは、もう一度話を聞くことになる。今日の俺は、それを選ばなかった。


けれど、今日の俺は、昨日の俺と少しだけ違っていた。昨日は、わからないまま持ち帰ることを、自分で選んだ。今日は、わからないまま持ち帰ることに加えて、もうひとつの約束を持ち帰ることができた。図書室が使えない日、渡り廊下の窓際で待つ約束だ。美咲とのことは、まだ終わっていない。終わらせる言葉を、今日の俺は持っていない。だから、今日はそのままにしておく。手紙は、まだ鞄の中にある。開いていない。謝罪メッセージも、まだ未読のままだ。許すかどうかも、まだ決めていない。


帰り道、俺は今日のことを振り返った。図書室が使えない日、その日の待ち場所が決まった。渡り廊下の窓際だ。恋人になる約束ではない。ただ、その日も隣にいる約束だ。その約束が、今日の俺には、十分に重かった。先輩の短い言葉と、貸出カードの裏のメモが、その決意を支えてくれた。


家に帰って、俺は自分のノートを開いた。先輩の言葉を、もう一度なぞった。『窓際で、待ってる』。その言葉を、自分の字でなぞるだけで、胸が温かくなった。貸出カードは本と一緒に図書室に残る。だから、俺のノートにだけ、先輩の言葉を残しておきたかった。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。


来週、図書室が使えない日、俺たちは渡り廊下の窓際で本当に会えるのだろうか。校門で傘を持って立っていた美咲は、何を言いたかったのだろうか。その二つの問いを、俺は第13話へ持ち越すことにした。今日の俺は、その問いに対する答えを、まだ出さない。ただ、その日も待つ。それだけを、自分に約束した。明日も、ここに来る。その約束は、誰かに見せるためのものではない。俺と先輩だけが知っている、静かな約束だった。

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罰ゲームの嘘告で幼馴染と縁を切った俺、放課後の図書室でだけ待っていた先輩に独占され始めた 本を書く社畜 @wata098765

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