第11話 図書室が使えない日と、校門の傘

朝、鞄を持ち上げたとき、重さのわけがわかった。


鞄の中には、美咲からの手紙がまだ入っている。開いていない。昨日も、今日も、封はそのままだ。スマホのほうも同じだ。最初の謝罪メッセージは、未読のまま伏せてある。開かないことが、意地になっているわけではない。ただ、まだ読むと決められていないだけだ。


昨日の帰り道、校門で美咲が傘を持って立っていた。声はかけてこなかった。俺も声をかけなかった。雨の中、少しだけ目が合った気がした。けれど、それが何を意味していたのか、俺にはわからなかった。傘を渡したかったのか。それとも、ただ見送りたかったのか。理由を想像することはできても、確かめることはしなかった。確かめることは、もう一度話を聞くことになる。昨日の俺は、それを選ばなかった。今日も、同じだ。


教室では、美咲と目が合うことがあった。けれど、会話は挨拶の範囲を超えなかった。第8話で口頭の謝罪を聞いたとき、俺は「許すとは、まだ言えない」と言った。その言葉は、今も変わっていない。美咲はそれ以上、教室では何も言ってこなかった。俺も、校門の傘のことを尋ねなかった。尋ねれば、話が動き出す。動かす準備が、俺にはまだない。だから、鞄の中の手紙は、今日も開かずに持ち歩く。


放課後、図書室へ向かった。扉を開けると、紙と木の匂いがした。窓際の席に、桐生先輩がいた。先輩はいつも通り、本を開いて座っている。俺が入ってきたことに気づくと、ほんの少しだけ顔を上げて、頷いた。


「来たね」


その一言で、昨日の約束が続いていることがわかった。俺は頷いて、窓際の隣の席に座った。席は、どこでもいい。隣にいてくれればいい。先輩が第7話に言った言葉を、俺はまだ覚えている。今日も、その言葉通りの席だった。


しばらく、二人で黙って本を読んだ。俺は、昨日借りた本の続きを読んだ。主人公が、自分の居場所を探して旅をする話だった。旅の途中で、主人公は雨の日に小屋に泊まる。主人公は、小屋の主人に「雨がやむまで、ここにいていい」と言われる。俺はその場面を、ゆっくりと読んだ。図書室が使えない日というのは、主人公にとっての雨上がりのようなものかもしれないと思った。雨がやめば、小屋を出なければならない。けれど、出た先でも、旅は続く。図書室を出た先でも、先輩との約束は続くのだろうか。その問いが、ページの上で静かに残った。


先輩は、俺がその場面を読んでいることを、知っているようだった。いや、知らなくてもいい。ただ、同じ時間を、隣で過ごしている。その事実だけで、十分だった。先輩のページをめくる音が、今日の図書室の音楽だった。紙と木の匂い。窓の外の、昼下がりの光。その三つが、今日の図書室の空気を作っていた。図書室が使えない日には、この匂いも、この音もない。そう思うと、今日の図書室の静けさが、少しだけ惜しくなった。惜しいと思うことは、ここが自分の場所になった証拠のような気がした。


けれど、今日は昨日の続きを話さなければならなかった。先輩が昨日、言ったことだ。来週、図書室が使えない日がある。その日は、どうするのか。俺は「考えます。明日、また話します」と答えた。今日が、その明日だ。


俺は本を閉じて、先輩の方を向いた。


「桐生先輩、昨日の話です。来週、図書室が使えない日。その日、どうするか、考えました」


先輩は本を閉じて、俺の方を向いた。急かさなかった。俺の言葉を、黙って待ってくれた。


「図書室が使えないからって、約束までなくなるわけじゃないと思うんです。場所が変わっても、待つことはできると思うんです。だから、その日も、待ちます。場所は、まだ決まってないですけど」


言いながら、俺は自分の言葉の曖昧さに気づいた。待つことは決めた。けれど、どこで待つのかは決めていない。それでも、それが今の俺の精一杯だった。図書室以外の場所を、急に決めてしまうことは、約束を軽くする気がした。場所よりも先に、待つことを決めたかった。


先輩は、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。


「……場所は、どこでもいい。隣に、いてくれれば」


第7話の言葉と同じだった。けれど、今日は少しだけ意味が違って聞こえた。あの日は、席についての言葉だった。今日は、図書室が使えない日についての言葉だ。場所が変わっても、隣にいることは変わらない。先輩はそう言っているのだと、俺は受け取った。先輩は、急に饒舌になったわけではない。短い言葉のままだった。その短さが、今日の俺には、かえって確かに聞こえた。


俺は頷いた。「じゃあ、その日も、待ちます。場所は、明日までに、もう少し考えます」と言った。先輩は頷いて、「うん」とだけ言った。場所を今日決めないことは、先送りではなかった。待つことを先に決めて、場所をあとで決める。その順番が、今の俺たちには合っていた。


それから、俺は場所の候補を、頭の中で静かに並べてみた。中庭のベンチ。渡り廊下の窓際。教室の隅。どれも、図書室の窓際の席とは違った。紙と木の匂いはないし、ページをめくる音も聞こえない。けれど、隣に座ることだけは、どの場所でもできるはずだった。場所が変わっても、隣にいることは変わらない。先輩の言葉を、俺はそう受け取った。だから、候補を口に出して決めることはしなかった。候補を並べるだけで、今日は十分だった。明日、もう一度話すときに、場所を決めればいい。その余白が、今の俺たちには必要だと思った。


やがて先輩が、自分の読んでいた本を閉じて、立ち上がった。返却のカウンターへ行き、さっきまで読んでいた本の貸出カードを、手に取った。先輩はカードの裏に、何かを書き加えた。俺は、自分の席からその背中を見ていた。先輩の手が、ゆっくりと動いた。何を書いているのか、遠くからはわからなかった。


先輩が自分の席に戻ってくると、その本を俺の方へそっと押し出した。カードの裏には、新しい字があった。


『その日も、待ってる』


俺はそのカードを、しばらく見つめた。待つという言葉が、今日は図書室の席だけを指していないことがわかった。図書室が使えない日も、待っている。場所が決まっていなくても、待っている。その言葉が、胸の奥で静かに広がった。俺は、自分のノートの端に、その言葉を書き写した。『その日も、待ってる』。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。書き写すたびに、先輩の言葉が、俺の中で少しずつ自分の言葉になっていく気がした。


夕方、閉館の放送が流れると、先輩は本を閉じた。俺も本を閉じた。図書室を出て、廊下を歩いた。校門へ向かう途中、美咲の姿が少しだけ見えた。美咲は、昨日と同じように傘を持っていたわけではない。今日は、廊下の端に立って、こちらを見ていた。声はかけてこなかった。俺も、声をかけなかった。昨日、校門で傘を持って立っていた理由は、今日もわからないままだった。手紙は、まだ鞄の中にある。開いていない。謝罪メッセージも、まだ未読のままだ。許すかどうかも、まだ決めていない。


けれど、今日の俺は、昨日の俺と少しだけ違っていた。昨日は、校門の傘の意味がわからずに、ただ帰った。今日は、わからないまま持ち帰ることを、自分で選んだ。わからないことを、急いで解決しない。それも、俺の精一杯の向き合い方だと思った。美咲とのことは、まだ終わっていない。終わらせる言葉を、今日の俺は持っていない。だから、今日はそのままにしておく。


帰り道、俺は今日のことを振り返った。図書室が使えない日、その日も待つことを決めた。場所は、まだ決まっていない。でも、待つことは決まった。先輩の短い言葉と、貸出カードの裏のメモが、その決意を支えてくれた。恋人になる約束ではない。ただ、その日も隣にいる約束だ。その約束が、今日の俺には、十分に重かった。


家に帰って、俺は自分のノートを開いた。先輩の言葉を、もう一度なぞった。『その日も、待ってる』。その言葉を、自分の字でなぞるだけで、胸が温かくなった。貸出カードは本と一緒に図書室に残る。だから、俺のノートにだけ、先輩の言葉を残しておきたかった。誰にも見せないノートだ。そこにだけ、先輩との短いやり取りが、静かに増えていく。


来週、図書室が使えない日、俺たちはどこで待つのだろうか。校門で傘を持って立っていた美咲は、何を言いたかったのだろうか。その二つの問いを、俺は第12話へ持ち越すことにした。今日の俺は、その問いに対する答えを、まだ出さない。ただ、その日も待つ。それだけを、自分に約束した。明日も、ここに来る。その約束は、誰かに見せるためのものではない。俺と先輩だけが知っている、静かな約束だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る