世界に明かりを灯す男
悪萬畜倫(おまんちくりん)
世界に明かりを灯す男 著:松宮 鼎
夜の街を、ひとりの男が歩いていました。
男の名は、ナディルといいました。
古びた外套をまとい、片手には小さな杖を持っています。
ナディルが立ち止まり、杖の先で宙に小さな円を描きます。
「灯れ」
ぽっ。
道端のランタンに、小さな火が宿りました。
それを見つけた子供たちが、わっと集まってきます。
「ナディル! ぼくのにも!」
「わたしのにも!」
「さあ、持っておいで」
ナディルは笑いました。
「灯りはいくらでもある。順番にね」
子供たちは、それぞれの小さなランタンを抱えて並びました。
赤いランタン。
青いランタン。
錆びたランタン。
取っ手の曲がったランタン。
どれほど古くても、どれほど小さくても、ナディルが杖を振れば、そこには同じようにあたたかな火が灯りました。
子供たちはその光を囲み、笑いました。
暗かった路地が、少しずつ明るくなっていきます。
そのときでした。
「どけ、どけ!」
大きな声とともに、立派な服を着た男がやってきました。
街でいちばん大きな屋敷に住む貴族でした。
貴族は子供たちを押しのけ、ナディルの前に立ちました。
ひとりの子供が転びました。
その手からランタンが落ちます。
ころん、と石畳を転がり、火が消えました。
それを見ても、貴族は振り返りません。
「おい、おまえ」
貴族はナディルを指さしました。
「わしの屋敷には、ここの何十倍ものランタンがある。全部に火をつけろ。今すぐだ」
「まだ、この子たちが待っています」
「そんなものは後でいい」
貴族はナディルの腕をつかみました。
「来い」
ナディルは、石畳に落ちたランタンをしばらく見ていました。
けれど何も言わず、貴族についていきました。
*
貴族の屋敷は、丘の上にありました。
高い塀。
大きな門。
広い庭。
そして、数え切れないほどの部屋。
けれど夜になると、その屋敷はひどく暗くなりました。
「持ってこい!」
貴族が命じると、十二人の召使いが現れました。
それぞれ一つずつ、大きなランタンを抱えています。
「さあ、灯せ」
貴族は言いました。
「まず十二個だ。そのあとにもまだある」
最初の召使いが、ナディルの前に立ちました。
ナディルはランタンに手をかざしました。
「灯れ」
ぽっ。
火が灯ります。
ナディルは、その召使いの顔を見ました。
「あなたは、東へ行きなさい」
「え?」
ゆらりと、影がゆれました。
「……病の母が」
召使いが戸惑った、その瞬間でした。
ランタンが、ふわりと東を向きました。
まるで彼の手を引くように。
「待て!」
貴族が叫びました。
しかし召使いは、ランタンに導かれるまま、屋敷を出ていきました。
二人目が来ました。
「あなたは南の海へ」
「妻と娘が……」
三人目。
「北の山を越えなさい」
四人目。
「川沿いの道を」
一つ火が灯るたび、
一人、また一人と、
召使いたちは屋敷を去っていきました。
「何をしている!」
貴族は怒鳴りました。
「わしは、この屋敷を明るくしろと言ったのだ!」
それでもナディルは、黙って火を灯し続けました。
十一人目が去りました。
そして最後の一人がやってきました。
年老いた召使いでした。
ナディルは彼のランタンに火を灯しました。
「あなたは街へ」
「街へ?」
「さっきの子供たちが待っています」
老人は、小さく笑いました。
「それなら、急がなければなりませんな」
彼はランタンを抱え、屋敷を出ていきました。
*
やがて、広い屋敷には誰もいなくなりました。
貴族だけが残っていました。
「どういうことだ……」
彼の声が、暗い廊下に響きました。
「わしはあいつらに仕事を与えた」
誰も答えません。
「服も与えた」
返事はありません。
「寝る場所も、毎日のパンも与えた!」
貴族は拳を握りました。
「それなのに……なぜ誰ひとり、ここにいない!」
ナディルは何も言いませんでした。
貴族は彼に詰め寄りました。
「ならば、わしにも灯りをよこせ!」
ナディルは静かに貴族を見ました。
そして言いました。
「それはできません」
「なぜだ!」
「あなたは、もう灯りを持っています」
貴族は周囲を見回しました。
屋敷は真っ暗です。
「どこにある!」
ナディルは貴族の足元を指しました。
「ここにあったのでしょう?」
貴族の足元には空っぽのランタンが月明かりに照らされています。
「当たり前だ!」
「では、なぜ今は暗いのでしょう」
貴族は口を開きました。
しかし言葉は出ませんでした。
ナディルは杖を下ろしました。
そして、貴族へ向かって、
ふう――
と、小さく息を吹きかけました。
次の瞬間。
ごうっ。
嵐のような風が、屋敷を駆け抜けました。
窓が鳴り、
扉が揺れ、
カーテンが舞い上がります。
そして風が去ったとき、
ナディルの姿も消えていました。
貴族は、ひとり闇の中に残されました。
*
太陽が昇りました。
太陽が沈みました。
貴族は、人を雇いました。
夜になり、月が昇りました。
貴族は、またひとりになりました。
季節が巡りました。
雪が降り、
広い屋敷で、貴族はひとり震えました。
花が咲き、
庭いっぱいに咲いた花を見るのも、貴族ひとりでした。
雨が降り、
木々が色づきました。
そうして、
月が二千と九百と二十二回昇った、ある日のことでした。
屋敷の扉が叩かれました。
貴族が扉を開けると、ひとりの若者が立っていました。
手には、小さなランタンを持っています。
「あなたは……?」
若者は頭を下げました。
「私の父が、昔あなたの屋敷で働いていました」
そしてランタンを足元へ置きました。
「父はあなたから仕事をもらい、生きることができた。その恩を返したいと言っていました」
若者は帰っていきました。
しばらくすると、
また扉が叩かれました。
今度は女でした。
「母がお世話になりました」
彼女も、小さな灯りを置いていきました。
また一人。
また一人。
日が暮れるころには、
二十四人が屋敷を訪れていました。
誰も長居はしませんでした。
ただ一つずつ、
ランタンを置いて帰りました。
その夜、
空には月がありませんでした。
けれど屋敷は、
二十四の灯りで明るく照らされていました。
貴族は、その真ん中に座りました。
長いあいだ、
何も言わず、二十四の灯りを見つめました。
そこには、かつて感じたことのある温もりがありました。
やがて、
ぽたり。
ぽたり。
膝の上に涙が落ちました。
「……そうか」
*
次の朝。
貴族は二十四のランタンを荷車に積みました。
街へ行きました。
灯りのない家に、一つ。
村へ行きました。
夜道を歩く老人へ、一つ。
山へ行きました。
凍える旅人へ、一つ。
川を越えました。
泣いている子供の傍らへ、一つ。
一つ。
また一つ。
荷車は、少しずつ軽くなっていきました。
最後の一つを、
街外れの小さな家へ置いたとき。
荷車は空になりました。
貴族は空の荷車を見て、
笑いました。
「なくなってしまったな」
「いいえ」
声がしました。
振り返ると、
そこにナディルが立っていました。
昔と同じ古びた外套。
昔と同じ小さな杖。
ナディルは貴族の手を取りました。
その手に、
一つの古いランタンを握らせます。
「灯れ」
ぽっ。
小さな火が灯りました。
ナディルは笑いました。
「もう、あなたは何も失いません」
貴族はランタンを見つめました。
そして顔を上げたとき、
ナディルはもう歩き始めていました。
暗くなり始めた街へ。
小さな杖を片手に。
灯りを待つ人々のところへ。
今日もナディルは、
世界に明かりを灯して歩いています。
おわり
世界に明かりを灯す男 悪萬畜倫(おまんちくりん) @ChichiShin_R
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