創作活動をして思うことがあります。現在、執筆中の「しりとりから始まる希望」を執筆してて特に感じることですが、「結局なんとかなるんだな。」と執筆しながら感じています。
今、執筆中のしりとり文は、楽しみながら、また書きながら僕自身の成長にもつながるのかな。と思いながら、執筆しています。
尻の文字1文字だけという制限のなかで、意味の通じる自然な文章を目指して文章を考えて、つなげていくという難題に取り組んでいるのですが、頭をひねって、どんなに考えても納得のいく文章がなかなか出てこないといったことの方が、圧倒的に多く、あとどれくらい、この「しりとり文」を続けられるだろうと考えながら執筆しているのですが、どんなにひねり出そうとしても出てこない時は本当に出てこないのが現実です。
しかし、なぜそもそも、あえて尻の文字1文字という制限をかけて文章を考えているのかというと、今、自分の手元にある現実に与えられた数少ない条件のなかでどのようにうまく人生を歩いていくのか、という工夫を養う力や悩みながらでも諦めない姿勢を大切にして、難題を前に困難を生きる力に変えられるのではないか、と考えたからです。
やはり伝える自由度を極端に制限したことにより、どうしても不自然な文章になってしまいがちな部分は、どうしてもあります。
けれども、与えられた尻の文字1文字という制限の中で工夫しながら、より自然な文章を目指して文章を考えることは、考える力(生きる力)を刺激する分、すごくやりがいを感じますが、どんなに頭をひねっても自然な文章は出てこない時には、なかなか出てきてくれません。
こればかりは、出会いと言っても過言ではないように感じています。
でも、いったん「しりとり文」から距離を置いて、時がたってから「しりとり文」どうしようかなと考えた時に、スッと頭に自然に入ってきて、あの時どうしても考えても出てこなかった文章が次々と簡単に出てきたりといった発見があり、結局、時期が来ればうまくいくんだな。と実感する日が最近増えました。
そのこともあって、人生には人との出会いだけでなく時期が来れば、「文章との出会い」や「文章との縁」も、しっかりあるんだなと、よりいっそう感じさせてくれたのがこの「しりとり文」です。
なので今、「この先どうしよう?」、「今、どうしても何をすればいいかわからない。」、「自分は何に興味があって、何が好きなのかもわからない。」という悩みに苦しめられていたとしても、やはり、それらとの出会いの時期が来れば(出会いの地点まで歩いてこれば)、今までもそうであったように、あっさりと解決するものなんだろうなと、よりいっそう希望が持てました。まさに「しりとりから始まる希望」だな。と我ながら感動しています。
自分が最初に(前向きな、しりとり文ができればいいな…。ぐらいに考えていた)特に深く考えずに、タイトル設定した伏線回収が、今になってできているような感覚です。
なので、悩みに直面したときに、どう考えても解決しない問題に直面したときは、あれこれと考えても、どうしても解決策が見えてこず、精神的にまいってしまうほどであれば、いったん考えるのをやめて、自然にうまくいくまで他の事で気をそらしながら少しでもストレスを逃がしながら、出会いの時期を待ってみる(次の地点まで人生をいつもどおり、歩いてみる)のもいいのかもしれません。
いつかは、自然にスッと解決策が頭に浮かんだり、自然にきっかけがやってきたりして(きっかけの地点まで歩いてこれて)、気づいたら気が楽になれる地点まで歩いてこれた。ということが自然だと思いますので。
人生の伏線回収を希望にしながら、今日も一歩ずつ歩いていきましょう。