自分の主観なんてものを作品に織り込もうとは、あまり考えたことがありません。
できることなら除外したい、とさえ思っていたくらいです。
それでも書いているうち、不意に自分を振り返ることが起こるものですね。
先日公開した『離れ雛』に登場する桃愁という人物。
衝動的で、利己的な行動に走った人物と言えば身も蓋もないのですが、私の作品の中ではそれなりに狂人です。
桃愁を書いているうち、ふとカミュの『異邦人』を連想していました。
ただ、筋書きを改めて確認したら、ちょっと思い違いをしていたようです。
主人公ムルソーは金貸しのお婆さんを殺したのだと思い込んでいたのですが、実際には仏領アルジェリアでアラブ人を殺していたんですねw
桃愁の恋の物狂いよりも、更に虚無的な衝動だったわと……
そして最後の、あの有名な動機を語るくだり。
当時、ちょっとイラっとして本をぶん投げそうになったことまで思い出しました。
いや、本当に投げたりはしてませんよ?
まだ10代最後の頃の話です。
あの時の私は、あれを自己逃避の弁明みたいなものとして読んでいて、自分に陶酔した人物くらいにしか受け取れていなかったのでしょうね。
ずいぶん、あんぽんたんな読み方でした。
しかもいつのまにやら、ムルソーの罪を『罪と罰』の殺意と混同していたようです。
実はドストエフスキーを読んだこと自体、忘れていたのですが、
ああ、多分読んでいたんだなぁ、ということだけ思い出しました。
ごめんね、ドストエフスキーさん。
カミュの衝撃のほうが強かったらしいです。
カミュが太陽に象徴させたものを咀嚼するには、随分時間がかかりました。
それでも、今もなお承服しかねる部分はあります。
個人の意思や自由を尊いものとして置く考え方は、美しいと思うのです。
ただ、それを偏重すると、どこかで利己主義に傾いてしまうのではないか、とも思う。
桃愁の行動は、平たく言えばまさにそれでしょう。
若い頃の私は、自由を選ぶなら義務も同時に発生する、なんて。
まぁ青臭いことを言う娘だったこと(笑)
今さら義務だの何だのと面倒くさいことは言う気は失せています。
それでも個人と社会のあいだで、バランスを見い出そうとする癖くらいはついたかもしれません。
そして、よく失敗をする(*ノωノ)
だって人間だもんと言い逃れる私。
こうして振り返ると、若い頃からあまり考え方が変わっていない気もします。
……やばい、老害化してきたかしら。