セーラー服の前で、私はためらっている。
手を伸ばそうとしては、ひっこめ。伸ばしては、ひっこめ……。
何度繰り返しても、指先が真新しい布地に触れない。
「あれ、どうしたんですか? 遅刻しちゃいますよ?」
「ごめん、もうちょっと待ってて?」
すでに準備万端のナギサちゃんは、意地悪っぽく笑った。
「あ、わかった。あたしに着替えさせてほしいんじゃないですか?」
違う。本当に、着る勇気がなかっただけなの。
でも、無意識に、喉が鳴った。断る理由、どこ?
「……お願いしていい?」
「はい。お任せください」
ナギサちゃんの、人肌を撫でるためにあるような指が、パジャマのボタンを外していく。
「ばんざいしてください」
「ばんざーい」
「ふふふ」
腕を上げると、上品な笑い声が、うなじをくすぐった。
「お嬢様。髪型はどうしますか?」
「ナギサちゃんの方が『お嬢様』じゃん」
「お嬢様に、着替えさせてもらってるんですか?」
「なんでもできる、あなたが悪い」
「そうですねー。全部、あたしのせいにしていいですよー」
私の半分しか生きていないのに、余裕たっぷりな態度。
争う気も起きない。血統書付きのプードルになった気分だ。
「このままだと、ナギサちゃんなしで生きていけなくなりそう……」
「あたしは嬉しいので、気にしないでください」
「いや、流石にまずくない?」
人として。
「一緒に死ぬんですから、心配ありませんよ」
「そう、かも?」
「はい。あたしは死ぬまで見捨てませんから」
「……わたし、余命2年半の女の子に、着替えさせてもらってるんだよなぁ」
本来は、逆の立場だよね。
寝間着を脱ぎおわると、今度は制服の着衣。完全にされるがままだ。
揺れる黒髪から、薔薇の柔軟剤のような香りが広がり、胸が温かくなる。
「とっても似合ってる。恵巳さん、かわいい!」
セーラー服を着た、アラサーへの感想が、|かわいい《・・・・》……?
「うそでしょ」
「本当に思ってますよ」
私の目からは、痛いおばさんとしか映らない。
高校生ではなく、ピエロに近いでしょ。
「今日の入学式、楽しみですね」
親友の結婚式に行くみたいに、はにかむナギサちゃん。
もう逃げられないと、悟った。
「私は2度目だけど」
「前回はどうだったんですか?」
「……もう、覚えてない」
「恵巳さんは、無理に高校デビューして、やらかしてそうですね」
「……のーこめんと」
なんで言い当てるの、この子は。
おつむの使いどころがおかしい。
「では、行きましょう」
青薔薇に手を引かれて外に出ると、桜が広がっていた。
色付きガラスみたいな、春の空。
初々しい、若葉マークのエンジン音。
春一番が、強引に背中を押す。
若作りをしすぎた|滑稽《こっけい》アラサー女性こと、私。
どうして、高校に通うことになったのか。
はじまりは、半年前。
ナギサちゃんとの同居生活がはじまって、すぐの話だ。
私は上司に退職届を提出した後、寝転んでいた。
会社は、人間関係が酷かっただけで、給料払いはホワイトそのもの。
失業保険も合わせれば、3年分の生活費は捻出できる。
スマホを眺めていると、ナギサちゃんの手元から、シャーペンの音が聞こえた。
参考書を解いていて、迷う時間がない。
筆記の音を聞くだけでも、要領のよさが伝わる。
「勉強してるの?」
「受験勉強です」
私の口から「え?」と困惑が漏れた。
「死んで、卒業できないのに?」
「だって、暇ですよ。3年間、なにをして過ごせばいいんですか?」
「ゲーム、とか……? 読書?」
「3年は長いですよ」
「高校、かぁ」
孤立。交換日記。告白。失禁。失恋。引きこもり。
自分の高校時代の記憶が蘇って、すぐに頭を振った。
「高校で何かあったんですか?」
「まあ、ぼちぼち」
「隠し事をしていませんか?」
ナギサちゃんの知性に満ちた瞳が、私の罪悪心を貫く。
「いや、なにも……」
私は野良猫みたいに目を反らした。
「本当ですか?」
「……うん、たぶん」
「一緒に死ぬパートナーなんですから、隠し事はなしですよ」
ナギサちゃんへの隠し事は、そのまま墓までもっていくことになるのかぁ。
速攻で、圧に屈した。
「私……高校中退です。はい」
「え、ちょうどいいじゃん!」
失望を覚悟していたのに、手を握られた。
ウサギの毛みたいに柔らかいだけじゃなく、力強い。
「どうですか? あたしと一緒に、高校に行きませんか?」
「わ、私、もう33、だよ……?」
「大丈夫ですよ。あたしがサポートしますから」
「でもでも……」
「思い出にもなりますよ。死ぬのにも必要じゃないですか」
押しが、強い。
タイムセール時のおばさんに匹敵する。
「ナギサちゃんなら、簡単に友達、作れるでしょ? 学校一のマドンナになって、楽しい青春をおくれるよ。私がいなくても……」
「なんで、そんな寂しいこと言うんですか?」
「いや、事実だから……」
若いのは、怖い。私は、なじめない。
「あたしは、恵巳さんじゃないと、ダメなんです」
「私、じゃないと……?」
「一緒に死ぬんですよ? いっぱい時間を共有したいんです」
「でも……」
邪魔じゃない?
恥ずかしくない?
関係者だと思われたくないでしょ。
「あたし、恵巳さんとが、いい」
袖を掴まれて、上目遣いを、視界に流し込まれた。
きっと、ナギサちゃんは、わざと懇願している。
自分の顔が相手からどう見えるか、常に考えているはず。
一緒にいる時間はまだ短いけど、理解した。理解してしまった。知れば知るほど、ドツボにハマっていく。
かわいい子が、私に向けた、私のためだけの、かわいい仕草。
頭の中で、カフェオレ入りの水風船が破裂して、脳細胞のひとつひとつに染み込んでいく。
鳥海恵巳は、兎本ナギサに、弱すぎる。
「……うん。わかった」
「やったっ!」
そして、次の日。
発狂した。