血の池で迎えた、朝。
周囲から向けられた笑顔は、3回生まれ変わっても、忘れられないだろう。愛玩動物の皮をはった切り絵みたいで、気色わるかった。
私の手には、お局から渡された、鉄分入りの乳酸飲料。
恵巳さんの作ったデータは間違いだらけで使い物にならないけど、お疲れ様って。
きっと、この悪態も本心じゃない。
「……死ぬのも迷惑、か」
彼らは、口に出していなかった。だけど、目が告げていた。
ここで死ぬんじゃねえ。
お前がいなくても、どうにでもなる。
だが、会社で死んだら、迷惑だろ。
面倒事を起こすなら、俺の責任にならない、遠い場所で死んでくれ。
「やってらんない」
歩くのも辛くて、駅前のベンチに倒れ込む。めくれたスーツスカートを直す気にもなれない。
ボーッと、人の流れをみつめる。
電話しながら、競歩のように通り過ぎるサラリーマン。
中身のない話を笑顔で繰り返す、女子高生。
習い事に向かっているのか、迷わず歩く男の子。
なんのこともない、日常の風景。
私だけが、異物だ。
血で濡れたスーツを見て、誰もが歩調を早める。
それはそうだ。
私でも、絶対に無視をする。
7時間は眺めていただろうか。
日が傾きはじめている。
ふと、親子の姿に目がとまった。
買い物帰りだろうか。母親がマイバッグを持っていて、娘が必死に手伝おうとしている。
見ていると、思わずにはいられない。
私にも、純粋な時期があったのだろうか。
「……お母さん」
おそるおそる、実家に電話をかける。
カバンからスマホを取り出すのに、10分。電話帳を開くのに、30分もかかった。
『こんな時間にどうしたの? 仕事は?』
声のテンポから、焦りと苛立ちが伝わる。
「ちょっと、つらいことがあって」
『知ってるでしょ? こっちは大変なのよ』
「うん、わかってる」
お父さんが、神経の病気にかかって、歩けなくなった。
今は物を持つのも難しくなったらしい。
聞いた時は驚いたけど、今は受け入れている。高校生で介護を手伝っているのだから、弟も大変だろうな。
「お父さんは?」
『今は落ち着いてるわ。まったく、最近は言葉もたどたどしくなって、聞き取るのも一苦労』
「大変、だね」
『いつどうなるかわかんないんだから、あんたもさっさと会いに来なさい』
お父さんの顔が脳裏に浮かんで、息が詰まった。
「会いたがってるの?」
『親なんだから、当たり前でしょ』
「……そうだといいな」
お父さんは、私に厳しい。中退した時は、灰皿を割りながら怒鳴った。何社も落ちて、ようやく内定が決まっても、晩酌をしてばかり。いい思い出なんて、ひとつもない。
『がんばりなさいよ、恵巳。倒れたら面倒みれないんだから。健康に生きてもらわないと』
「うん。わかってる」
健康に、生きる。難しい。
「ねえ、お母さん」
『何?』
「…………」
言いたい。
助けて。もう、死にたい。
でも、本当に、いいの?
「……なんでもない」
『言いたいことがあるなら、言いなさい。気持ち悪い』
気持ち悪い、か。
心配じゃなくて、気持ち悪いか。
そっか。
「お父さんの誕生日、いつだっけ?」
『8月27日。先週ね』
今年は過ぎてたんだ。
「来年、祝いたいな」
『そんなこと言わないで、早く帰って来なさい。後悔しないようにね』
「……うん」
通話が切れて、響く、ツーツー音。意味もなく、通話履歴を消した。
「お腹、空いたな」
体を起こし、なめくじのように、歩き出す。
周囲の人たちは、私を置いて進んでいく。
普段の10倍も遠く感じながらも、マンションにたどり着いた。
だけど、予想外の出来事に直面して、カバンを落とす。
玄関前に、女の子が、座っている。
膝に顔をうずめていて、誰かわからないけど、絶対に知らない子だ。
制服が、私と違う世界に生きている存在だと、教えてくれた。
月季女学院。近所で有名な、お嬢様学校だ。
格式高いし、学費も高額。修学旅行は、海外の高級ホテルに泊まると聞く。
生徒は、社長や官僚の娘ばかりで、蝶よ花よと育てられる。
なんで、お嬢様が、こんなところに。むかつく。
「ねえ、どいて」
自分の声に、自分で驚愕した。
砂を食べたみたいに、ザラザラしている。
「誰、あんた」
女生徒の瞳は、電気の通わないテレビみたいに、虚ろだ。にらみ顔も迫力がない。
だけど、顔立ちは、美しかった。学生離れした大人っぽさに、髪一本一本に宿った、美の意識。
脚線美なんて、芸術的だ。彼女の脚を支えるために地面が誕生したのだと、直感するほどに。
美少女は、私の姿を見て、目を見開く。
「なんで、血……?」
「手首、切ったから」
手首を見せると、若々しい唇から、ひゅっと短い息が漏れた。
「どんな気分だった?」
「最悪だった。でも、ちょっと楽しかったかな」
「ナニソレ。意味わかんない」
「血がついてる私を見て、みんな避けていくのが、バカみたいで面白い」
「……おばさん、変わってる」
おばさん、かよ。
初対面の相手に『おばさん』を浴びせるのは、失礼でしょ。
無視を心に誓う。つま先を動かした瞬間、鼻水をすする音が聞こえた。
「ねえ、なんで人って、死んじゃうのかな。なんで、死ぬって、こんなに悲しいのかな?」
床が、ポツポツと濡れていく。
呆然としたあと、私は下唇を噛んだ。
え、なんで、私の目の前で、涙を流せるの?
さっき、リスカしたって言ったよね。
それなのに、なんで、この少女は、泣いてるの?
金持ちの家に生まれて、何不自由なく育って、男に困らないほどに美しい。
私なんかより、よっぽど生きやすいでしょ。
いくらでも、やりようはある。
イージーモードじゃん。
泣くとか、甘えてるんじゃないの?
あなたに何があったかは知らないけど、ふざけるな。
「もう、好きに、しねよ」
すかしっぺみたいに、自然と出ていた。
残酷な、言葉が。
「……あ」
やってしまった。私は最低な大人だ。でも、こいつも悪い。
駆け足で、ドアノブに手を掛ける。
鍵を取り出し、回す。
部屋に逃げれば、見て見ぬ振りが出来る。
イヤホンをすれば、現実を忘れられる。
「あのっ、すみません!」
ドアに、足をかけられた。
閉められない。
突き飛ばそうと体を回すと、彼女の顔が、瞳に映る。
「3年後、あたしと一緒に、あの世へ行ってくれませんか?」
涙が、えくぼをつたって、歪んだ。
彼女の表情は、失恋と初恋を混ぜ込んだみたいに、危うい。
|鼻腔《びくう》の奥底から、よみがえってくる。
チョークと、制汗スプレーの、香り。
高校で好きだった子の、面影が、重なる。
「……きれい」
目が離せない。呼吸も、奪われてしまう。
仕立てがよくて、きめ細かい、制服の布地。
袖から伸びる手は、一切のシミがなく、飴細工のようになめらか。
イバラのようなアザが、左手に浮かんでいる。まるでつぼみみたいに、薬指の付け根が、膨らみだす。
青白い肌の上に、一輪の青薔薇が、咲いた。