きょうは「あの日のこと」を書きたいと思う。
15年前のあの日のこと。
あの日、私は夜勤の予定だった。
そのため、あの時間は昼寝をして出勤に備えているところだった。
家には自分しかいなかった。
妻は育休中であり、自動車教習所へ通っていた。
上の子は保育園に行っており、下の子は教習所に行っている間だけ実家に預けていた。
揺れる前、地鳴りを聞いていた。
その数日前にも大きな揺れがあった。その時は会社にいて、かなり揺れたことを覚えている。私の会社は免震構造で建物を横に振って、揺れを逃がすといった措置が取られているため地震の揺れの後もゆっくりと揺れ続けるのだ。それが、ちょっとした車酔いみたいな感覚になる。
その時、同僚と「もっと大きいのが来たらヤバいな」なんて話をしていた。
まさか、本当にもっと大きいのが来るとは知らずに……。
地鳴りで昼寝から飛び起きた私は本能的に大きいのが来ると察知した。
次の瞬間、大きな揺れに襲われた。いままで体験したことのないほどに大きな揺れだった。
私はすぐに玄関の扉を開けに行った。あまりに揺れが大きく、家に閉じ込められたらマズイと思ったからだ。
世界が揺れていた。電信柱が左右にブンブンと揺れているのが見えた。
近くの駐車場にある車の防犯ブザーが大合唱していた。
揺れはなかなか収まらなかった。
近所の人も外に出てきていた。
ようやく揺れが収まり、テレビをつけて情報を確認しながら、まずは下の子を預かってもらっている実家に連絡を入れようとした……。
しかし、電話が通じなかった。
テレビではアナウンサーがパニックになっていた。
震度5。そう表示されていた。しかし、新しい情報が全然入ってこない。
私はパソコンを立ち上げて、情報を仕入れようとした。
しかし、どこにも最新の情報が出てこない。
ふとニコニコ動画を見てみようというアイデアが浮かんだ。誰から中継しているに違いない。そう思ったのだ。
ニコニコ動画では、色々な人が被害状況をリアルタイムで配信をしていた。
まだYoutubeが生配信とかをしていなかった頃だと記憶している。
そもそも、当時はガラケーであり、SNSなどもまだmixiくらいしか流行っていなかったはずだ。
揺れが収まったので、まずは実家へと向かった。
実家へ向かい、実家の両親と我が子が無事であることを確認。
実家では水槽の水が溢れ出たという被害があった程度で特に問題はなかった。
電話回線は繋がらないままだった。
妻に連絡をしようとしたが、連絡をすることは出来ない。
テレビとパソコンで情報収集を行っていると、電話が鳴った。
出てみると会社からだった。
私の会社はちょっと特殊な会社であるため、災害時優先電話というものが存在している。それで安否を確認してきたのだ。
そして、鬼畜なひと言も「これから出社できるか?」。
そう私はその日、夜勤だった。
なぜこのような事態でも鬼畜な発言をしてくるのかといえば、いま会社にいる人間たちが交代要員が来なければ帰れないからだ。
私は「行けると思います」と回答した。
まだ、この時は何が起きているのか、ちゃんと事態を把握できていなかったためだ。
しばらくして、余震が来た。
余震と呼ぶには大きすぎる揺れだった。
テレビ中継では、お台場で火の手が上がっているとか、空港に津波が押し寄せてきているといって情報が流れていた。
これは現実なのだろうか。そう思ってしまうような光景が溢れていた。
徐々に情報が集まってきた。
震源地は東北。東北地方は壊滅状態。
関東近県もかなりの被害が出ている。
そして、津波。
妻が帰宅した。無事だった。
自動車教習所では、教習中だったのだが、建物の屋根から何がが落っこちたりしてきっため、教習は中止となったそうだ。
上の子を保育園へ迎えに行き、下の子も実家から連れて帰ってきた。
私は出勤ために家を出た。
町を歩く人の姿はほとんどない。
不思議なことに車が全然走っていなかった。
駅までやって来ると、地下鉄の駅のシャッターは閉まっており、運行中止という貼り紙がされていた。
そうだよな。
そんなことを思いながら、会社にメールを送る。
電話は死んでいたのだが、メールは生きていたのだ。
「電車、動いていません」
そんなメールを送ったはずだ。
しばらくして返信があった。
「タクシーでもいいから来てほしい。会社についたらタクシーに待っていてもらって、他の人間をそのタクシーで帰らせるから」
そんな内容のメールが来た。
タクシー乗り場には長蛇の列が出来ていた。
しかし、タクシーは全然やってこない。
まだ、この時、都心部が地震のせいで大渋滞となっていることなど知る由もなかった。
タクシー待ちの列に2時間ほど並んだが、タクシーが来ないため諦めた。
いや、諦める前にタクシー会社が少し離れたところにあることを覚えていたので、そのタクシー会社へと行ってみた。
タクシー会社は誰もない。タクシーが一台もいなかった。
仕方なく会社に再びメール。
「タクシーもいません」
「きょうは休みにしてください」
そんな返信が来たため、私は家に戻った。
今考えると、私はとんでもない社畜だったようだ。こんな事態でも会社に行かなければならない。そう考えていたのだ。
家に戻ると、妻がスーパーへ行ってくると出掛けていった。
私はテレビ中継をずっと見ていた。
子どもたちは、まだこの事態をよくわかってはいないようだった。
それはそれで良かった。
津波が押し寄せてくる映像が流れていた。
なんなんだよ、これ……。
絶望に近い気持ちがあった。
私の住む地域は震度5強の揺れだった。
しばらくは余震が続いた。
妻とは代わり番こで寝るようにして、大きな揺れに備えた。
翌朝、鉄道が動き出したという情報とともに、家を出た。
都心に向かう電車はガラガラ。
都心から戻って来る電車には、疲れ切った顔の人たちでぎゅうぎゅうだった。
皆、昨晩は帰宅困難者となっていたのだ。
会社につくと、本来夜勤をするべき予定ではなかった人たちが疲れ切った顔で出迎えてくれた。
社内ではスプリンクラーが作動して、廊下が水浸しになってしまったそうだ。
その日の仕事は、本来の業務ではなく、被害状況の確認というのが業務だった。
数日後、福島第一原子力発電所事故が発生した。
テレビ中継を会社で見ていた時、建屋が吹っ飛んだ。
ああ……。
これまた現実なのかどうなのかわからない映像に面を喰らっていた。
あの日、現実ではありえないことが、現実に起きていた。
ある意味、あの日はターニングポイントだったのかもしれない。
防災への意識を再度持ち直すための。
だから、あの日を経験した私たちは忘れてはいけない。
いつ起こるかわからない自然災害という存在のことを。