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『お前ら全員狂ってる』菜月編・制作後記――「俺が守る」で、本当に守れるのか【ネタバレあり】

※ここから先は第8章「守る」〜第9章「いない」のネタバレを含みます。

まだ菜月編を読んでいない方は、
ぜひ本編を読んでから戻ってきてください。

それでは、
菜月という女の子について少しだけ。

「別れればいい」で、本当に終わるのか

菜月編を最後まで読んでくださった方へ。

菜月は、
元彼と別れています。

警察にも相談しています。

それでも、

彼女は元彼を恐れ続けています。

家に来るかもしれない。

待ち伏せされるかもしれない。

また見つかるかもしれない。

もう恋人ではないのに、

別れた相手の存在が、
現在の生活に残り続けている。

菜月編で一番大きく触れた社会問題は、

DV・ストーカー被害と、

「別れた後も終わらない暴力」

です。

「嫌なら別れればいい」

DVの話をすると、

「そんな男なら別れればいい」

という言葉を聞くことがあります。

理屈としては、
間違っていないと思います。

でも、

別れた瞬間にすべてが終わるとは限りません。

元交際相手による待ち伏せ。

復縁の要求。

繰り返される連絡。

自宅や職場への接触。

監視。

現在の日本のストーカー規制法でも、

こうした行為は「つきまとい等」として規制の対象になっています。

それは裏を返せば、

恋人関係が終わったあとにも、
支配や執着が続くという問題が、

現実に存在しているということでもあります。

海外の研究では、

DVから離れた「別離後」が、
必ずしも安全の始まりになるとは限らず、

暴力や支配が継続したり、
場合によっては深刻化したりすることも指摘されています。

だから菜月は、

「逃げなかった被害者」ではありません。

逃げた。

別れた。

警察にも相談した。

それでも、

終わっていない。

何も起きていない日も、怖い

ストーカー被害で怖いのは、

実際に何かをされている瞬間だけではないと思っています。

今日は来ないかもしれない。

でも、

明日は?

家の前にいるかもしれない。

帰り道にいるかもしれない。

電話が鳴るかもしれない。

知らない番号かもしれない。

何も起きていないのに、

「起きるかもしれない」

が消えない。

この部分には、
心理学的な裏付けもあります。

ストーキング被害は、

恐怖だけではなく、

PTSD症状や抑うつ、

他人への不信感、

身体的な不調、

人間関係の変化、

転居や転職など、

その人の日常生活そのものに影響しうることが報告されています。

特に元交際相手からのストーキングは、

他の関係からのストーキングと比べても、

被害の種類や頻度、
暴力被害のリスク、
恐怖感などが深刻になる場合があるとされています。

つまり、

「今日は何もされなかった」

と、

「今日は安心して暮らせた」

は、

必ずしも同じではありません。

菜月が恐れているのは、

目の前にいる元彼だけではない。

「また現れるかもしれない元彼」

でもあります。

実際に、「別れた後」に起きた事件

この問題を書くうえで、

現実のストーカー事件についても調べました。

その一つが、

2012年に起きた
「逗子ストーカー殺人事件」です。

被害女性は、
加害者である元交際相手とはすでに別れていました。

その後、
別の男性と結婚し、
新しい生活を送っていました。

しかし、

元交際相手からの嫌がらせや大量のメールなどが続き、

最終的に、
被害女性は自宅で殺害されました。

この事件では、

当時のストーカー規制法の不備や、
被害女性の情報の扱いなども大きな問題となり、

その後の法改正にも影響しました。

もちろん、

菜月編はこの事件をモデルにした物語ではありません。

ストーカー被害が、
必ず重大事件に発展するという意味でもありません。

ただ、

「もう別れたんだから大丈夫」

「警察に相談したんだから大丈夫」

とは、

簡単には言えない。

菜月が抱えている恐怖は、

決して物語の中だけに存在するものではありません。

「俺が守る」

そんな菜月に、

蓮は言います。

「俺が守る」

物語として見れば、

すごくわかりやすい言葉です。

怖がっている女の子がいる。

そこに蓮が現れる。

何かあったら、
俺が守る。

一見すると、

ヒーローです。

そして、

蓮は本気で言っています。

格好つけているだけではありません。

菜月が怖いなら、
自分がそばにいたい。

何かされたら、
自分が前に出ればいい。

蓮なりに、

本気で菜月を守ろうとしています。

私は、

その気持ちまで否定したくありません。

誰かが自分のために、

「俺がいる」

と言ってくれることが、

救いになる瞬間だってあると思います。

でも、

菜月編を書きながら、

もう一つ考えていたことがあります。

「守る」って、なんだろう。

蓮にも、倒せないものがある

もし元彼が目の前に現れたら、

蓮は戦えるかもしれません。

菜月の前に立つこともできる。

警察を呼ぶこともできる。

一緒に帰ることもできる。

でも、

菜月の中に残った恐怖そのものを、

蓮が殴って倒すことはできません。

「もう大丈夫だよ」

と言われたからといって、

その瞬間から大丈夫になれるわけでもない。

ストーカー被害による恐怖は、

加害者が目の前にいない時間にも残ることがあります。

これは、

菜月に限った話ではありません。

被害後にPTSD症状や不信感、
生活上の変化が続くことは、

実際の研究でも報告されています。

だから、

蓮がどれだけ強くても、

できないことがある。

守ることと、

その人の恐怖を消してあげることは、

同じではありません。

「守られる女」にしたくなかった

そして、

菜月を書くときに気をつけていたことがあります。

菜月を、

ただの

「DV被害に遭ったかわいそうな女の子」

にはしたくありませんでした。

まして、

蓮という男が現れて、

全部解決してくれる話にもしたくなかった。

蓮は菜月を助けます。

そばにいます。

守ろうとします。

それは、

菜月にとって意味のあることだったと思います。

でも、

菜月の人生の主人公は、
蓮ではありません。

菜月です。

被害者だからといって、

永遠に誰かから
「守られる人」になるわけではない。

怖がっていても、

自分で考える。

自分で選ぶ。

そして、

時にはその選択が、

助けてくれた人の望むものとは違うこともある。

そして、菜月はいなくなる

第9章。

「いない」。

菜月は、

蓮の前から突然いなくなります。

蓮にも、

読者にも、

菜月のその後をすべて説明しません。

ここは、

菜月編を書くうえで、
かなり大切にしたところです。

普通の物語なら、

蓮が菜月を守り、

元彼の問題を解決して、

二人がその後どうなったのかまで描くのかもしれません。

でも、

私はそうしたくありませんでした。

なぜなら、

蓮が菜月を助けたからといって、

菜月の人生が蓮のものになるわけではないからです。

助けてもらったから、

ずっとそばにいなければならないわけでもない。

その後の人生を、

報告し続けなければならないわけでもない。

蓮は、

菜月を守ろうとした。

でも、

菜月の人生を所有したわけではありません。

助けた人間には、「その後」を知る権利があるのか

これは、

菜月編を書き終わったあとにも残った問いです。

誰かを助けた。

守った。

そばにいた。

その人のために、
自分なりに必死になった。

だから、

「どうなったのかくらい教えてほしい」

と思う。

その気持ちは、
すごく自然だと思います。

蓮だって、

菜月がいなくなれば傷つく。

読者だって、

「菜月はどうなった?」

と思う。

でも、

助けたことによって、

相手の人生の続きを知る権利まで生まれるのでしょうか。

私は、

そこまで簡単には言えません。

「俺が守る」で、本当に守れるのか

菜月編で、

蓮は間違っていたのでしょうか。

私は、

そうは思いません。

「俺が守る」

と言ってくれる人がいることに、

救われる人もいる。

菜月にとっても、

蓮がいた時間には意味があったと思っています。

ただ、

その言葉だけですべてが解決するほど、

現実のDVやストーカーは単純ではない。

別れても終わらないことがある。

警察に相談しても、
恐怖がその日に消えるわけではない。

安全になっても、

心がすぐに「安全だ」と理解してくれるとは限らない。

そして、

誰かが守ってくれたとしても、

最後にその人の人生を選ぶのは、

本人です。

だから、

菜月編で書きたかったのは、

「強い男が、傷ついた女を救う話」

ではありません。

むしろ、

その物語の形に、

少しだけ疑問を投げかけたかった。

守るとは、

代わりに戦うことなのか。

危険から遠ざけることなのか。

そばにいることなのか。

それとも、

その人が自分で人生を選べるようになるまで、

隣にいることなのか。

私にも、

答えはありません。

ただ、

一つだけ思います。

「俺が守る」

という言葉は、

思っていたより、

ずっと難しい。

そして最後に、

菜月編を読み終えた皆さんに聞いてみたいです。

菜月は、

蓮に「守られた」と思いますか。

それとも、

最後まで誰にも守ることのできないものを、

彼女は抱えていたと思いますか。

そして、

菜月が「いない」と知ったとき。

皆さんは、

どんな気持ちになったでしょうか。

――綾瀬凪

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