作者によって異なっているのだろうけれど、リアルとリアリティの境界をどこに置くかは常に悩みどころです。
描いている世界と世界観に対して誠実でなければならないと同時に、読者が楽しめない話を描いても意味がないとも思っている。拘りと品質(娯楽性)の両立をしたい。
だから、例えば、視点キャラクターが死ぬのか否かについては、死ぬ時もあるけれど、大きな戦争でもなければ犬死の可能性は低く抑えて、出来るだけ何かを友人に対して残せるようにする。或いは、命と引き換えに、誰かしらを救ったり、何かを残せるようにする。と
勿論、大きな戦いでは犬死だってないと本当ではない。戦死者だって誰かの大事な人だろう。だけれど主人公格――黄昏ではマギーが――良い土地といい生き方を選んで、出来るだけ犬死しないような仕事を選び続ける限り、ご都合主義でなく味方のいきなりの大規模破滅を防げる程度の世界観に抑えてある。
つまり、大規模な破滅があり得ると認識し、それを避けようと意識する事で、あらかじめリスクを抑えられる。また抑えることのできる危険度しか土地的には存在していないことになる。
世界観の硬度が 「世界は非情だが、生き抜こうとする人間には希望もある」程度のポストアポカリプスに抑えられており、ディストピアでもなければ、絶望ものでもない。これはご都合主義ではない。
例えば、破滅を避けられない惑星など、そうした舞台設定の方が描くのに力量は必要とされるが、世界を救ったり、生き延びた時のカタルシスは素直に大きい。
しかし、わたしはご都合主義無しにそれを描ける力量が己にある気がしない。
今のわたしが描いても、きっと全滅エンドで、読者にとってのなんだこりゃ?にしてしまうだろう。鬱屈した感情などではなく、単純に計算の結果として。
品質を上げる為、私は時々、ダイスを振っている。だから、綱渡りの連続は可能性が低くなる。その分、主人公たちは知性や機知、機転と工夫、蓄積が行使する余地がある。そうした前もっての策略や用心深さがそれなりに作用する世界観でもある。
ポストアポカリプスでのスローライフ日常ものとして、程々の難易度なのだ。
油断すれば破滅するし、死ぬけれども、人類にも主人公たちにも猶予は残されている。
現実のように。
さあ、祈ってダイスを振ろう。