藍条さんの【三つのオルゴール】の話がドンドン戦火が大きくなり、最初はある国と国の戦いだったのが世界全体を飲み込んで行く大戦の話になっていく様子が、本当に長編異世界ファンタジーとして多層的に、重厚感と共に書かれていてものすごく面白いのです。凄いなあ✨とも思う。
本当に偶然、藍条さんとつい先日
「現実が一番凄いのは確か」
「ノンフィクションの凄み、重み。
その上でのフィクションの意義」
という話をちょっとする機会に恵まれたのです。
藍条さんの異世界ファンタジーがスゴイのは、多分【現実が一番凄い】という、現実世界に対する重みを感じているので、頭でフワフワと想像しただけの机上論の空論を書いていない、現実の人間にも伝わる「熱」や「魂」を大切にして書いているから、それが藍条さんの異世界ファンタジー、ある意味頭の中で生み出した「だけ」のものに現実のような強い輝きを与えてるのだと思います。
この戦争描写……。
四年前に見ていたらすげええええええええええええええええ✨✨ともっともっと胸に響いていたんだろうなと思う。
でもこの四年間で完全に私の基準が変化したのを感じます。
現実の戦争に巻き込まれた人たちの日常を毎日四年間、彼らが発信してくれる範囲でしかないのは重々承知で、もっと本当は凄惨で、発信すら出来ない苦しみがあるのだろうと分かっているのですが、それでも明らかにされる部分はずっと見て来たから。
やはり強く思います。
【現実が一番凄い。凄まじい】。
永遠に創作は敵いません。
特に、「防衛戦」を強いられる人の心は多分一生推し量れないと思う。
他国を侵略する連中の心境は、まあある程度想像出来ます。
しかし戦う気はなかったのに侵攻され、生き残るために防衛戦をやるしかない立場に追い込まれ巻き込まれた人たちの気持ちは、団結していても、本当はその更に心の奥に、私たちと同じ純朴な感覚が生きていて、残っていて、
「普通に暮らしたい」
という圧倒的な願いが残っているものなんですよ。
巻き込まれて、兵士になる。成らざるを得ない。
適応して兵士になれる人もいる。
でもなれない人もいるんですよ。
ある瞬間はなれたが、なり続けられない人もいる。
なれなかった人だったのに、あることがきっかけになった人もいる。
戦うという気持ちは極めて流動的なものです。
今日体調がいいからいつもより頑張れそう、なんてものが私たちにもあるように、
防衛戦をする人たちにもあるのです。
時間経過も関わって来る。
誰を失って、
誰を失ってないかも関わって来る。
数えきれない要因が、項目として、突然戦わなければならなくなった一般人の心に常に戦うか戦えないかの問いかけをしている。
防衛戦をする人の心は常に揺れ動いているものなのだということを実感した四年でした。今も続いてますが。
明らかに私の中で戦闘描写、戦争描写に対しての創作の、感じ方のハードルが上がってますね。
もしかしたら一生「素晴らしい戦争描写」なんて思えなくなったのかも。
心が全く動かない。
でもそれでいいんじゃないかとも思っています。
「創作で描いた戦争描写が現実に勝る」なんて、思うこと自体多分、現実世界で巻き込まれて防衛戦を強いられている人たちへの侮辱になると思うので。
勝てる訳が無いし、
勝つ必要もない。
ただ昨日普通に暮らして笑っていられたどこかの国に対して、他国が突然攻撃を食らわせるなんてことを、世界中の国々が条件反射で非難し止めることが出来る枠組みになればそれでひたすらいいのです。
私も戦記物を書く身として、胸に絶対刻み続けようと思います。
戦争を「かっこいい」みたいに書く作品は絶対に好きになれません。
それは現実の戦争に全く目を向けていない感性を持つ人間の書く作品だからです。
藍条さんの作品はこんなに戦争嫌いの私が見ても、描写の凄さで戦争の凄みが伝わってくれば来るほど、今の私は「現実の戦争もっと酷い。だから描写で飾り立てても全然凄くない」と感じる状態になっています。拒絶する態勢になっているのに、そんな私の心でも「読める」のがもはや凄いです。
私今生半可な戦争描写だの戦記物だの読んだら舌打ちしか出ない心理描写になってるので、そんな私が重厚に書き込まれた戦争描写を読んでも、全くイラつかないのがスゴイ。
つまり藍条さんの作品の根底にあるものは、戦争を忌み嫌うという最も戦記物を書くにあたって作者が大切に押さえておくポイントだと「私が思っている」部分を、きっちり押さえた上で描かれているのだと思います。
それがあるから、読める。
創作の戦争の話でも読める。時には感動できる。
場合によっては創作の戦争話なんかに一切価値はねえ!!! とさえ思うことがあるこの私でさえ、何か別の養分が摂取できてるから「この話は読む価値がある」と思えるのかもしれません。
私は戦記物大好きですが、
多分今一番読むのにハードルが爆上がりしてるのが戦記物、戦争ものです。
今一番自分の厳しい視線を向けてる自覚がある。
生半可な心理描写や、こいつ戦いに巻き込まれる人間なめとんなと思うような書き方をしている作品を見ると、逆に怒りが湧きたつほど、無茶苦茶今ハードルが高い。
そんな中、凄まじい戦争描写を描いて尚、根底に戦により犠牲になるもの、なることへの強い嫌悪とか、理不尽さを怒る心がちゃんと作者にあって、何か「戦争かっこいい」以外のものを真摯に書きたくて書かれている作品だけは、別の引力があり、それに私の心が反応することによって、ストレスなく読めるのだと思います。
文章力と、信条でしょうか。
これが宿った戦記物だけは、私は今読める状態ですね。
藍条さんのとこの作品はこれに当てはまっています。
戦争ものなので「素晴らしい」という言葉がなんだか使いにくいですが、
よい。
そこで描かれている人間たちの、生きる姿がよい。
叶わないと分かっていても、みんな生き残って欲しい。
そう願えるのが良い。
生半可な戦争もの読んでも今は私「(創作で描かれた戦争ものの登場人物である)お前らなんか生き残ろうが死のうがどっちでもええわ」くらいに厳しく感じてしまう時期に来てますね。
太陽で言うと太陽フレアの活動が最高潮に活発化している時期と言えるでしょう。
生半可な戦争ものの作品など来ても怒りで焼き尽くします。
現実がやっぱり一番凄い。
現実が一番強い。
これは永遠に私の中でもう揺るがないでしょう。
だからこそこんな私が「この物語素晴らしいなー✨」と人の頭でこさえたことを承知の上で心を揺さぶられ、いいなぁと思える作品は、間違いなく素晴らしい作品だと思うのですよね。
よろしいでしょうか。
ポイント押さえて頂きたいのですが、
私は一般人を巻き込むような戦争は大嫌いです。
ただ、「軍と軍の戦い」は好きです。
しかし巻き込まれた民兵がたくさんいるような「軍」は「正規軍」とはまた違うので、一般人と軍の戦いにニュアンスが違うので、こういうアンバランスな軍と軍との戦いは嫌いです。
「軍人」は好きなのです。
でも「侵略兵」は私にとって軍人ではなく「下衆」なので、軍人好き、の枠からはみ出てるのです。
また歴史をどこから捉えるかで「侵略」の立場も変わってきます。
魏と呉ならば、魏は侵略側で、呉は防衛側ですが、元々江東平定時にさかのぼると、そこを収めていた連中にとっては襲来した孫策軍は間違いなく侵略ですし。
しかし、孫策が攻めずとも、小競り合いは続いていました。江東は。
みんな仲良く協力し合って暮らしていた所に孫策が横暴に乗り込んで彼らの絆をたちきり平和を踏みにじったわけではないのです。争いは断続的に続いていました。それはいかん、江東に一つの国を打ち立てて、その国の中でみんな協力し合って生きて行くようにせねばというのが江東平定の意義なので、
侵略も定義とかは出来ないのですが、
しかし、ほっとけば平和にみんな暮らせていたのをある日ぶち壊すのは確実に下劣な侵略行為です。
軍は、私は、
防衛のためにあると思うのです。
戦争をする為ではなく、身を守る為です。それが大前提。
だから額面通りで言うと、「軍人」とは戦う人、ではないのです。
「守る人」。守護職なのです。
だから私の「軍人好き」にはその部分がある時のみ、適応される。
基本それを承知で軍に志願している人がいるのが「軍」なので、だから私はそういう場合に「軍カッコいい💕」ということがあります。
これは侵略者を容認する発言とかとは趣旨が違っています「守護職の生き様を賛美する」意味としてのみ、使っています。
私は三国志だと呉推しですが、こういうのをまとめてみると私が呉が好きなのも非常に筋が通っているんですよ。
私が劉備にあまり惹かれないのは、割と民を巻き込むところがあるからです。劉備推しの人って「いや元々戦乱の世で民は戦に巻き込まれていたし、劉備の人望が厚いから自然と民が彼に関わって来るのだ」と言いたいんでしょうが、慕われようと慕われなかろうと、民は民。軍は軍とするのが優れた指揮官の立ち振る舞いだというのが私の美学。
腰の折れたばーちゃんが付いて来ても「好きにしな」で済ませてはいけないのです。
まあ劉備には漢の民を守る大義があったとか、なんだとか、色々言うのは分かりますが、まあ一言で言うと「うるせえ!!!」です。
劉備が民兵に片足いつまでも突っ込んでるような戦い方をする感じが、私が蜀に惹かれない理由の一つですね。あと漢王室復興とかいつまで言ってんだもある。
対して魏は、呉に対する侵略国なので、推しから外れた理由です。
基本呉には、正直な所、長江を越えて洛陽長安まで攻め上がる利がありません。
ですから奴らは魏を侵略する理由がないのです。
あるとすれば蜀のように「帝を利用する曹操という奸臣を討つ」ですが、孫策が江東平定で一つの道筋を呉に示してくれました。江東の人々は長く都から離れ、長江の周辺で、漢王室の恩恵もあんまり受けなかった代わりに、支配も受けて来ませんでした。彼らは自然と自分たちを北方の混乱から守ってくれる長江のほとりで、独自の安定した暮らしを見出そうとする傾向があり、これは人間として非常に自然なことだと思うのです。
蜀にも、魏にも、出来ない生き方。
呉だけが出来る、非常に平和に生きる為に整った環境があった。
もしかしたら孫権が暗君として「二宮の変」を起こさなければ、魏と蜀は争い続けて衰退しても、呉だけは安定した国として栄えて行ける可能性もあった気がします。
そして呉が栄えれば、その地に行こうとする人も自然と増えたかもしれない。戦わずして天下統一を成し遂げられる可能性すら秘めていた唯一の国が呉だと私は思っていて、だからこそその滅多に存在しない素晴らしい可能性を私欲で潰した孫権は唾棄すべき最悪の王だと思っています。
とにかくだから小競り合いとかはしてても基本呉に出兵する理由はありません。
襲い掛かって来た連中を打ち払うか、長江への侵入口に敵の要所を作らせないために、要所だけは死守するための戦いに赴くか、それくらいです。
よく「孫策と孫権は指揮官としてのタイプが違う」と言われるのですが、
考えても見ろ。当たり前だろ。
孫策は何も持たない場所から江東平定を始めました。進軍しなければならない指揮官だったのです。
対する孫権は兄貴が成し遂げた江東平定を盤石にするのが使命。
こいつが国ほったらかしで孫策のように他国をガンガン侵攻する指揮官タイプだったら馬鹿でしょ。もはや。
孫権が地固めするタイプの王になったのは、そうする必要があったからです。
出て行く必要が無かった時代の王なのです。
孫策は出て行かねばならない時代の軍を率いてた指揮官。
それは二人の人間性の違いとかではなく「呉にとって必要なことをした」ことによる違いです。
よって孫策が猪突猛進の性格で、孫権が冷静沈着な性格というわけでは、一概にないのです。その証拠に【二宮の変】という歴史上でも胸を張って愚かと言える行動に孫権は出ました。あれは王の驕りであり、驕った性格を要するに孫権はしていたのです。驕った性格をしていない人は二宮の変とか絶対に起こしません!😇
一度皆さんも、自分が戦争というものをどう思うか、軍をどう思うか、
何が好きで、何が嫌いで、
何を指して、
何を指してはないのかとか、
自分の中で考える機会を持ってみるといいかもしれませんね。
私が思うに、そういう明確な考察を持たずに「戦記」や「戦争」を書きに行ってる人は多く、大概そういう作品は私も眉を顰めるような出来になっていることが多いです。
戦記を愛するものよ。決して戦を賛美するなかれ。
それ以外の部分で、勝負してない作品には戦に巻き込まれる人間の悲哀や苦しみが全く描かれていないことが多々ありますね。
そういう作品は私の中で戦記物や戦争ものとして非常に低評価になります。
軍は基本戦おうと望んでる者たちが属していると思って下さい。なのでこの人達が戦で命を失うことは「強制されたこと」とはちょっと意味合いが違います。
また、三国志のような戦乱の世では「食うためにとりあえず軍に入ったが、全然戦いたくない。戦うの怖い」みたいな人も軍人になっています。
しかし残念ながらこの方は民兵ではなく軍人に私は分類します。
将官だって戦闘狂ばかりではないです。軍人家系だから自然と軍人になるんだ自分はと思い定めてなった人もおり、「食わせてもらうために軍に入った」はもはや立派な志願理由です。他にも寺とか食わせてもらえる場所はありますし。
私が一番可哀想だと思うのが、本当に侵略を受けて生きる為に、一丸となって戦うしかないから軍に属するしかなかった人。
この人達は民兵です。
酷い戦線とかに送られて欲しくないし、ほぼ民なのです。
守られて欲しい人の分類に入ります。
色んな線引きがあるんですよ。本当に。
陸遜は防衛国の防衛軍に属し、防衛戦を最も得意とし、大勝利を収めても余計な追撃戦とかは慎んだ、私にとって理想とする軍人像なので大好きなんですよね……!✨
しかも私だけじゃないですよ。
【陸遜の黄龍退治】の例にあるように、陸遜が転戦しながら駐屯した地では、民間伝承で陸遜が活躍する話とかが作られているということは、やはり駐屯した土地では民を労わり、高圧的に接したりするのを厳に慎んだのだと思います。
民に優しい軍人さん最高であります!✨
だがとにかく私にとって【現実が一番凄い】はもう揺るぎない真理です。
先日東京大空襲が行われていることを、日本の他の地で知らせを受け、東京の人たちが無事でいるように……、と祈りを込めて読まれた詩をとある美術館で目にしたのですが、絵画メインの美術館展示なのに、その詩が作られた状況の説明を読んだ時に、今の自分の、ウクライナが大規模な攻撃を受けていると報せが入った時に、戦場で戦っている、顔を覚えた軍人さんとか、その人たちの家族、離れて街にいるだろう人たちがどうか無事でいてくれ……と願う気持ちにシンクロして、その詩を見た瞬間三秒で涙が溢れて号泣しました。
美術展示の趣旨は絵画だったので、号泣している私を見た人は絵でこんなに泣くなんてなんて感受性の強い人なんだろうと感心したことでしょう
違う 絵じゃねえ……!! 東京大空襲を外から知らせを受けて、皆の無事を祈っていた人の気持ちを歌った詩を読んだからなんだよ……!!
しかし、どうですか。
現実世界の、他国の戦争など、全く興味が無い方。知らん方。
そういう人が見てもあの詩は「ふーん」で終わった単なる手紙でしかない。
しかし現実世界をもちゃんと見つめ、現実世界に敬意を払っていれば、
違う時代を生きた人の「創作」にさえ、同じものを共有し、共感し、共に泣けるわけです。
これが創作の真価でありますが、
必ず作者自身が現実の価値を知っているからこそ、
辿り着いている境地です。
現実の価値を重んじない作者が書く作品はつまり、創作という領域においても空虚なのです。