第2章:茶屋の売り上げアップは癒しの力で
白澄が『月見亭』に住み着いて三日目の朝。美月は、彼の正体を茶屋の従業員――病気の母の看病でほとんどいないが――や近所の人に説明するのに苦労した。
「ええと、父の昔からの知り合いの息子さんで、しばらくうちに身を寄せて、修行を手伝ってくれることになったの!」
無理矢理押し通した説明だったが、白澄があまりにも優雅で、接客態度も完璧だったため、美月以外の人間は誰も疑わなかった。彼の静かで穏やかな佇まいは、客に不思議な安心感を与える。
しかし、肝心の売り上げは一向に伸びない。美月が毎晩、帳簿とにらめっこする顔は険しいままだ。
「白澄。あんたの『癒しの力』とやら、本当に商売に使えるの?」
夕食後、茶菓子に癒し効果を付与するという白澄の提案を試していた美月が、ふてくされたように言った。
「もちろんだ、奥方殿」
白澄は美月の隣で、熱心に茶団子を練る美月の手元を覗き込んでいる。彼の近くにいるだけで美月は肩の力が抜けるのを感じるが、それが売り上げに直結するわけじゃない。
「ほら、やってみてよ。このわらび餅に癒しの力を注入して」
「分かった」
白澄はわらび餅の入った皿に手をかざし、目を閉じた。美月には何も変わった様子は見えない。
「……で? 何が変わったの?」
「ふむ。私の癒しの力は、傷や病を直接治す力だが、契約者である君が近くにいて、親密であればあるほど、物にその力を付与することができる。今は、わらび餅がほんのり温かい気の膜に包まれているだろう」
「気の膜? 全然見えないけど」
美月が一つ食べてみる。いつも通りの、美味しいわらび餅だ。
「違いは……わかんないわね。ただの美味しいわらび餅よ」
「まぁ、君は私の契約者だ。私から常に癒しを受けている状態だから、些細な変化は気づきにくいだろう」
白澄はそう言って、美月にそっと寄り添った。彼の腕が美月の背中に触れるか触れないかの距離に近づくと、美月の体の奥から、じんわりと温かさが広がっていく。
「っ、ちょっと!くっつかないでよ!」
美月は慌てて体を離したが、その瞬間、白澄はにっこりと微笑んだ。
「ほら、奥方殿と親密になると、力が増すのだろう? 私は今、癒しの力を増強しているのだ」
「これは、業務の一環なんだからね! 勘違いしないでよ!」
美月は顔を赤くしたが、同時に、店の再建のため、と自分に言い聞かせた。心の中では、白澄がちょっと可愛いと思ってしまっていることを認めたくない。
二人三脚で、茶屋の経営方針を話し合った。
「うちの店は、茶団子とわらび餅以外にも色々置いてるけど、どれも中途半端なのよね……」
「ならば、思い切って休憩スペースで出す茶菓子は、その二つに絞ってみてはどうだろう。その分、土産物の種類を増やして、私たち印の『癒しの力入り』として売り出すんだ」
「なるほど……。イートインで長居されず、土産を買って帰ってもらう。回転率も上がっていいかも」
そして、美月は白澄の提案に乗って、地元でちょっと名の知れたVTuber、『Mikomeちゃん』に連絡を取った。
「Mikomeちゃん、湯ノ原温泉の紹介動画を作るのに、うちの『月見亭』も入れてくれないかな?」
ダメ元で連絡したところ、意外にも快諾! 湯ノ原温泉は「隠れた名湯」として、最近、若い視聴者の間で注目され始めていたのだ。
撮影の日、『月見亭』は満を持して白澄の「癒しの力入り」茶団子とわらび餅を提供した。白澄は、美月が恥ずかしがるのを無視して、美月にぴったりくっつき、力を注ぎ続ける。
「へえ、不思議!このお団子、一口食べたら、なんかすごくホッとする……」
Mikomeちゃんは目を丸くして、カメラに向かって喋った。
「わらび餅も、もちもちしてるのに、食べたら心の疲れが溶けるみたい! 湯ノ原の月見亭さん、ヤバいパワーフードある!」
動画は公開されるや否や、瞬く間に再生回数を伸ばした。『癒しの茶屋』として、『月見亭』の名前はSNSで拡散され、週末には、店の外に行列ができるほどになった。
特に、お土産の「癒しのお茶」と「お菓子セット」は爆発的な人気となった。美月と白澄が二人で和紙に包み、白澄が念入りに癒しの力を注いだその商品は、「仕事のストレスが消える」と都会の会社員の間で口コミで広がった。
「美月! すごすぎるじゃないか!」
初めて店の売り上げが借金の返済額を遥かに上回った夜、美月は興奮と疲労で泣きそうになっていた。
「これも全部、あんたの、……白澄のおかげよ。ありがとう」
「礼には及ばないさ、奥方殿。これは契約の一環だ」
白澄は、そう言いながらも、美月の喜ぶ顔を見て、嬉しそうに目を細めた。最初、美月への親しみは、封印を解かれたことによる「刷り込み」のようなものだったかもしれない。だが、共に店を立て直す喜びを分かち合ううち、彼の美月への想いは、確かな愛情へと変わってきていた。
そんなある日。
Mikomeちゃんの動画を見て『月見亭』を訪れた客の一人に、都内のベンチャー企業の社長がいた。彼は、美月たちの茶菓子と、白澄の癒しの力にすっかり魅了された。そして、美月が背負っている借金のことを聞き、驚くべき提案をした。
「宮原さんの抱える借金、うちの会社で全て買い取らせてもらいましょう」
「え……?」
「その代わり、この店、そして宮原さんのご実家をうちの会社の福利厚生施設として、買い上げさせてほしい。もちろん、家賃を払う形で、今まで通りお店と家に住み続けてもらって構いません」
青天の霹靂だった。借金、完済!
美月は、感激のあまり涙ぐんだ。そして、白澄と抱き合って喜んだ。
「やったわね、白澄! これで借金がなくなる! 本当に、本当にありがとう!」
「ああ、よかったな、美月」
白澄は、美月を優しく抱きしめ、美月の髪にそっと口づけを落とした。
その日、美月と白澄は、晴れて本当の「夫婦」として、茶屋の再出発を誓い合った。美月はもう、「店の為」という口実なしに、白澄を夫として受け入れ始めていたのだ。
しかし、借金完済という晴れやかな出来事の裏で、白澄の力の安定は、周囲の「封印」に異変をもたらし始めていた。
温泉街を囲む山々から、重く、ざわめくような「気」が流れ始めているのを、白澄は感じていた。
そして、その気の中には、彼にとって懐かしく、そして厄介な、ある存在の気配が混じり始めていた。