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「他者への手触り」に宿る、記憶の体温

 私は「家族」という存在が途方もなく好きで、大切に思っています。
 幸福なことに、良い両親に恵まれた。そのことに対する感謝の念は、日々の生活のふとした瞬間に、せき止められない泉のように胸の奥からあふれ出してきます。

 だからだろうか。自分が物語を紡ぐとき、どうしてもそこに「家族の関係性」の影を滲ませてしまいます。

 もちろん、作中で彼らの家族の一挙手一投足を最初から最後まで、すべて事細かに説明するわけではない。生い立ちを年表のように並べ立てる必要はないのだ。そうではなく、私は登場人物がふと見せる「他者に対する思いやり」の端々に、その背景を潜ませたいです。

 例えば、目の前にいる生き物に対して、彼らがどれほどの優しさと慎重さを持って距離を測るか。不躾に触れたりしない配慮。
 出先で美味しいものに出会ったとき、「家で待っているあの人にも食べさせてあげたい」と、自分が一番好きなものを包んでもらって嬉しそうに帰路についたり、次来た時にご馳走したいから準備したり……

 そんな何気ない一コマを描くのが、私はたまらなく好きなのです。

 言葉で「私は愛されて育ちました」と語らせるよりも、その行動や人との接し方のなかに、「この人は確かに、誰かに慈しまれ、守られて大人になったのだ」という確かな人となりを薫らせたいなぁと。

◇◇◇

 人は、全く知らない言語を突然話すことはできないです。それと同じように、他者に対して「何かをしてあげたい」と自然に手が動くのは、かつて自分が誰かから無償の愛情を向けられた、その記憶の再現なのだと思うのです。

 頭で覚えている記憶だけではない。
 幼い頃、寒いなと震えたときに「これ使いなさい」と包んでくれた毛布の温もり。
 泣いたときに静かに背中をさすってくれた手のひらの大きさ。
 自分が美味しいものを食べて笑顔になったとき、それを見てそれ以上に嬉しそうに笑っていた、誰かの優しい眼差し。
 やってはいけない事、人に対して言ってはいけないことを諭してくれるのも愛だと思う、私が他所で失敗しないように叱ってくれるのは間違いなく愛情。

 そうした「愛された記憶」が身体の細胞に染み込んでいるからこそ、人は目の前の誰かが困っているときに手を差し伸べ、自分が得た幸福を「あの人にも」と分け合いたくなる。他者に差し出す優しさの型は、自分がかつて受け取った愛の器の形そのものなのだと思うのだ。

 私が物語の中で描きたいのは、きっとその美しい循環。
 血の繋がりがあろうとなかろうと、かつて誰かから注がれた温かな記憶を、今度は別の誰かへと手渡していく。その手触りの優しさを、私はこれからも、物語という不器用で、けれど一番信じられる形を借りて、丁寧に書き残していきたいと思っています。

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