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三浦啓之助について

三浦啓之助について書いてみたいと思います。

三浦啓之助は佐久間象山の息子です。
正妻は勝海舟の妹・お順でしたが彼女との間に子は出来ず、必然的に妾・菊の子である啓之助(新選組に入隊する前までは佐久間格之進)が嫡男となりました。

象山はお順を娶る際、表向きは菊を離縁したことにしていましたが、実は離縁はせず、秘かに関係が続いていたようです。

ただし菊が一体何処に住んでいたのか、啓之助が頻繁に実母と会えていたのかは不明です。

元治元年(1864)旧暦7月、象山は肥後の河上彦斎(人斬り彦斎)に斬られ、命を落としました。
その時啓之助は満年齢で15歳。(数え17歳)

佐久間家は象山が落馬し、背中を斬られた──武士にあるまじき醜態を晒した、と言う理由でお取り潰しになってしまいました。

しかし象山の検死結果に背中の傷など無く、実際は息子の啓之助だけではなく、啓之助の実母・菊を連れて京に来ていたのが問題になったのでは、と考察する人もいます。

遺児であった啓之助を心配し、象山の死から間もない頃、新選組に入隊させたのが象山の弟子であった会津藩士・山本覚馬(新島八重の兄)です。

啓之助は入隊直後「禁門の変」に新選組隊士として出動しています。

が、2ヶ月後、京都所司代である桑名藩主・松平定敬は「象山は幕命で危険な京に呼ばれたのであるから、佐久間家が取り潰しとなるのは理不尽。所司代も面子が立たぬ」と土方歳三に啓之助の松代藩への取り敢えずの帰参の折衝を頼んだのですが、啓之助は松代への帰参を断っています。

父が斬られ、新選組に入隊してから僅か2ヶ月で松代への「取り敢えずの帰参」(御家の再興はまだ正式決定ではなかった)をすることは、啓之助に取って納得いかないものだったのかもしれません。

この時点で啓之助は満ならまだ15歳の年齢です。

その後の啓之助は、2年後の慶応2年(1866)旧暦7月に勝海舟が新選組に向けて「甥が世話になった」という内容の手紙を書いているので、その頃除隊したのではないか?と見る向きもあります。

けれども啓之助の除隊については信頼の置ける資料が残っていません。

歴史資料としては極めて怪しい西村兼文の「壬生浪士始末記」(新選組始末記)と、それを元にした更に怪しい(創作の部分が多い)子母沢寛の「新選組遺聞」にだけ、「啓之助の乱行」が記され、しかも子母沢「遺聞」には、シンプルに「乱行が多かった」と書かれただけの西村「始末記」より、もっと盛られた大袈裟な形で書かれています。

曰く「土方と沖田が将棋を指しているのを見ていた隊士に(差料は立派だが腕が伴っていないと馬鹿にされたので)抜刀して斬りかかり、沖田に投げ飛ばされた」

「屯所の門前で肉を売っていた女を、隊士・芦谷昇と共に斬り殺そうとした」…

実際は新選組(や桑名藩)としてはとりあえず啓之助に穏便に松代へ帰ってもらいたかったのですから、仮にそんな「乱行」をしたなら、切腹処分まではいかなくとも、それを理由に即刻除隊させ、松代に帰すことが出来たはずなので、「始末記」「遺聞」に書かれた「三浦啓之助の乱行」はフィクションであった、と言わざるを得ません。

肥後の出身であったという監察方の芦谷昇とは仲が良かったかもしれない形跡(後述)があります

が、芦谷と共に新選組を脱走し、乱行の道中の末に捕縛され、松代へと帰された…というのも「始末記」「遺聞」のみに書かれた話なので、事実では無いと思われます。

一方、岐阜の侠客・水野弥三郎の、慶応2年末に啓之助に宛てた「芦谷昇を自分の所で預っているが、この芦谷が京に無事帰れるよう、伊東甲子太郎に掛け合ってみるつもりだ」という手紙がある…とし(詳細は不明)、三浦啓之助は慶応2年末までは在隊していたのではないか?と考察する人もいます。

しかし、仮にこの手紙が本当にあったのだとしても、「新選組にまだ在隊していた三浦啓之助」に宛てた物なのか、「既に松代へ(とりあえず)帰参した啓之助」に宛てた物なのかは、はっきりとしていません。

(水野弥三郎が伊東に掛け合うつもりだったのなら『新選組に在隊していた啓之助』にそのような内容の手紙を書く必要はない)

啓之助を松代まで送っていった監察隊士・芦谷昇の新選組への帰隊が何らかの理由で遅れてしまい、その身柄を預った水野弥三郎が、芦谷を心配していた啓之助に宛てた手紙だった可能性もあります。

三浦啓之助こと佐久間格は、明治3年にようやく松代藩への正式な帰参と佐久間家の復興が認められました。

そして明治4年から明治6年まで慶應義塾で学んだこと、明治6年に結婚し司法省に出仕したこと
明治8年に泥酔し巡査と揉め事を起こしたこと、その後に愛媛県の松山裁判所判事として赴任したこと、明治10年に若くして急死したらしい事しか判っていません。

写真は維新前に写したらしき三浦啓之助=佐久間格のものですが、非常に幼く見え、「始末記」「遺聞」に書かれたような乱行が出来た人物には見えず、二つの怪しい「資料」に随分と悪く(しかも子母沢寛は西村の『始末記』より盛っている)書かれてしまった、気の毒な人のように思います。

7件のコメント

  • こんばんは!

    いつも新撰組関連の知識が豊富で脱帽です。
    私も日本史はそこそこ得意だったはずですが、やはり受験勉強の知識止まりですね…
    小説に落とし込めるネタがいっぱいあるのはやはり小海さんの武器だと思います。
  • 広井すに様、今晩は。
    コメント誠にありがとうございます。
    実は私も高校卒業ぐらいまでは子母沢寛「新選組三部作」のうち、「新選組始末記」「新選組遺文」は史実だ、と思っていました💦
    しかしよく読むとどうもおかしい所も…

    そして日野に通うようになってから子母沢の著書はほとんどフィクションである、と教えてもらった次第です😅

    これをどれぐらいネタにできるかは全く自信がないのですが…

    悪く言われてしまっている人への誤解が
    解ければ良いな、と思っております。

    コメント、誠にありがとうございました。
  • 生き字引の域ですね。(*´ω`*)
    まったく、すごいです。
    尊敬しておりますm(_ _)m
  • 新選組は有名ですけど、一人一人のことはよく知りませんでした。
    こうして見ていくと、一人一人にドラマがあるんだな…と実感します。
    好きなものの研究って楽しいですよね?
    またいろいろ教えてください!!
  • 神室海夜様
    コメント誠にありがとうございます!
    いえいえとんでもない😅
    長文でお恥ずかしい限りです。🙇☘️

    るいすきぃ様
    コメント誠にありがとうございます。
    何かこう、ずらずらと書いてしまいまして…
    >楽しい はい!それはもう😅💦
    史実?を知るのも楽しいですし、男性の方も大島渚監督の「御法度」を御覧になっている方がいらっしゃるようなので、るいすきぃ様の読書評論のような近況ノートを書いてみたいです…!
  • 昔の人はずっとすっと年下でも、今の年代よりしっかりしてますよね。下手すると国の行末のことを考えてたりして。 とても現代の同年代の考えが及ばないような崇高な考えを巡らせていそうです。 豊富な知識とそれを活かす小海倫様の思考力に思わず、崇拝しちゃいそうです(*^_^*)
  • 千央様今日は!近況ノートへのコメント、誠にありがとうございます!
    そうですね…特に三浦啓之助のような存在は、父親をテロリストに殺害されたということもあり、国の行く末を考えるなり、その年よりも大人びていたと申しますか、そうならざるを得ない時代だったように思います…

    >知識 とんでもございません!💦💦
    付け焼刃です…🙏🙇💦
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