一般的にはよく「新選組は内ゲバばかりだった」と言われます。
新選組と言えば内ゲバ、内ゲバと言えば新選組…
しかしそれらは、本当に全て「内ゲバ」(近藤・土方等による内部粛清)だったのでしょうか。
それにつき、少し書いてみたいと思います。
①殿内義雄(とのうちよしお)・家里次郎(いえさとつぐお)
最初の「粛清者」だと言われ、特に殿内については近藤勇の手紙に「殿内という人は失策があったので天誅が加えられた」とあり、近藤、または近藤と沖田総司の二人に殺害されたのではないか、とも言われ、その原因は初期の壬生浪士組の中での権力争いだったとも言われていますが、殿内・家里の「名簿の順番」は文久3年旧暦3月15日、結成・お預りが許可されたばかりの会津藩の記録の1番最後。
僅か27名しか居なかった名簿の1番後に居たのですから、近藤・芹沢等との権力争いも何もありません。
壬生浪士組の結成直後、既に会津藩や老中板倉勝静に疑われていたようです。
疑いの理由は、この二人は清河八郎と懇意であり、京都に武士が学ぶ「反徳川の学校」を作ろうとしていたからだとも。
家里次郎も脱退後の4月に芹沢鴨等に殺害されており、この二人の殺害は板倉、もしくは会津藩の「命令」によるものであったと言われています。
②芹沢派
近藤派と芹沢派は仲が悪く、また芹沢は非常に乱暴で、近藤派により粛清された…と言うのが「通説」です。
しかし芹沢が急に乱暴になったのは「8月18日の政変」の後。
京では長州派はもちろん、水戸の天狗党も地下に潜った辺りです。
芹沢派も近藤派も、京には開国反対の孝明帝に向い、いつ外国勢が攻めてくるのかわからない。
その先駆けとなって戦いたい。
そう思ってやってきました。
ところが「8月18日の政変」後、壬生浪士組は京に潜んだ長州は勿論、水戸天狗党の浪士も捕縛しなくてはならなくなり、そのジレンマが芹沢を「角屋での乱暴」に走らせる等しました。
「大阪力士事件」は力士達の方から壬生浪士に仕掛けた喧嘩であり(後に和解)「大和屋襲撃」も壬生浪士はやっていません。
芹沢が「大和屋襲撃」に無関係だったアリバイもあります。
因みに本当は新見錦の方が荒れており(やはり水戸浪士としてのジレンマがあったのかもしれません)彼は文久3年5月までに自ら新選組を除隊、水戸系志士の世話になったあと(そこでも暴れ)長州監察使の公家の護衛として長州へ行き、そこでも暴れ、長州藩士に切腹させられました。
新見の墓は、今は墓石がないそうですが、山口県にあります。
そして文久3年9月14日、攘夷志士活動へのジレンマを抱えた芹沢は、土方歳三や沖田総司、井上源三郎、原田左之助等を引き連れ、壬生浪士全員の署名を持ち、反徳川宮家の有栖川宮家を「武家伝奏」という武士と宮家を取次ぐ役割の公家を通さずに、突然訪問してしまいます。
仮に芹沢派と近藤派の仲が本当に悪かったなら、この有栖川宮家訪問に、土方達は加わらなかったでしょう。
やはり近藤派も攘夷への気持があり、芹沢派と仲など悪くはなかったようなのです。
有栖川宮家も突然の壬生浪士の訪問を迷惑に思ったようですが、会津藩の面子も丸潰れ(有栖川家への訪問=清河同様の裏切りと判断)となり、会津は近藤派に芹沢派の粛清を急遽打診。
近藤派が芹沢派の粛清に応じなければ、会津が使っていた大垣屋清八・会津小鉄(上坂仙吉)が芹沢・近藤両派の粛清に動く可能性もありました。
つまり、芹沢派粛清もまた「会津の命令」だったようです。
③油小路事件
芹沢派粛清、池田屋事件と並び新選組内では有名な事件──内ゲバだと言われています。
しかし、伊東甲子太郎やその一派が最初から倒幕志向であったなら、なぜ一旦新選組に入隊(入局)したのだろう?という疑問がわきます。
伊東甲子太郎は慎重な人で、新選組に正式入隊する前は近藤勇に何度も色々な質問をしています。
さて、伊東は新選組在隊中に、若年寄の永井尚志(大河新選組!では佐藤B作氏)にその才能を買われ、非常に可愛がられました。
慶応元年末、第一次長州征伐の後始末のための広島会談へ、近藤勇や伊東甲子太郎、武田観柳斎は「若年寄・永井尚志の家来」という立場で付いて行きました。
その「広島行き」で武田観柳斎は何らかの失態を犯し、新選組内での立場が悪くなってしまいました。
武田は池田屋事件で最も活躍した隊士の一人だったので、長州に対して寛典論(幕府にも長州を追い詰める余裕が無かった)を唱える永井に反発してしまったのかもしれません。
(近藤は寛典論を唱えたようです)
武田は慶応2年、自ら新選組を除隊し、伊東甲子太郎等とは別派の小さな組織を作り、土佐や薩摩の様子を探っていたようですが、慶応3年鴨川銭取橋でその土佐、または薩摩から殺害されたようです。
その武田に代わり、二回目の「広島行き」その他の隊務で重用されたのが伊東です。
伊東を可愛がっていた永井尚志は、実は坂本龍馬とも繋がりを持ち、龍馬が取りまとめた大政奉還にも賛同していました。
(徳川慶喜や何人かの幕臣は新政府に参加できると思ったようです)
その若年寄・永井の影響を受けて伊東は三通ほど「大政奉還賛同」の建白書を書き、朝廷や幕府に提出。
しかし元々新選組を「お預り」していた会津藩士の大半は大政奉還に激烈に反対していました。
「大政奉還」は京で六年間(本当はやりたくもなかった)守護職として頑張ってきた会津の立場を、何ら保証していなかったからです。
そして慶応3年旧暦11月15日。
坂本龍馬・中岡慎太郎は京都見廻組により殺害。(近江屋事件)
この殺害命令が会津藩から京都見廻組に出たことははっきりしています。
そして近江屋事件の「3日後」に「油小路事件」は起きました。
この時期、新選組も戊辰戦争が起きるであろうことは既に予測済みで、本来こんな外聞の悪い「内ゲバ」など起こしている暇はありませんでした。
伊東甲子太郎も、新選組を信じていたので夜、1人で近藤の別宅に出かけたのでしょうし、他の御陵衛士達も町役人の
「伊東先生は土佐系の浪士と口論になり斬られた。遺体の番は新選組がしている。引取りに来てほしい」
という言葉を素直に信じ、油小路七条の辻󠄀に行きました。
その後必死で脱出した篠原泰之進、富山弥兵衛、三木三郎の三人(加納鷲雄は現場に行かなかった可能性が高い)は、初めて土佐藩邸を頼るも「新選組が何をしにきた」と拒絶され、次に薩摩藩邸に逃げ込むも拒絶されかけましたが、西郷派の中村半次郎に取りなされ、何とか命拾い。
しかし、その後は「赤報隊」という、言わば薩摩に戊辰戦争で使い捨てにされた「外人部隊」に入れられ散々な目に遭いました。
つまり、伊東も御陵衛士達も、最初から土佐や薩摩に内通していた可能性は低く(そもそも薩長土が欲しがる、治安部隊にすぎない新選組の有していた情報など無かった)、「油小路事件」は坂本龍馬殺害と連動した、大政奉還への激烈な反対で、一種の恐慌状態にあった会津藩から新選組への「厳命」だった可能性が高いのです。
穏やかな大政奉還を信じていた若年寄・永井尚志もやがて考えを改めたのか、その後は箱館戦争まで行きました。
後世に篠原泰之進や阿部十郎が「伊東と御陵衛士は最初から倒幕派であり、新選組を倒幕派に転向させる為に入隊した」と証言したのは油小路事件のトラウマから出た虚言かと思われます。
新選組は決して「やりたい放題なだけの集団」ではありませんでした。
幕末〜維新=ペリー来航の1853年から箱館新選組解散(箱館戦争終結)の1869年。16年間。
変転の多かった時代の中、むしろ6年間「も」存在したのは「やりたい放題」ではなかったからだと思われます。
本作「Shanghai samurai dad&son」ではそれらの説を採用していますので、何とぞご容赦のほど、宜しくお願い申し上げます。
あと「抽選で」図書券当たりました。
ナツガタリ…?のです。
普段くじ運もないのでびっくりしました。
