今でも覚えてる。
小学校2年生の授業参観の日。
学活の授業で自分の名前の由来と、将来の夢を発表した。
もちろん名前は言えないけれど。
将来の夢は「お金持ちに飼われている猫」だった。
今考えれば、ひどく非現実的であり、そしてひどく現実的でもあったと思う。
もちろんみんなからは笑われた。
母は何か恥ずかしそうな顔をしていた記憶がある。
最近の私の流行は、プロアマ限らず小説家の人とボイスチャットすること。
ただでさえ小説は流行りじゃないのに、わざわざこの界隈に入ってくる物好きは、こぞって面白い。
いつもみたく通話に勤しんでいると、ガラスの破断音が聞こえた。
ツン、と鼻につく赤ワインの匂いと共に。
重い腰を上げてリビングを見にいくと、凄惨な光景が広がっていた。
机の上に置いてあった赤ワインが猫が瓶に触れた拍子に、真っ逆さま。
幾筋もの赤い液体が床を這う。
反面、猫はご満悦である。
猫にしてみれば小突いた相手が落下死して血を流しているのだから。
これが野生の闘争本能というやつか、などと暫し関心した刹那、現実に引き戻される。
人間界でも憎めない相手、というのは一定数いる。
でもここまで憎めない動物も珍しい。
私の家の猫の異名。
「トイレットペーパー・デストロイヤー」
文字通りだ。
彼は事ある毎にトイレットペーパを駆逐していく。
私の家はトイレが複数個あるのだが、一週間に一回はどこかのトイレットペーパーが犠牲になってる。
恐ろしく鋭い爪で、心臓をひと刺し。
お腹を牙でふた噛み。
襲われたトイレットペーパーは例外なく細切れになり、残るのは茶色い骸のみ。
何人の犠牲者を出したことか…
でも憎めない。それでも憎めない。
あの罪な動物をどうしてやろうか。
“猫というのはつくづく不思議な生き物だと思う。彼らにはルールというものがなく、ただそこにいるだけで完全な存在なのだ。”
——— 村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
あぁそうだ、私はこの社会から縛られない自由奔放な姿に憧れたのだ。
「人間とはこうあるべき」という人間が自ら構築した価値観は猫に存在せず、ただ生命として生きている。
そんな完全な存在。ニーチェの言葉を借りるならば、「超人」。
コクトーは、猫について「猫は気まぐれではなく、思慮深いだけなのだ」と表現した。
少なくとも私の家の猫はその限りではないように見えるけれど。
社会に縛られず、既存の価値観に侵されず、思慮深く、自由に生きる。
私の小学校2年生の時の夢は、未だに心の中で生き続けているのかもしれない。
