今日は、梅雨のような天気です。
よく知られている和歌「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ(ちょう)天の香久山」があります。
この歌の意味としては「春が過ぎて、夏が来たらしい。(夏になると布を干すといわれている)天の香具山に、真っ白な衣が干されていることよ」という様な口語訳が定説です。
しかし、昔から違和感を持っていました。
なぜ、香久山に衣を干すのか? 普通なら家や館の近く(庭など)に干すのが普通だろう。
「夏になると布を干すといわれている」というような説明がつくのだが、言い訳がましく聞こえる(そんな習慣があったのは、事実なのか?)
また「天の香久山」なのか、(実は)「雨の香久山」ではないなのか? 天の香久山では空想の世界のようだし、雨の香久山では、衣を干すはずがないし?
また「干すてふ」の訳が「干すことよ……」(感嘆を表わす)訳になるのか?
衣を干している様子を見て、そんなに感動するのか?
(実は)別の説を聞いたことがある。「春が過ぎて、夏が来たらしい。白く輝く衣のような羽を干す(広げる)蝶の姿が、梅雨の香久山にみられることよ」というような訳でした。(たしか、昆虫学者の説だったような……)
この方がずっと自然で、納得できる(蝶の生態を知っている昆虫学者ならではの訳かもしれないが)
かつての季節感では梅雨は夏の始まり。梅雨の始まった香久山で、木蔭に、雨を避けて止っている蝶の姿がみられたとすれば、季節感のある風景だろう。
私も、梅雨の晴れ間の山で、灌木に止まった(日の光を待つ)青く輝く美しい蝶の群れ(ギリシャ神話で西風の神、春の象徴、ゼフィルスと呼ばれる蝶の仲間)を見たことがある。
この訳の方が、作者の(持統天皇)観察眼、センス、とても美しく、細やかな目指や心が感じられ、蝶を見つけた時の、感動が伝わってくるし。
(衣を干す様子の歌では、大げさで、平凡で、感動的な気がしないのだが…… 極単に言えば「春が過ぎて、夏が来た。ああ、裏山に衣が干してある」みたいな……)