今も昔も、受験者を増やそうと学校側が四苦八苦するのは同じこと。とはいえ、数だけでなく、質も維持しなければ意味がない。戦前の少女歌劇も御多分に漏れなかった。
ここに、戦前の宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)の募集要項を見てみる。
・講師について
「教授及教師には外国の専門家並に斯界第一流の――但し官僚気質を好まない天才肌の芸術家を網羅して居ります」とある。しかし、時局のせいか、昭和14年(1939年)には「――但し官僚気質を好まない天才肌の」というところはカットされてしまった。
・学科について
予科一年、本科一年、というのは、現在の宝塚音楽学校も同様らしい。その後、研究科生として劇団に入団するのだが、昭和4年(1929年)~昭和11年(1936年)頃までは、研究科は3年までが一応のラインであり、その後は各自の自由で研究(舞台出演)を続けるもよし、退団するもよしということになっているようだ。その後、昭和12年(1937年)頃から、研究科は5年までに延長されている。
ちなみに、昭和4年(1929年)の時点で、予科では「女学校程度の普通教育」を、本科では「普通教育と共に音楽、舞踊、歌劇に関する専門的教育」を施し、研究科で「専らその専修の科目を研究練磨」するとされていた。昭和9年(1934年)にはもう少し内容が詳細になり、予科は「普通高等女学校の教程に従って普通教育を主とし、此の上に音楽、舞踊、ダンス等の基礎教育」、本科は、予科の時よりも「専門的教育」に進み、研究科で「専修の科目を一層研究練磨歌劇研究生として其修得するところを、随時舞台に発表する」と表記されている。
・募集人数と年齢について
まず、戦前の義務教育は小学校までだった。そのため、募集年齢もそれに合わせて13~14歳からになっている。それもあって「少女歌劇」と呼ばれていたのだろう。
昭和4年(1929年)では、以下のように記載されている。
「本校は毎年四月の新学期に際して
A、小学校卒業若しくは之と同等以上の学力ある十四才以上の少女 三十名
B、女学校卒業若しくは之と同等以上の学力ある少女 三十名」
昭和9年(1939年)では、以下の通り。
「新入学は毎年四月、入学試験を行って許可します。
A小学校卒業若くは同等以上の学力ある十三歳以上の少女 五十名
B女学校卒業若くは同等以上の学力ある少女 五十名」
数年の間に最低年齢が引き下げられ、人数が増やされていることがわかる。これは全く自分の推測になるが、二つの理由が考えられる。ひとつは、レビューの上演が恒常的になり、ダンスやコーラス要員として大勢の演者を育てる必要に迫られたこと。もうひとつは、東京宝塚劇場が昭和9年(1934年)に、その後、横浜、京都、名古屋にも宝塚劇場がオープンしたことである。実際、昭和4年(1929年)の時点では花組、月組、雪組、舞踊専科の4組しかなかったのが、昭和9年(1934年)ではそれに加えて星組、声楽専科、ダンス専科A組、B組、C組、D組が創設されている。複数の拠点で一年中興行を行うとなると、どうしてもこのくらい組がないとやっていけなかったのだろう。(ちなみに専科とは、花、月、雪、星の各4組に適宜投入されたその道のエキスパート集団と思っていただければよい)
なお、現在はどうなのか知らないが、戦前には入学試験(学術及び技芸の素質を考査)だけでなく、家庭訪問で本人や親の素行も確認したうえでなければ入学させない厳重方針をとっていた。
・環境や設備について
昭和4年(1929年)には、「教室も普通学科教室、舞踊教室、ダンス教室、声楽教室、ピアノ研究室、管絃楽教室等十七の多きに達し、生徒控室職員室、其他背景研究所等完備し、また遠隔の生徒のためには百人を容れる寄宿舎があります。そこには図書室、遊戯室、会議室、病室、食堂。浴室等の設備があり、舎監二名を置き、寄宿舎生は生徒監督及び舎監の監督のもとに規律正しい生活を営みつつあります」というもの凄く詳しい情報が載っていた。ありがたや。というわけで、拙作に出てくる寄宿舎や歌劇学校も大体これに倣っている。
ちなみに、昭和9年(1934年)時点では上記の文言はカットされていた。なんで! 知りたいのに!
……と、資料の豊富な宝塚についてはこのくらいにして、次に、赤玉少女歌劇団の募集要項を見てみよう。
赤玉少女歌劇団は、かつて大阪にあったキャバレー・赤玉の専属になる少女歌劇団。というと、酔客に見せるエロチックなものを想像するかもしれないが、流石に少女歌劇と冠するだけあって、(多少大人びた雰囲気になるのは仕方ないとしても)清純な美しいレビューを上演したようである。
同団が東京公演を行った際の脚本に、劇団の説明が記載されている。それによると、「研究予科、専科に別れ、音楽、舞踊、ダンス、の各課を教育専修せしめて、毎月其の修得技芸を公演として発表して」いるとのこと。ここでの専科は、宝塚の「研究科」とほぼイコールなのだろう。それ以外はあまり変わらない。というより、これらが少女歌劇の標準的なあり方だったということかもしれない。募集要項からは、「ダンス科」「日本舞踊科」「声楽科」「日本楽器科」「洋楽器科」に分かれていることもわかる。
宝塚の募集要項と異なってくるのは、給金や支給品の説明が明記されていることか。「女生徒は研究科生にも研究費を支給し、物質的憂慮を控除せしめて専心技芸の練達を助け、練習楽器其の他研究消耗物一切の支給は、勿論寄宿舎の設備ありて随時自由に宿舎の便を計って居ります」――川端康成の『歌劇学校』は大正~昭和初期の宝塚少女歌劇を舞台にしているが、そこには歌劇学校に入学した主人公が給料を貰って戸惑うくだりがある。お稽古事をしながら給料も出る、というので、貧しい家庭を助ける意味で入団してきた少女もいたことが、『歌劇学校』には書かれている。勿論、華やかな世界に憧れた良家の子女も多かっただろうが(宝塚など家庭訪問までしているくらいだし)、生活が保障されることに惹かれて歌劇入りした少女がいた事実も、忘れてはならないと思う。
また、かなり思い切っているのが、募集要項の次の文言。「特典 無試験々定」「最初より固定給支給」「意志強固スターを志す人、本人履歴書写真送附又は毎日午后来談の事」……試験せず、書類と面談のみで済ませるというのも、奮っている。今更にも程があるが、スター志望で赤玉を訪れた少女達が、その強固な意志で花形に昇りつめたことを願ってやまない……。
宝塚と赤玉の募集要項を紹介したが、本当ならここに、宝塚と並ぶ少女歌劇団である松竹(東京・大阪)のそれも載せなければならなかっただろう。ところが生憎、資料が手元になく……。いずれ手に入れたら追記したい。
○参考資料
『宝塚少女歌劇脚本集 歌舞伎座第三回公演特別号』(宝塚少女歌劇団、1929年)
『宝塚少女歌劇脚本集』(宝塚少女歌劇団、1934年)
『宝塚少女歌劇星組出演脚本集 東京宝塚劇場公演脚本解説 第二十二号』(宝塚少女歌劇団、1935年)
『ムーランルージユカーニヴアル 赤玉少女歌劇特別公演』(赤玉少女歌劇団、1935年)
『宝塚少女歌劇花組出演脚本集 東京宝塚劇場公演脚本解説 第二十七号』(宝塚少女歌劇団、1936年)
『宝塚春秋八月号』(宝塚少女歌劇団、1937年)
『宝塚春秋四月号:宝塚少女歌劇脚本集 昭和十三年四月 第五十一号 東京宝塚劇場雪組公演』(宝塚少女歌劇団、1938年)
『宝塚少女歌劇脚本集 月組公演』(宝塚少女歌劇団、1939年)