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短編集『お友達になろう?』について、他

 皆様、随分ご無沙汰をしております。マキシでございます。
 短編集として『お友達になろう?』を書き始めましたので、まずはそのご報告でございます。

 書き始めたとはいえ、あまりたくさんネタを抱えているわけでもなく、思いついたら書き連ねようと考えているくらいですので、例によって温かい目でお見守りくださいますと重畳でございます……(震え声。

 まずはタイトル(というかテーマ)についてですが、これはツルリンゴスター殿のお書きになっている漫画、『いってらっしゃいのその後で 転がり続ける毎日編』の二巻目からいただいたものでございます。

 物語はお子さん三人を育てておられるご夫婦の日記のような内容なのですが、その一幕としてお母さんが知り合ったママ友さんと上手に会話できなかったことを気にして四歳になる女のお子さんに『友達ってどうやってなるんやろなー』と聞くシーンがありました。
 するとその女の子は、
 『一緒に遊ぼ―? って言うんだよ』
 『それから』『おともだちになろう?』『よ』『って』『言うんだよ』
と答えるのです(『やさぁ~しくっ やさぁ~しくだよっ』だそうです)。

 ワタクシすっかり感動してしまいました。なんと美しい言葉だろうと……!!
 上記から(まるっきりパクリなのでツルリンゴスター殿に怒られたらどうしようって感じではあるのですが)この美しい言葉をテーマにした短編を書いてみたいと、色々できそうじゃあないですか、と思ったのです。

 この短編集はこのようにツルリンゴスター殿からいただいたインスピレーションですので、よかったらこれをお読みの皆様も同様に短編など書いてみてはいかがかとご提案などさせていただいたりとかなんとか。

 第一話の『ハナ』は友達作りが苦手な女の子の物語です。よく耳にするお子さんのお話で、『SNSですぐメッセージ返さないとハブられる』とか、『話題についていかないと友達なくす』とか、友達作りに苦労している様子を散見しているうちに思いついたお話です。友達作りって独りになる覚悟というか、腹を括るようなことができないと『友達作り』そのものに振り回されちゃうようなところがあるとワタクシは考えておりまして、だからそんなことに振り回されなくったって、あなたは大丈夫なんじゃない? って言ってみたくて書いたお話です。

 ところで話は少々変わるのですが、最近見ていて好きになった『異国日記』というヤマシタトモコ殿の書かれた漫画を原作にしたアニメがあるのですが、その中で主人公の一人、朝という女の子が同居することになった叔母さんを『変な人』と称し、友人に向かってその叔母さんと一緒なのは変だと繰り返し言うシーンがあったのですが、そのシーンを見て思ったのです。『人が人を変だと思うのはどのような場合か?』と。

 例えばある行動をとる人がある社会、あるいは集団の過半数存在した場合、その行動をとる人を『変だ』という人はまあいないと思います。それでは半分では? 四分の一では? と考えていくと大体百分の一以下とか、集団の規模にもよりますが千分の一くらいまで少なくなれば『変な人』になるのでは? と考えました。だから『変な人』だと他の人から思われたくない場合、大抵の人は百分の九十九とか千分の九百九十九の人がやっていることに倣うのだろうと思うのです。

 しかしここで私は注意が必要なのだと思うのです。大多数の人があることをしているからと言って、それが正しい、もしくは真理に沿ったものだとは限らないからです。 
 つまり『変わっているようにみられたくない』人は正しいか、真理に沿っているかとはあまり考えずに『変わっていない』ことを選択しているのかもしれないな、と。

 まあとは言えその人の行動の責任はその人自身のものなので、どういう行動をとるかはその人が決めればよいのだとは思うのですが(だから安易に他人の言うがままに行動することは危険だと思うのです)、そこで翻って自分のことを考えた場合、仮に万分の一、億分の一の人がとる行動がワタクシの目に奇異に映った場合、私はその行動が真理に沿ったものか見極められるかと言うことが気になるのです。

 例えそれがどんなに少ない人々の行動であったとしても、それが真理に沿ったものであったならば、それを見抜ける自分でありたいと思うのです。

 長くなってしまいました。今回のところはこれまでと致します。
 それではまた! 皆様に幸多かれ!
 

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