と、仰々しいタイトルですが、書こうと思ったのは生成AIについて。使用されてますか? 私は雑談とかシステム設計まわりの内容をあーだこーだという目的で使用しています。
ここに投稿するからには小説に使わないのか? とあるかもしれませんが、いかんせんどうカメラを動かすか(描写するか)を楽しみに書いているとこがありますので、カメラを奪われたくはないんですよね。
さて、生成AIに対する推進と反対という派閥が存在します。
検索システムとかには往々にして使われており、ソフト開発の難易度が下がった! などのレベルの高いとされていた敷居が下がったなどと言われています。こちらに関しては派閥というものはあまり見受けられないように感じます。人の書いたコードでないとダメだ! なんて聞いたことがありません。むしろ人のほうが信頼できないというか。
一方、作品と呼ばれるものに対してそれらを用いることは派閥が生まれてますよね。特にイラストとか絵などの一枚物です。
ソースがあるから生成AIの出力は盗人だ。あるいは、絵筆やタブレットと同じ道具として利用しているだけだから作品としていいはずだ。そんなものですね。
私としては、描きたいものがあるなら描け、ただしそれを言葉にすらできないのなら、それは作品ですらない。ただの言葉に含まれる要素を出力しているだけだ、というスタンスです。
要は、プロンプトで単なる花を出力させたものを作品として胸を張るな、ということです。出力したいと願うなら拘りを示してみろ、という。ヘキとも言いますね。
思いついたそれを出力したい。それが創作の根幹であるはずです。
たとえ元ネタがあったとしても、咀嚼し、飲み込み、消化した結果、出力できたものが創作なわけです。
先ほどの花を出力した例だと、単に花というものがある、という咀嚼で止まっている。
仮にコレを消化まで持っていくのならば、色、葉、形、群生しているのかどうか、他に映るものはないか……それらが揃って初めて創作の域に到達するのだと思っています。
もちろん、多くの問題があるのは間違いないでしょう。学習ソース、誤りの情報、できないこと……しかしどちらかの意見を支持するとしても、もう一方の意見や有用性を無視することは、バランスを崩してしまうことに他なりません。
もちろん、絵筆を取ったと騙ることはいけませんけども。ああ、英語圏かどこかては、生成AIを利用した生成者を「クリエイター」ではなく「プロンプター」と呼んだりもするらしいですよ?